破滅の炎4
アッシュ。
そう呼ばれて、マイカ、と返す。
二人の呼び方が変わって、もう一年が過ぎた。
初めは多少ぎこちなかった互いの呼び声も、今では最初からそうであったかのように往復する。
呼び声以外の日常、意思疎通や生活になれば、疾うの昔から以心伝心の境地に達している。
互いの好みは把握しているし、次に何をしたいかもおおよそはわかっているつもりだ。それが外れた時、相手に未知の部分があることを喜ぶ程度には幸せな人間でもある。
この話を聞けば、私とマイカを「王国中の全恋人の憧れ」と評する人々はさぞ大喜びすることだろう。
ただ、私は声を大にして問いかけたい。
この彼女を見ても、そんな言葉が言えるだろうか。
「アッシュ、あたしね、子供が欲しいな」
日課となっている剣の稽古に、時々混ざるスパイス――勝負に勝った方が負けた方に好きな要求ができる権利――を持ち出して、マイカが微笑む。
完璧な不意打ちだった。
いつもは精々、今日の晩ご飯を作って欲しい、くらいのお遊び程度の権利が、今日の今日は完全にやばいやつだった。
これは私が悪い。
条件を聞く前に、いいよ、なんて軽率に認めてしまったのだ。流石はマイカ、油断を見つけては首を掻き斬りに来る。
「それは困るな」
私は苦笑するのが精一杯だ。
マイカと子供を作るのが嫌なわけではない。どんと来いと言いたい。
ただ、現在では色々と問題があるのだ。
例えば、マイカと私はまだ結婚していないとか、もうちょっと医療技術を向上させて母子ともに生存率を高めたいとか。
前者については、私が農民の出身というのがネックになっている。
実力主義のサキュラ辺境伯領においても、軍子会時代に一悶着あったモルド君一行のように、先祖の権力を振り回す輩はいる。
それに、王都で華々しい活躍を見せたマイカは、領外からの注目も集めすぎた。すぐに結婚をしようとすると、あちこちから嫌味の乱れ射ちが予想される。
特に、ダタラ侯爵とか、ヤソガ子爵とか、その辺が騒ぐのは確実だ。
せっかくの結婚式をそんな無粋な連中に邪魔をされたくないということで、王杯大会から一年経っても、私とマイカは婚約者という立場でいる。
最近のマイカの口癖は、結婚したいなー、である。
ちなみに、剣を素振りしながら呟くことが多い。多分、邪魔者を想像しながら首狩りしているのだろう。剣筋が神がかってキレている。
後者の医療関連の理由は、いわずともがな、今世において女性の死亡率が高い理由である。
今の医療水準で帝王切開なんて、私はしたくない。あれは元々、母体が力尽きた後の手術だ。
二、三年でそこまで医療水準を上げられるかは自信はないが、出産を手助けする道具は開発した。
前世にも今世の古代文明にも、分娩を助けるための産科鉗子というものが存在する。今は領都と王都(のルスス医師)にて、実地試験中である。これだけでも、すでに出産成功率の上向いたデータが得られている。
可愛い婚約者の子供欲しい宣言に、私が困ってしまうのもお分かり頂けるだろう。
愛する女性とその子供、できるだけ無事でいて欲しいとは自然な想いだ。
つまり、医療技術の未熟さが懸念であり、周囲の声については別に関係ない。
そんなもの、可愛いマイカの声に比べたら小鳥の羽が地面に落ちる時の音みたいなものですよ。
ともあれ、私がどちらを重視していたとしても、マイカの子供欲しい宣言に困ることには変わりなく、首狩り姫を相手に負けられない戦いに望まねばならない。
その難易度と来たら――構えた剣に気焔万丈とばかりの気迫をこめる、可憐なマイカの姿が物語っている。
猛禽にも似た眼光。どう動いたとしても斬り伏せてみせるという意志がみなぎる四肢。命の危険はないはずなのに、背筋が震える。
私とマイカを「王国中の全恋人の憧れ」と評する人々に、もう一度問いたい。
今の彼女を見てもそう言える?
