再生の炎13
それから、二年。
うららかな春の陽気が、窓の外から吹きこんでくる。
心身が澄み渡るような爽やかな良き日に、なぜか私はフォルケ神官の無駄話を聞かされていた。
「だからな、ナノボットの中でも、フェニックスは大分書かれ方が違ってな。呼びかけ方が違うというかなんというか……。フェンリルやユグドラシルは仲間であっても別な存在なんだが、フェニックスだけは同じ存在として、人間相手に語りかける感じでなぁ」
だから解読が大変だった、とフォルケ神官は肩をすくめる。
「その辺の特異性もあるのかね? 今の神殿が、フェニックスを忘れて竜神を祀っているのは。そこんとこどう思う?」
不良神官は、学究の徒らしい好奇心に満ちた、しかし真面目な眼差しで私に意見を求めて来る。
それに対し、私も出来うる限りの真摯さで応じることにした。
「用件がそれだけならさっさと帰って下さい。控え目に言って書き損じ書類より邪魔です」
「本命の用件なら最初に言っただろ? 金くれよ」
あんた、そこから息継ぎすらしない勢いで、前期古代文明の古文書の内容に突入したじゃないですか。
「いや、そもそも人の顔見るなり金くれって一言だけで、お金が出るわけないでしょう。きちんと事情と金額を申告して下さい」
こちとら、遊びではなく趣味で仕事を、やっているんですから。
就業中の人間として真っ当な私の意見だったが、流石は不良神官、モラルやルールなど知ったこっちゃねえと傍若無人な態度で自分の要望だけを述べる。
「そんな面倒なことしなくても、アッシュならこっちの事情は把握してるだろ? うちの報告はきっちり挙げてるんだから」
「ええ、フォルケ神官ではなく、ルーシアさんがね」
あなたがふんぞり返って言う資格はないですよ、と教えてあげたのだが、当の本人は自信満々の態度を崩さない。
「いいんだよ、あれは俺の部下なんだから。部下の仕事は上司の手柄だ」
「一理ありますが、部下が上司の分の仕事をしているなら、その上司はいりませんね」
「お、そうだな? じゃあ、ルーシアを孤児院の責任者にして、俺は楽隠居と――」
「ははは、孤独死した神官のお葬式まで何か月持ちますかね?」
「……何週間だろうな?」
そこまで自覚があるのに治らない生活習慣って、もう病気にカウントしていいですね。
まあ、フォルケ神官がお金が欲しい、と陳情しに来た理由は、確かに把握している。
孤児院の運営に、今ある予算では厳しいようなのだ。これについては、フォルケ神官の下で孤児院の運営に関わっているルーシア嬢から、きちんと報告が送られてきている。
だから、まあ、準備はしておいたのだ。
「フォルケ神官、こちら、どうぞ」
「おう」
書類を一枚差し出すと、フォルケ神官はそれがなにかわかりきっている様子で受け取る。
「お、クイドのところの物品引渡書か」
ノスキュラ村時代の知り合いの名前に、あいつも偉くなったもんだ、と元亡者神官は笑う。
「辺境の片隅の村で行商していた木っ端商人が、その村の農民の倅と一緒に、いまや辺境伯領の政策をぶん回しているとはなぁ」
「最近は、そんな昔の話を持ち出す人もずいぶんと減りましたねぇ」
「そりゃお前、今のお前とクイドの機嫌を損ねたら、首が十個あっても足りねえだろうからな」
私とクイド氏の身分が高くなったことを、フォルケ神官はきちんと理解しているらしい。
「じゃあ、フォルケ神官は、首が百個くらいあるんですかね」
私の台詞に、今でもよく、「よう、クソガキ」とドアを叩いて入って来る礼儀知らずは、ぺちぺちと自分の首を叩いて見せる。
「三神のご加護もあらたかな大神官様だからな。千本あるのが見えないか?」
「見えませんね。これまでの無礼の代償に狩りきったのでしょう」
にやにやと不敵に笑うフォルケ神官は、次の私の台詞に笑みを引っ込めた。
「私の可愛い首狩り姫が」
「おい、やめろ。冗談にならないラインってのがあるだろ」
なんですか、その反応。
