灰の底16
ターニャ嬢の家の前であぐらをかいて座って待つこと三分、待望の本を手にすることができた。
それを見た瞬間、私は緊張してしまった。
予想以上に傷みが激しい。
装丁がボロボロだ。乱暴に扱われた形跡はないので、経年劣化によるものだろう。
これを外まで持ち出したのは失敗だ。
痛恨の念を覚えながら、持ち出してしまったのだからページをめくる。
本当は屋内で大切に読むべきだとはわかっているのだが、読みたくて読みたくてしょうがない。
その代わり、読んだ文字は一言一句、頭に叩き込む所存だ。
気合と、根性と、執念を見せつける時は今だ。
本のタイトルは掠れて消えた部分があるが、『実践養蜂術』と読める。タイトルからして当たりだ。
「素晴らしい……」
中を開くと、この村の現状からすれば、オーバーテクノロジーとしか言いようのない緻密な記述だ。
養蜂に適したミツバチの種類、活動気温に活動半径はきっちりと数量によって現されている。ミツバチの扱い方、蜜の収穫方法、越冬のさせ方といったことはもちろん、得た収穫物の加工法まで言及したページが存在する。
これ一冊で、見習い養蜂家として立てるだけの情報量である。
さらに、書いてある情報と同じか、それ以上に重要なことがある。この本が造られた年代だ。
かなり古い時代の写本なのは間違いない。字体の特徴から推測するに、後期古代文明初期の本を写したもの、その孫や曾孫に当たると思われる。
はっきり言って、こんな村の家から出てきたことが信じられないほどの貴重品、考古学的資料と言って良い。
フォルケ神官にもぜひ見せよう。あの人も絶対に興奮して喜ぶぞ。
「ほほう。これは、実に興味深い」
非常に丁寧な写本だが、いくつか意味が分からない部分がある。
整然とした文字に、確かな規則性。私が読めないだけで、誤字や脱字ではないようだ。
私の見立てが正しく、これが後期古代文明初期の写本だとすれば、最も色濃く前期古代文明の文化を残した時代に繋がっている。
「これは、とんでもないところからヒントが飛び出してきたようですね。素晴らしい、これは本当に素晴らしい本です」
「そ、そう? えと、それは……養蜂の役に立ちそう、かな?」
「ええ、その面でも実に素晴らしい本のようです。詳しくはもっと読み込まなければなりませんが、これさえあれば養蜂業を行えます。この本以外に必要なものといえば、実践して経験を積むことでしょう」
私は、慎重に本を閉じる。
この場で、この貴重品をこれ以上読むのは私にとっても恐ろしいことだ。同時にひどく快感ではあるのだが。
「ターニャさん、この本は、一体どういう来歴でお父上がお持ちだったのでしょう。もし、ご存知であれば、お聞かせ願えませんか」
「えっとぉ……確か、家宝だって、言ってたわ」
さもありなん。これは、その言葉に見合うだけの価値がある。
「なんでも、うちのご先祖様は、その本を手に入れて、養蜂家を始めたんだって。昔はすごい養蜂家として、名前を知られていた……らしいの」
ただの言い伝えだけど、と肝心の末裔が信じていないように苦笑する。
「きっと、それは事実ですよ。ご先祖様は、この本を読めたのでしょう。ここに書いてある養蜂技術は、非常に高度なものですから」
試行錯誤はしただろうが、成功率は高かったはずだ。なにせ、実験はこの本の著者が、あるいは著者が参考にした先駆者達が、散々に行っているのだから。
「それに、この本は大変古いものです。この本自体も大変な貴重品なのです。宝物だと言っても、決して過言ではありません」
「え、うそ。だって、うちにあったものよ?」
「まさに家宝です。ご先祖様は、この本を大切に大切に、守り繋いで来たのでしょう」
本の表紙に、そっと手を載せる。
この何も語らぬ無口な賢者は、どれほどの時を超えて来たのだろうか。
一体、幾人の人物に、その知恵を授けたのだろう。
ターニャ嬢の一族が、この本を読めなくなってから、すでに長いようだ。それでも、この無口な賢者を家宝として、時の暴君から逃し、今に伝えて来たのだ。
読めもしない本を、心を砕いて守っていく。
面倒なことだ。
意味の見えないことだ。
諦めてしまっても仕方のないことだ。
だが、本はここに残された。ここまで繋がれた。
ターニャ嬢が、その一族に伝えられて来た養蜂技術を見失った、今この時に、繋げられたのだ。
断固たる意志を感じる。時の暴君に抗う、勇敢な意志を。
「ターニャさん、あなたの代々のご先祖が、そしてあなたのご両親が守り通した家宝です。その中身は、あなたに引き継がれたがっているのではないでしょうか」
「中身が、あたしに……?」
「あなたの一族が引き継いだ養蜂技術です。今度は、あなたが引き継いでみませんか」
「あたしが、養蜂家に?」
夢にさらわれたように、ターニャ嬢が呆けた顔で呟く。
「でも、あたしは……本なんて読めない……」
「そんなことは関係ありません」
この無口な賢者の声が聞こえないなら、私が代わりに伝えられる。
命に意味があると言うならば、私は今、間違いなくそのために生きている。
だから、必要なものはただ一つ。
「ターニャさん、あなたが、この失われた技術を引き継ぎたいか、引き継ぎたくないか、ただそれだけです」
時の暴君と戦う意志だけで良い。
膨大な時の流れの中に、このまま一つの知識を埋もれさせてしまうか。
その流れの中に自ら飛び込み、知識をしかと掴んで、次に継ぐ誰かのために掲げるか。
「そんなの、決まってる。ずっとずっと、夢だったの」
彼女の言葉は、素早かった。すでに、熟考は済んでいたのだ。
両親の姿を見て憧れ、両親の死後に募らせていたのだろう。
「あたしは……やりたい。やってみたい。父さんみたいに、母さんみたいに、やってみたい」
ようこそ、夢見て生きる同志よ。
そして、ありがとう、夢見て果てた同志よ。
ターニャ嬢の一族の同志達へ、感謝の祈りをささげる。
あなた方の戦いは、今、確かに報われたのだ。
消えるはずの知識が一つ、受け継がれた。
「さあ、これから忙しくなりますよ!」
秋の大事な収穫期だというのに、全く困ったことです!