こんなに全身全霊で好き好き大好きって言ってくれるんですよ、私の婚約者。
「王国中の全恋人」なんて軽すぎる。せめて「この惑星の全生殖生物の憧れ」くらいは言って貰わないと。
もちろん、私も愛情では負けていないので、可愛いマイカのお願いを聞いてあげるつもりはない。
「では、私が勝ったら、晩御飯の後の膝枕をしてもらおうかな」
子作りの代わりに提示した内容に、マイカは頬を染めた。
「いいよ。寝るまでずうっとしててあげる」
超可愛い。
なんか周囲のギャラリーからは、こいつら正気か、みたいな視線を感じるけれど、大体熱愛中のカップルの会話なんて正気の沙汰じゃないのである。
ユイカ女神とクライン村長を見たまえ。二人でいる時のクライン村長は大体正気じゃない。
「それじゃ、いくよ、アッシュ」
「いつでもどうぞ、マイカ」
お互いを自然に呼び合った次の瞬間、マイカが全速で踏み込み、私は全力で防御に回った。
****
結論を言うと、私はマイカに勝てなかった。
しかし、負けもしなかった。
私お得意の、ひたすら守って守って守りきって引き分け作戦である。
「あーっ、もうっ、やられたー!」
地面にばったりと仰向けになったマイカが、悔しそうに叫ぶ。
今後は勝者の権利で子供をおねだりするなんて奇襲が使えないから、マイカが大人げないくらい悔しがるのも無理はない。
私も体力を使い果たして、あぐらをかいてぐったりと地面に座りこんでいる。ちょっと動けそうにない。
決着後、しばらく遠巻きにしていたギャラリーの皆さんだったが、タオルや水を用意して駆け寄って来てくれる。
受け取った水を一息にあおって、ようやく人心地ついた。
「ありがとうございます。生き返りました」
良く冷えた水に礼を言うと、渋い年輪のようなシワを寄せて微笑む老人が、いえいえと優しく応じる。
私程度にやたら友好的だが、この老人はスクナ子爵家の現当主ご本人である。
今回、私とマイカは公務のついでにスクナ子爵領で温泉旅行と洒落こんでいるのだ。
全力全開の試合が、温泉旅行に相応しいイベントかと問われると黙るしかないけれど。
ともあれ、体を動かしたいと言い出したマイカに、気前よく子爵領の練兵所を貸してくれた老子爵は、お見事と褒めてくださった。
「大変素晴らしい試合でしたな。あれほどの妙技の応酬は、私の人生でも他に思い出せませんな」
これでも長生きを売りにしているのですが、と老子爵はお道化てみせる。
「私はとにかく必死で守っているだけですけれどね」
「守るだけとはいえ、それと同じことをできる人間が王国中を探してどれほどいることか」
それなりにいるとは思いますよ。
私が知るだけでも、ジョルジュ卿、グレン君、クライン村長ほか数名、サキュラ辺境伯領の武力トップ組が思い当たる。
我が方の衛兵や騎士の皆さんは、一部隊に最低一人は猛者が混じるので、その人達を調べれば、「わさわさ」ではないかもしれないが、「わさ」程度は集まりそうだ。
スクナ子爵領の兵も対人戦に定評があるので、賞賛する老子爵の手駒にも対抗カードはあるはずだ。
しかし、老子爵は心底感心しているようにしか見えない調子で、安堵の思いを漏らす。
「これほどの腕前の方に道中の護衛をして頂けるとなれば、私も安心して孫を送り出せます」
「それはもちろん、ご安心下さい。サキュラ辺境伯閣下の名にかけて、全力を尽くします」
私の応えに頷いた老子爵は、マイカの世話をしている少女、セイレ・スクナ嬢に視線を送る。
スクナ子爵の孫であるセイレ嬢は、今回、私とマイカが温泉に来ることになった公務に関わる人物だ。
今の私達は、一年前に王都で散々に吹聴してきた他領からの留学生の受け入れ、その出迎えにやって来ている。スクナ子爵領からはセイレ嬢が留学生に選ばれており、数日のうちに生まれ故郷を離れることになる。
老子爵の眼には、孫娘の身を案じる肉親の情が、貴族としては意外なほど多分に含まれていた。
これは責任重大だ。
役割の重みを自覚した私は、数日後の出発に向けて意識を引き締めるのだった。
「アッシュぅ、お疲れ様ぁ」
表情を改めた私に、呼吸を整えたマイカが近づいてくる。実に不満そうに唇を尖らせて、やさぐれた気持ちを隠そうともしない。
まったく、辺境伯領の継承権をも持つご令嬢が、そんな顔をしちゃいけません。
可愛すぎて引き締めた表情が緩んじゃうでしょ。
「引き分けですから、マイカの言ったことはしてあげませんよ?」
「わかってるよぅ……」
イジワル、とマイカが拗ねる。
「ただ、引き分けですからね。寝る時に腕枕してあげます」
「ほんと!?」
私は嘘はつかない。たまに、嘘をついたように感じる人はいるかもしれないですが、それは感じる側の問題ですから、私にはいかんともしがたいのだ。
マイカは私が嘘をつかないと知っているので、途端に蕩けるような笑顔になる。
「アッシュは優しいんだからもう、大好き」
「ええ、マイカが相手ですから、優しくもしますよ」
「えへへー。じゃあ、あたしも、引き分けだから膝枕したげるね」
優しい婚約者に、もちろん私も大好きだと伝えた。