どうしてこれが冗談にならないのだろうか。フォルケ神官とマイカは仲が良いはずなのだが。
「いや、確かにマイカとなにかあったってわけではないんだがな……。あいつも俺とお前の仲は知ってるし、この会話を聞かれても怒らないはずなんだが」
それでも、フォルケ神官は空寒そうに身震いする。
「ま、まあ、いいさ。追求しない方が幸せな謎ってのも世の中にある」
今のあなたが言うと含蓄がありますね。
気分を変えようと、フォルケ神官はテーブルの上のお茶を口一杯に放り込む。
ビルカン大神官長がトマトソース缶(最高級の金の缶詰)のお礼として送って来てくれた、最高級の茶葉なのだが、風味を楽しむ前にフォルケ神官の喉の奥に消えていってしまった。
「衣服と寝具、それで足りるでしょう?」
「ああ、十分だ。助かる」
「お礼ならルーシアさんに言って下さい。報告書が適切だったので、こうして準備できていたんですから」
「ああ、すっかり――」
言葉の途中で、私の執務室のドアがノックされた。
「もしもし! アッシュの兄貴! あたしです、ルーシアです! ちょっと目を離した隙にボスがいなくなったんですがひょっとしてここにいるんじゃないかと思ったんですがやっぱりいました!」
最後の台詞が過去形になったのは、台詞の途中でドアを開けて入って来たからだ。
もちろん、私が入室を許可する言葉を発する暇はなかった。
汗で前髪を張りつかせ、ほっとした顔をしているのは、十代半ばの少女だ。
フォルケ神官と同じ神官ローブを着ている。
「おい、ルーシア。お前な、孤児院じゃないんだから、きちんと入室の許可を取ってからドアを開けろよ」
礼儀を諭すフォルケ神官とか、ものすごく珍しいものが私の執務室に出現した。
思わず、私は眼を見開いて感嘆してしまう。
「だってボス! ボスが兄貴に失礼なことをして死刑にされるかもしれないと思うとあたし心配で! ボスの無礼さはあたしらが一番よく知ってるんですもん!」
「俺はいいんだよ。てか、お前の方がすげえ無礼なんだが」
「あたしはいいんですよ! こんだけ可愛ければ大抵の男は笑って許してくれんですから!」
どっちもよくありませんよ、と私は小声で呟いておくが、二人には全く届かなかった。
この二人は、フォルケ神官がここで新しく作った第二フェネクス養護院の院長と副院長である。
孤児をたくさん集めた施設の、院長と、副院長が、これである。
……ポジティブの限りを尽くして表現すると、ものすごく逞しい子供達が育ちそうですよね?
ちなみに、このルーシア嬢は、王都のフェネクス養護院の第一期生である。
つまり、フォルケ神官が大人げなく思い切り喧嘩して屈服させた悪童の一人であり、その後にフォルケ式教育を受けて王都一と称された孤児の一人である。
フォルケ神官が王都を去る時、第一期生の半分は王都の孤児院の運営に残り、もう半分はこっちにやって来た。
その理由は、「ボスが行くならどこまでもついて行く」だそうです。
完全に反社会勢力の一味のノリだ。とても聖職者の所業の結果とは思えない。
「ああ、もう! 兄貴、アッシュ兄貴!」
「はい、ルーシアさん。でも、私はやっぱり兄貴って呼ばれるのは違和感があるのですが」
「え?」
ルーシア嬢は、熱量がゼロになったかのように、不思議そうに首を傾げる。
「でも兄貴は兄貴ですよ?」
「うーん、私、兄弟はいないのですけど」
「でも、うちのボスの教え子ですよね?」
「ええ、まあ、分類上は?」
「じゃあ、やっぱり兄貴ですよ!」
この人達、施設仲間は全員家族の認識になってるんですよね。
で、家長ことボスであるフォルケ神官の教え子第一号の私が、長男らしいです。第二号のマイカのことは姉貴って呼んでます。
「だから、兄貴! 兄貴もうちのボスに言ってやってください! 時と場合と相手を選んで喧嘩を売れって!」
「それをお前等に教えたのは俺だろうが! このクソガキ相手にはいいんだよ、礼儀なんて!」
時と場合と相手を選ぶのは賛成です。
なので、目の前に出現した不毛な場合には相手したくありませんよ。