だが、今から大急ぎで準備すれば、来年の春に間に合うかもしれない。初めは小規模な試験運用が必要なので、万全でなくても早い方が良い。巧遅より拙速だ。
「よろしければ、こちらの本をお借りしたいのですが、いかがでしょう。家宝ですので、大事なものかとは思われますが、神殿教会で保管しながら読みたいのです」
「ええっと……大事にしてくれるなら、良いかなぁ、と」
「もちろんですとも! この本を粗末に扱う輩はろくな死に方をさせません!」
具体的には、殺鼠剤の開発に挑戦した結果、大量にできた毒薬レシピの実験体にしてくれる。
モルモット君が相手なら致死量も把握しているが、対人用の経験は一切ない。一種類で死ねたら幸せだ。
本によると、上手く使えば麻酔代わりになったり、強心剤になったりするので、医学の発展のためになるべく長く苦しんでもらいたい。
正義の想いを熱く燃やしていると、ターニャ嬢とマイカ嬢が脅えた顔をした。
ご安心あれ、私は悪党ではありませんよ。
****
どこか脅えた顔で、快く、ターニャ嬢は本を貸してくれた。
早速、私はそれを抱えてフォルケ神官の下へと向かう。大分傷んでいるが、神殿の神官達は、本を保管する専門家でもある。これ以上の劣化を防いでくれるだろうし、少しは補修できるかもしれない。
本当は駆けて行きたいくらいだが、マイカ嬢が同行しているので、ゆっくり歩くよう心がけている。
「マイカさん、ユイカ夫人に伝言をお願いしてもよろしいですか?」
並んで歩く少女にうかがうと、彼女は嬉しそうに頬を緩める。
「うん、いいよ」
「養蜂業が始められそうだということ。ターニャさんに養蜂業を継いでもらうこと。この二点でしょうか。後日、詳しい打合せが必要かとは思いますが」
「ん、わかった。その本、私も一緒に読んで、良い?」
「もちろんですとも。難しい内容も多いですが、その分、読み終えた時には大きく成長できます。きっと楽しいですよ」
この素晴らしい知識を、共に分かち合いましょう。
私が満面の笑みを浮かべると、マイカ嬢も気恥ずかしそうに笑った。
友達というのは良いものだ。心が温かくなる。
そんなのどかな空気を、第三者の声がかき乱した。
「おい、アッシュ」
不機嫌な声は、肉体的には二つ年上の少年のものだった。ターニャ嬢の弟の、ジキル君だ。
私が森で遭難した時に組んでいたグループメンバーの一人でもある。ジキル君の背後には、当時のもう一人のメンバーや、普段つるんでいる他の男子もいる。
皆、泥まみれになって遊んで、家で叱られるような元気の良い子供達だ。
「はい、なんでしょう」
「ちょっと付き合えよ」
珍しいことに、私への遊びのお誘いらしい。きつい目つきと、背後の仲間達の非友好的な態度から、遊びの種類は手荒そうだ。
春に山菜取りに入った時もそうだが、私はどうも村の子供達、というより年少の男性陣に嫌われているらしい。
「残念ですが、大事な本を教会に運ばなければいけませんので、また次の機会にお誘いください」
丁重にお断りをする。
今世は他人の悪意の相手をしている暇がない。ゆくゆくのことを考えれば、しっかりお話し合いの場を設けて、関係を構築した方が良いのかもしれないが……損得によるお話が通じない相手は、私の苦手分野だったりする。
「恐いのか」
「ええ、恐いですね」
精一杯、小生意気な声で挑発するジキル君の主張を、微笑んで認める。
医者もいないこの村で、不要な怪我なんてしたくもない。破傷風を筆頭に、ほんのかすり傷でも命にかかわるのだ。
別に、ジキル君が恐いわけではない。その内心が、私の返事から察せられたのだろう。ジキル君の顔がみるみる真っ赤になる。
「行きましょう、マイカさん。この本をあまり外気にさらしたくありません」
「逃げるな、卑怯者!」
ジキル君が大声で怒鳴ると、他の仲間達も口々になじりだす。
意気地なしだとか弱虫だとか、実に微笑ましい罵詈雑言だ。そんなものでは私の心は乱れないぞ。
ちょっとぐらいしか。
何か言い返したくなってくる前に、私はさっさと背を向けて歩き出す。
マイカ嬢が遅れるといけないので視線を送ると、私よりよほど悔しそうにふくれっ面をしている。