だって、どこからどう見ても、仲の良い父と娘が、互いに心配しあっているようにしか見えませんもん。
その心配の種が私で、でも私が長男役で、お父さんの説教に手を貸してくれって頼まれているのは、素晴らしく混沌としている。
けれど、まあ、家族のじゃれあいに口を出すのも野暮というものだ。
「まあ、そのまま気が済むまで続けて下さい。私はちょっと外を見てきますから、ここを使っても大丈夫ですよ」
「ああ、兄貴!」
「おいアッシュ、待て!」
仲良し父娘の声を置き去りに、私はドアを閉めて、持ち出した剣をドアにつっかえさせておく。
戸締り良し、と。
どうやら孤独死の心配はもういりませんか――ドアを乱打する音と罵声に、私は満足を覚えて立ち去った。
*****
執務室から外に出ると、そこは要塞だった。
最近の私の仕事場は、人狼の大群を退けたあの要塞だったりする。
これは、軍事的脅威に備えているわけではない。 ヤソガ子爵領とサキュラ辺境伯領、その中継点として要衝にあるため、緊急災害対応室が陣取るには丁度良かったのだ。
サキュラ辺境伯領に集まった難民・物資を、ヤソガ子爵領へ送り出す。
逆に、ヤソガ子爵領からの難民や要望をここで一度管理し、辺境同盟全体に受け渡す。
この流れを作り、関係各員が順応したと判断できたのは、つい最近のことだ。
ようやく、今回の災害に対して、解決の目途が立ったと言えよう。
「あ、アッシュ、丁度良いところに。今、会いに行こうと思っていたんだ」
この難事の道筋を作った立役者が、清爽な笑みと共にやって来た。
私の婚約者にして、現ヤソガ子爵のアリシアである。
壊滅した領地の立て直しを任された領主、という激務に当たって二年、並みの人間ならやつれそうなところを、アリシアは逆にパワーアップした感がある。
どことなく儚げな印象がつきまとっていた清楚な美貌は、今は見る者が一礼したくなるような強さに満たされている。
王都の土より辺境の土の方が性に合うと、常々彼女は口にしているが、本当にそうなのだろう。
「おかえり、アリシア。そっちは順調?」
「もちろん。管理可能区画が増えていく段階に合わせて、帰還民も増やしているからね。サキュラの方でしっかり調整してくれているから、とっても助かってる」
頼もしいご返事である。
王都のごたごたでヤソガ子爵領の対応が遅れたことは痛恨であり、いまだに王都へ全力疾走からの右ストレートをかましてやりたいところではある。
あるのだが、ヤソガ子爵となったアリシアの手腕は、右ストレートを左ストレートに変えて差し上げるのもやぶさかではない、というほどに期待通りだった。
ちなみに、今の私は両利きである。
アリシアの有能はアリシアの手柄、王都の無能は王都の責任。
それはそれ、これはこれである。
ともあれ、アリシアの手腕は、見事だった。彼女の生まれと、培ってきた経験をいかんなくぶちこんだスマートな力技だった。
まず、元王女殿下は、マイカの偵察によって目星をつけていた廃村に進出すると、元は一農民の家らしき建物に腰を下ろした。
比喩ではなく、元王女殿下御自ら、先陣切って廃村に寝泊まりを始めたのだ。あと、そのお付きの侍女団。
マジであの人達、気合入っていますよね。このプランを聞かされた時は背筋が震えた。
そんなことされたら、「初代様は開拓民と小屋で寝起きして辺境伯領の礎を積み上げたんだぜ」と日々自慢してやまないサキュラ辺境伯の領民達が黙っているわけがない。
一番黙っていられなかった領主代行熱血派は、兵舎に酒樽担いで突撃して言った。
『おい、野郎共! あの本物の王女様のお供に志願する奴はこいつを飲め!』
酒樽は一時間もせずに空になったし、もう一つ追加された。お供の選抜大会が必要になるほどだった。
辺境伯領が誇る猛者達は、こぞって元王女殿下の熱烈な親衛隊となったのだ。
この領民性を読み切った統率方法には、マイカも「流石アリシアちゃん!」と称賛を惜しまなかった。
領主自らとその護衛が陣取ったとなると、ヤソガ子爵領から逃げて来た難民達も、そこなら安全だと帰り支度を始めるグループが出て来る。
アリシアの目論見通りである。
途中、盗賊の襲撃などを受けたが、アリシアは一歩も引かなかった。
指揮官が退かなければ、士気の高い辺境伯領の戦士達が練度の低い盗賊に負ける要素はどこにもない。
第一次の帰還民を統率し、アリシアは廃村を瞬く間に蘇らせ、これをヤソガ子爵領復興の足がかりとして確保したのだ。
やっぱり、アリシアを奪って来られたのは僥倖だった。
そもそも、このド田舎を知り尽くした有能な王女様とか、存在自体が奇跡みたいなものですよね、この人。
「そうそう、レンゲが作った新しい報告様式、アミンが褒めていたよ。なんて簡潔でわかりやすいんだって」
「レンゲさんも相当量の修羅場をくぐってきましたからね。最近は難民移動の落ち着きも出たので、経験を基に改善に乗り出す余裕ができたのでしょう」
あの内気だったレンゲ嬢も、最近では貫禄がついた。
こなした業務の質と量が、「自分はこの分野ならば余人に後れを取らぬ」という誇りを生んだのだろう。
内面の自信が外側に出ているのか、最近はその美人っぷりも周知のものとなっている。
後輩の部下達が、レンゲ嬢に仕事を頼まれると気合の入り方が違うらしい。
そんなことを歩きながらアリシアと話していると、彼女はくすくすと声を立てて笑った。
「どうかした?」
「ううん、嬉しくなっちゃって」
何がだろう? 私が首を傾げて説明を求めるが、アリシアはくすくすと笑うばかりだ。
実に楽しそうだから、分けて欲しいのですが。
要塞の外に出ると、そこは立派な畑と、簡素な造りの家屋の並びが広がっている。
要塞を振り返らなければ、規模の大きな農村にしか見えない。
軍事施設としては問題があるが、ここは最早、新たな都市となるべき場所なのだ。
ここはヤソガ子爵領とサキュラ辺境伯領の交通の要衝であるため、自然と難民も多く集まっていた。
なので、一時都市二つ分にも達した難民を受け入れるため、ここに新たな都市を一つ作るつもりで計画を進めた結果が、この光景である。
その光景の一端が、やたらと甲高い声で騒いでいる。
蒸気機関に馬車をくっつけたような機械を、子供達が取り囲んでいるのだ。あれは孤児院の子達だな。ルーシア嬢について来たのかもしれない。
子供達は、きらきらと目を輝かせて口々に訴える。
「ねえねえ、お兄ちゃん、乗せてよー」
「乗せて乗せてー!」
機械と一緒に取り囲まれているのは、我等が研究所副所長のヘルメス君である。
「あー! お前等、危ないから近寄るな! これは修理中だから乗せてやれねえの!」
大抵の機械を大人しく従えるヘルメス君だが、流石に生物はそう上手く扱えないらしい。
ああいうのはレイナ嬢の方が得意ですしね。
「えー、なんだよ、おじさんのケチー!」
「ケチー! おじさんケチー!」
お兄ちゃん扱いから一転、おじさん扱いの大ブーイングである。
「おま! おじさんはねえだろ! お前等が怪我しねーように言ってんだよ、こっちは!」
ヘルメス君が傷ついた表情で言い返すと、子供達は余計に嬉しそうにおじさんコールを始める。
ダメですよ、ヘルメス君、自分の弱みを見せたら集中攻撃してくれって言ってるようなものです。
院長と副院長の薫陶厚いと見える子供達の手によって、ヘルメス君が重症を負いかねないので、私は強く柏手を打って存在をアピールする。
なぜか、取り囲まれた方も取り囲んだ方も、私を認識すると目を輝かせた。
「あ、アッシュ! 丁度良いところに! こいつら何とかしてくれよ!」
「あ、アニキだ!」
「ほんとだ、アッシュのアニキだ!」
ええ、そうですよ。私が兄貴です。
本当に、副院長の薫陶が厚いようでなによりですよ。
「皆さん、お仕事をしている人を困らせてはいけませんよ。そのお兄ちゃんはとっても偉い人ですからね」
この言葉の意味、薫陶厚い子供達ならわかりますね?