可愛いけれど、村長家のご令嬢としてはいかがなものかと思う。
「アッシュ君、あんなこと言わせておいて良いの? アッシュ君が本気になれば、あんな連中こてんぱんなのに……」
いや、流石に多勢に無勢だから、物理的な手段では無理だ。
ジキル君一人を相手にしても、この成長期に二歳も年上なので厳しい。武器ありならかなり自信があるけれど、流石にそれは子供の喧嘩では済まない手段だ。
マイカ嬢が私に顔を寄せてぶつぶつ囁いていると、ジキル君一行の罵声がひどくなる。すると、マイカ嬢の顔が一層険しくなる。
「私が文句言ってくる!」
「まあまあ、マイカさん、気にしないで」
なだめてはみても、それで落ち着くなら人間はもっと高尚な生き物だ。
むしろ、私に怒ったように見えるマイカ嬢に、私は苦笑する。
「そうだ、マイカさん、突然ですが、問題です」
「へ?」
びっくりした声をあげたが、それが狙いなので、驚かせた状態で私は問題を読み上げる。
「真強の勇、偽強の蛮。この意味はなんでしょうか」
「え? えっと、えっと~……確か、あれかな、神殿の本にあった……」
「ええ、その方向性です」
神殿が奉る三柱の中で、戦神とあがめられる龍神の逸話からできた言葉だ。
龍神曰く、強には勇と蛮あり。龍神、その違いを語るに、勇なる者は爪を収むるを知る者なり。蛮なる者は爪で襲うことのみ知る。真の強とは勇の中にあり、蛮の強とは弱の現れなり。
わかりやすい現代の話し言葉に直すと、「強さには勇敢と野蛮がある。勇敢な者は暴力を振るったりしない、むやみやたらと周囲を傷つけるのは野蛮な者のすることだ。真の強さとは勇敢であることを指し、野蛮な強さは弱さの裏返しである」となる。
そこから生まれたことわざが、「真強の勇、偽強の蛮」なのだ。マイカ嬢は、最近はこうした文学的な言い回しまで勉強している。
「あ、わかった! あれは……えへへ、そっか、そういうことなんだね?」
言葉の意味を思い出すと、私の意図を察したらしく、マイカ嬢はご機嫌な笑みを見せる。
露骨な言い方をすれば、あいつら野蛮だから放っておこうぜ、というわけだ。私達はうんうん笑って頷いて、すたすたと教会へと歩いて行く。
解決はしていないが、稀覯本を持った状態でやんちゃなことをせずに済んで良かった。
そう言うには、まだ早かったらしい。背後で人が動いた気配がしたので、振り返ると、ジキル君が石つぶてを拾ったところだった。
その動作の意味するところを想像して、私の思考回路に冷ややかな意志が流れ込んでくる。世間一般では、これを殺意と呼ぶのだろう。
咄嗟に本をマイカ嬢に押し付けて、私は彼女の盾になるように前に出る。
「もしや、それを投げようってんじゃないでしょうね」
「文句あるのかよ!」
あるに決まっている。どうしてそこまで私を気に入らないのかわからないが、本を傷つけたら絶対に許さない。
いざことが始まったら、本はこのままマイカ嬢に死守してもらうとして、できるだけそうならないよう、説得しよう。
「宣言します。あなたがそれを使った場合、何でもありの戦争を仕掛けられたものと判断し、こちらもありとあらゆる武器や道具を使い、徹底的にあなたを攻撃するでしょう」
強めの言葉を多めにして、私が手に負えない相手だと誤解してもらうことにする。
「繰り返しますが、徹底的に攻撃します。槍だろうが罠だろうが毒だろうが、あらゆる方法で、何年でも、何十年でも、攻撃し続けます。今、あなたがその石を投げるというなら、私は生涯あなたを許しません」
攻撃方法に言及した時、私が猟師の手ほどきを受けていることを思い出したのか、ジキル君がひるんだ。
しばらく睨んでおいて、動きがないことを確認して、背を向ける。
このまま睨み続ければ向こうが逃げていくと思うのだが、そこまで追い詰めるのも後々面倒な気がして、私の方から引いておく。本をできるだけ早く屋内に避難させたいというのが、最大の要因だけれど。
マイカ嬢が固まっていたので、手を引いて教会に向かっていると、彼女が顔を伏せながら呟く。
「あ、ありがとう、アッシュ君……守ってくれて」
「当然のことをしたまでですよ」
その養蜂の本は、大変貴重な資料ですからね。