私がにこっと笑いかけると、子供達は背筋を正して声をそろえた。
「お兄ちゃんごめんなさい!」
「ごめんなさい!」
はい、よく出来ました。
良い子には飴ちゃんをあげましょう。
蜂蜜で作った飴玉の入った瓶を手渡すと、子供達は宝物を掲げるようにして走り去っていく。
「いやあ、元気で良い子達ですね」
「良い子、なのか?」
私の呟きに、疑問たっぷりの声音で、ヘルメス君は首を傾げる。
「良い子ではないですか。実に欲望に素直で切り替えが早くて、将来有望です」
「俺の思っている良い子と判断基準が大分違う」
「へえ、ヘルメス君にとっての良い子というのは、どういう人なのです?」
「え? まあ、そうだな……聞き分けが良くて、良し悪しの判断がついて、後はハキハキ喋る、とか?」
「全部、あの子達に当てはまると思いますけど?」
その相手は権力者だよと教えたら聞き分けられて、状況の不利有利を判断できて、大きな声で謝罪ができていた。
素晴らしい戦術行動であるな。
第二フェネクス養護院の子供達が成長したら、優秀な人材がまた増えそうだ。
私ももうちょっと手が空いたら、本格的に勉強を見に行けるのだけど。
「そうなんだけど、そうじゃねえんだよ……」
ヘルメス君は、話が通じないと言いたげに、大きく溜息をはく。
「どうやらお疲れのようですね。ヘルメスさんもこちらの飴をどうぞ、元気でますよ」
別な瓶から蜂蜜飴を取り出して、ヘルメス君の口にオーバースローで放り投げる。
「むぐっ」
ストラーイク。
「おまっ、危ないことするなよ!」
「大丈夫ですよ。口の動きを見てますから」
身体能力が人類を限界突破してますからね。スーパーマンの日常みたいな楽しみができる。
「そういう問題じゃねえんだよ。……でも、美味いな、これ。甘い」
「でしょう? ノスキュラ村のものです」
「へえ、お前のとこのか。あそこも色々やってること増えたなぁ」
ターニャ嬢の養蜂業の成果である。
これなら日持ちもするし、満足感もあるし、栄養価も高いからと、難民が多い場所に丁度良いだろうと送ってくれたのだ。バンさんとジキル君からは、干し肉も届いた。
お腹に溜まるお肉と、甘い飴。
大量とはいかないが、日々の苦労を和らげるには貴重な支援物資だ。
ヘルメス君は、もごもごと舌の上で甘味を転がしながら手を動かしていたが、やがてその手で額の汗を拭う。
「いよし、終わった。修理完了だ」
「流石、お見事です」
ヘルメス君が修理していたのは、プラウなどの農耕器具をつけるための蒸気機関車――つまり、農耕トラクターである。
「大したことねえよ。負担のかかるクランクが摩耗してただけだからな。交換しただけだ」
「素人にはまず、その原因を探すことから難しいですし」
「そこはこっちもプロだからな」
ヘルメス君は、まんざらでもなさそうに頷く。
もちろん、ヘルメス君がいくら凄腕でも、何の設備もなしに修理ができるものでもない。
領地改革推進室の第二研究所が、この軍事要塞とセットになって作られたからこその芸当だ。
お金はたくさんかかったけれど、「研究所が増えたら最新技術を教える機会が二倍になりますね」と呟いたら、辺境同盟の皆さんがこぞって寄付をしてくれた。
気前の良い人ばかりで私はとても嬉しいです。
「こいつはヤソガに送るんだろ? アリシアんとこ」
元王女殿下、現子爵閣下に対して、ヘルメス君は実に親し気に呼び捨てにする。
本人曰く、アーサーの時に散々呼び捨てにした後で、今さら畏まるのはしんどい、とのこと。
「うん、ありがとう、ヘルメス」
呼び捨てにされた方も、軍子会時代を思い出して嬉しいと喜んだので、そのようになっている。
政治的立場がどうなっても、仲間なんだなぁ、と私もほっこりしてしまう。
「でも、本当に助かるよ。今の蒸気機関は馬よりずっとパワーがあるから。この春のうちにヤソガの荒れた畑をどんどん耕し直せる。秋の収穫に期待できるよ」
「機関は俺の仕事だけど、畑についてはスイレンの仕事だぞ。今年の秋には、ヤソガ・サキュラの全領民の腹を満たしてみせるとかなんとか、気炎あげてた」
「それはわたしも是非そうするつもりだよ。今日はそのことを話しに、ここまで来たのだし」
アリシアは穏やかな表情ながら、強い意志を滲ませて頷く。
成功を予感させる凛々しい婚約者の表情は、でも、と続く呟きで、途端に色を弱めた。
「ごめんね、ヘルメス。研究所の仕事、もうずっと難民対策にかかりきりだよね?」
仲間の夢がなんであったかを知る口調で、アリシアは頭を下げた。
責任感の強い、真面目なアリシアらしい気遣いだったろう。
それに対して、偏屈な夢追い人は露骨に不機嫌そうになった。
「よせよせ、アリシアに詫びてもらうようなことじゃねえよ。気持ち悪い」
しかめた顔は、言葉以上に心底気持ち悪そうだった。
「でも、ヘルメス」
「あのな、アリシア」
なおも謝罪をしようとする仲間に、偏屈な夢追い人は考えてみろ、と例え話をした。
「俺がもし、飛行機の研究のためにアリシアの手を煩わせて悪かった、なんてお前に言い出したら、どう思う?」
「それは――」
アリシアは、申し訳なさそうだった顔を、へんてこな感じに歪めた。
それは、ヘルメス君の気持ち悪そうな表情に、よく似ている。
「それは……気持ち、悪いね」
「それだよ。俺が今、アリシアの台詞に感じたのは、まさにそれ」
二人は、気持ち悪そうな表情で、頷き合う。
「なんだろう、この、身に覚えのないお金を贈られたような感覚」
「なんか罠じゃねえかっていう寒気が走るだろ」
「変なこと言ってごめん」
「わかれば良いんだよ」
多分、信頼度がマックスだから、変に畏まられるとドッキリを警戒するんでしょうね。
この程度の手間、仲間同士なら当然だ、という麗しき精神の弊害である。
「それに、飛行機の研究も全く進んでないわけじゃないんだ。風洞実験は何度もやってるし、エンジンの改良点も洗い出した」
ヘルメス君は、嬉しそうに拳を打ち合わせる。
「そろそろ仕事的にも余裕が出て来たし、温めた分、ここから一気に進めるさ」
「それは素敵なニュースです。お金は大丈夫ですかね?」
「あるに越したことはないが……素材は研究用に確保済みだから、そんないらないだろ」
なるほど。
ということは、私が長いこと放っておかざるを得なかった待ち合わせ相手の下へも、その結果次第で行けそうですね。
まあ、魔物と意思疎通できたり、飛竜が助けてくれたりしたことと、フォルケ神官の古文書解読結果を組み合わせれば、おおよそこんな感じの話になるんじゃないかとは思っているのだ。
「あれ、皆してこんなところに! やっほー!」
そこに、大きく手を振りながら嬉しそうな声がやって来る。
領都から連れだってやって来たマイカだ。その後ろにはレイナ嬢も見える。
「アリシアちゃん、久しぶりー!」
駆け寄って来た勢いのまま、マイカはアリシアに抱きつく。
この要塞にいる私は二人とよく会うのだが、ヤソガ子爵領にいるアリシアと、サキュラ領都にいるマイカは中々会う機会がない。
仲良し二人は、久しぶりの再会に嬉しそうに抱擁しあう。
「マイカは相変わらず元気そうだね」
「もちろん! アリシアちゃんがそっちで頑張ってるからね、あたしも頑張らないと!」
オープンに家族愛を確かめ合ううちの婚約者とは裏腹に、レイナ嬢はさり気なくヘルメス君の隣に移動しただけだ。
「後でグレンとレンゲ、スイレンも来るわ。今日は久しぶりに推進室勢ぞろいね」
「にぎやかになりそうだ」
そうね、とレイナ嬢は隣のヘルメス君に頷く。
不思議なことに、レイナ嬢はあまり楽しそうではなく、心配と不愉快をない交ぜにした表情だった。
「多分、一番にぎやかなのはヘルメスよ」
「は? なんで?」
ヘルメス君の疑問はもっともだ。
今日の話し合いのメインは、ヤソガ子爵領の畑をどれだけ広げるかだ。
主役は農業計画の主担当スイレン嬢と、資源分配の調整を担当するレンゲ嬢、それからヤソガ子爵領責任者のアリシアになるだろう。
ヘルメス君は、畑を広げるために使う道具・機械の修理や製造について、ちょっと意見を述べるくらいというのが妥当な予想だ。
ヘルメス君が一番にぎやかになる場合で考えられることと言うと……。
「飛行機関連でなにかありました?」
私がマイカに視線を向けると、彼女は頬を膨らませて封筒を一枚、取り出した。
封筒のごてごてした装飾を見ただけで、辺境からの便りでないことはすぐにわかる。
「中央からの手紙ですか?」
「中央も中央、王都の王子からだよ」
わあ、何一つ愉快そうな気配がしない差出人ですね。
しかも、王子と飛行機関連とは、何の接点もなさそうな組み合わせだ。いや、うちの研究所以外で飛行機と接点があるところなんて滅多にないのだが。
私が封筒の中身を取り出すと、ヘルメス君も横から頭を突き出して覗きこんでくる。
飛行機関連というニトロな話題に、頭突きをかます勢いだった。
「王都で行われる、世界初の有人飛行機のお披露目、その招待状ですか」
「なっ――!」
私と同時に内容を把握したヘルメス君は、驚愕と困惑と憔悴が混じった大声を――
「んむぐふっ!?」
あげさせませんでした。
騒ぐであろうと判断した瞬間、私がその口をふさいでやりました。だって、この距離でヘルメス君が大声だしたら、私の聴覚が大損害を受けてしまう。
「ヘルメスさん、落ち着いて下さい。騒いだってお披露目とやらの内容は変わらないのですから」
「むぐううぅ……!」
「まあ、お気持ちはわかりますけどね。レイナさん、後はお任せします」
私がヘルメス君を引き渡すと、保護者は慣れたもので即座に自分の手で口をふさぎ直した。
「ほら、アッシュの言う通りなんだから騒がないの。良い子だから、ね」
これでヘルメス君の処置は済んだので、私はマイカの方に招待状を振って見せる。
「それで、一体なにがどうなってこんなものが届いたのか、追加の情報があるのでは?」
「おぉ、冷静だね、アッシュ。ちょっとホッとしたよ」
猛獣の檻にきちんと鍵がかかっていました、みたいな安堵が、マイカの表情に浮かぶ。
「なにを心配してくれてたのかわからないけど……」
私が心配性のマイカに苦笑すると、アリシアやレイナも、同じような表情を私に向けている。
ヘルメス君は絶賛感情にニトロがぶちこまれて忙しいので、彼だけが例外だ。
どうやら私は誤解されやすいようなので、自分の温厚さと理性が紳士と呼ばれるに足る基準であることを表明しておく。
「これくらいで焦ったり慌てたりはしませんよ。そもそも飛行機を造ろうと思えば、知識そのものは神殿に遺されていたわけですから、私達以外が研究を進めていてもおかしくありません」
ヘルメス君だって、今は私達の仲間だけれど、元々一人で研究しようとしていたのだ。
王都ほど研究環境が整っていれば、私達とは別に開発を進める人がいてもおかしくないだろう。
先を越されるのは残念、という思いはあるが、ヘルメス君のように瞬間沸騰するほどではない。私の目標は単なる飛行ではなく、経済的な飛行なのだ。
むしろ、私達とは別に飛行機を造り上げた人ならば、是非とも一度会って話をしてみたいものだと、私は微笑む。
きっと、あそこでレイナ嬢に抑えこまれているヘルメス君と話が合うに違いない。
まあ、ライバルになるから、合うと言ってもぶつかり合う、とか表現されるかもしれないが。
「ですが、そんな面白い人がいるなら、ビルカン大神官長が私に教えてくれていたと思うのですが……」
そこがよくわからないので、補足の情報があるのではと、マイカに再度視線を向ける。
「ああ、うん、まさにその情報がビルカン大神官長から届いてるよ」
えっとね、とマイカが可愛らしく前置きをしたので、私は心穏やかに説明を受け入れた。
「もう四年前だっけ? ダタラ侯爵のせいで領内がごたごたしたじゃない? その時、密偵に研究所の資料をちょっと盗まれたって報告があったんだけど……うん、まあ、そうなの。どうも、それがダタラ侯爵のところから王子の手元に流れたみたいでねぇ」
今さらもうやんなっちゃうよね、とマイカはごもっともな感想を付け足す。
ごもっともすぎて、マイカ印の穏やかな心をもってしても抑えきれない激情が限界突破してくる。
「そうですね本当もう嫌になってしまいますねふふふふ」
右ストレートだ。
全力疾走からの右ストレートでぶっとばしてやる。
道理で、招待状のタイトルから気にくわなかったわけですよ。
「世界初の有人飛行機」なんて詐称も良いところだ。
まともに文献を読んでいれば、先達への溢れんばかりの畏敬の念から「世界初」なんて表現が使えるわけがない。
そこは「復活」とか「再生」とかそういう表現にしとくべきものでしょうが!
そうだ、奴等は盗人だった。
話が合うはずがない。
こっちが挨拶のために頭を下げればカカト落としを決めてくるような蛮族だ。
こっちが善良で大人しい紳士淑女だからと調子に乗りやがって。僭越ながら物言わぬ先人達になり変わってぶん殴りに行くからな。
塩水でうがいして楽しみに待っていろ。
「マイカ……こうなるの、わかってたよね?」
「最初のリアクションが落ち着いてたから、ちょっと期待しちゃったところはあるよ」
「これは無理だよ」
「無理だったねぇ」
よーし、そうと決まればこの招待に応じて差し上げましょう。
まずは相手の面を見てから殴り方を決めてやる。
私が視線を向けると、レイナ嬢はさっとヘルメス君の拘束を解いた。
うん、ありがとうございます。
「ヘルメスさん、あなたも行きますよね、このお披露目」
「おう! 行くに決まってんだろ! 連中の猿真似がどれほどのもんか見てやる!」
「楽しみですねぇ」
「たっぷり笑わせてもらおうぜ」
ええ、私もニトロをぶちこまれたヘルメス君に追いつきましたよ。
これから二人で王都まで全力疾走しましょうね。ヒーローものみたいにタッグでダブルパンチをかましてやりましょう。
「レイナちゃん、大事な話があるんだけど」
「聞きたくないわ……」
「気持ちはわかるけど、今回王都へ付き添うのはレイナになっちゃうっていう大事な話だから」
「それを聞きたくなかったのよ!」
「だって、あたしとアリシアちゃんは今ここを離れる訳にいかないから」
女性陣は女性陣の方で話を進めているようだ。
こちらもこちらで準備を進めよう。
「とりあえず、この後のヤソガ子爵領についての打合せが終わったら、王都行きの準備をしましょう。ヘルメス君も、引き継ぎを手早く終わらせて下さい」
「おう、任せとけ。あと、こっちの飛行機製作の準備も始めさせておくぞ」
あっちのお披露目が終わったら、次はこっちの番だ――とヘルメス君は口の端を吊り上げる。
先に向こうが飛んだとしても、すぐにひっくり返してやる。そんな自信と決意に満ちた笑みだ。
頼もしい我らが副所長に、私もつられて笑い返す。
「ほら! あれ見てよ、あれ! 完ッ全に魔王とその腹心って絵になってるじゃない!」
「ううん、カッコイイなぁ、アッシュ……」
「なにが来ても踏み潰してくれそうな安心感にキュンとするよね」
「ま、まあ、それはね? 悪くは、ないわよね?」
ガールズトークも盛り上がって楽しそうだ。
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