灰の底14
この夏、念願かなって、バンさんの一週間の狩猟についていくことができた。
森の中を黙々と突き進むことはとても疲れるが、自然物を組み合わせた簡易テントの中で火を起こし、食べる猟師飯はユイカ夫人の手料理に匹敵するご馳走だ。使われる食材は現地で採れたての新鮮なものだし、鳥獣魚いずれかの肉が入るのが素晴らしい。
そして、バンさんと二人、ただじっと夜の森に耳を澄ませるのだ。
あの一件以来お世話になっているが、私はこの無口な猟師と過ごす時間が、とても好きだ。
彼が無口なのは、口下手だからではなく、猟師の心得として沈黙を旨とするからだそうだ。肉食獣が獲物を狩ろうとする時、息を潜め、足を忍ばせるのと同様、猟師も音を殺す。
結果的に、バンさんが口下手になったわけだ。一種の職業病だろう。
しかし、彼の無言は、豊富な知識を物語る。
周囲に生い茂る草木の一つ一つが、彼には判別がついている。草木や土につけられたわずかな痕跡から、何日前に何がどんな状況でそこにいたのかを読み取れる。彼が罠を仕掛けた地点はもちろん、その罠を見て回る際、ついでに調達できる食材の在りかも知り尽くしている。
バンさんに倣って、私も森に入ると無言を守っているが、彼の仕草一つ一つがそれを教えてくれる。
話しても良い野営地では、その日に見た痕跡の意味や、採取しておいてくれた野草について、口下手なのに教えてくれる。
この人は生きた本なのだと思う。
彼から語りかけてくることはないが、こちらから望めば何度でも、根気よくその持てる知識を教えてくれる。いささか書き方に癖があり、解読に手間がかかるのもこの際は楽しい。
なにより、バンさんはこの森特化の攻略本なのだ。ぜひとも、紙に起こして残しておこう。
例えば村が凶作に見舞われた時、いくら危険だとわかっていても、多くの村人が森に分け入ることもあるだろう。
その時、この森の攻略本があれば生存率が全く違うはずだ。むやみやたらに森を荒らされるのも困る。
そんなことを考え、著作権元のバンさんに許可をしてもらえるか尋ねる。彼にとっては大事な商売のタネだ。少しでも難色を示すようなら、私の個人用にしておこう。
バンさんは、いつものように少し黙って考えこんだ後、ん、と頷いた。
「良いのですか? ずいぶんとあっさりと」
「ここは、足りない」
なにが足りないのか。ここには足りない物ばかりなので困る。
「……猟師が」
「あ、なるほど。もっと猟師が増えて欲しいのですか?」
ん、とバンさんは頷く。
森の食糧が少なくなると、動物達が村の作物を荒らしに来るのだという。ここ数年はそれがないので助かっているが、必ず森に異変は起こる。
その時、動物を多めに狩らなければ、村人が飢える。動物を多めに狩るためには、人手がいる。
今でも、バンさん一人では森全体を監視しきれておらず、不安らしい。
「とすると、私に親切に教えてくださっているのは」
「万が一」
いざという時、手伝いを期待してのことだったようだ。いくらバンさんが親切な人でも、ここまで手間暇をかけてくれることに納得する。
本当は、別な村から猟師が移住して来てくれれば良いのだろうが、やはり難しい。猟師には専門知識が不可欠であるし、さらに生まれ育った猟場に大きく知識が偏る。わざわざ不慣れな土地へ移住してくることが期待できない。
バンさんの師匠である父親は、その珍しい移住に応じた人だったのだろう。
「そういうことなら、私もできる限りお手伝いいたします。せっかくの畑を荒らされては困りますからね」
村の生活のためならば、私の目的にも合致する。私がうんうん頷いてみせると、無口な猟師は、私の頭を撫でて微笑んだ。
弟か息子を見ているような優しい表情だ。
この人、本当にカッコイイな。なんでこれで結婚していないのだ。
絶対、無口だからに違いない。
ユイカ夫人に相談してみよう。この人にはいい家庭を築いてもらって、次代の猟師を二、三人は増やして頂きたい。
誰も損をしない話だ。人生の墓場的な結婚にならない限りだけど。
****
例年になく森とたわむれた夏が過ぎ、秋の農作業が慌ただしくなる頃、アロエ軟膏の収入が入った。
ユイカ夫人は、まず実家に試供品を配ったと言っていた。そのせいか、我が村初の特産品、アロエ軟膏は、上流階級向けの、非常に高額商品として売れたようだ。
ユイカ夫人から最初に手渡された私の取り分が、銅貨一枚だったのでそうなのだろう。これで収益の一部だというのだから、一体単価いくらになっているのだろうか。
生産の都合もあるが、しばらくは少数限定の希少品として売っていく予定だと、ユイカ夫人が楽しそうに話してくれた。
私は早速、人生初の自分のお金を持って、クイド氏にお礼をしに行く。
紙とペンを赤字価格で放出してくれたので、その分の補てんをするつもりだったのだが。
「いやいや! そんなお礼なんてとんでもない! あれくらいなんてことないんで、どうぞそいつはアッシュ君自身のために使ってくれ、いや使ってください! あ、紙もっと必要じゃないですか? インクはまだあります? ペン、壊れたりしてません?」
にっこにこ笑顔で謝絶されたばかりか、それ以上の赤字価格で紙とインクを売ってくれた。ものすごく助かるけど、良いのだろうか。
無理をされてクイド氏が廃業でもしたら、私も困る。
「大丈夫なのでしょうか、こんなサービスして頂いて」
「もう、全っ然大丈夫ですよ! アッシュ君のおかげで、こっちは十分! 良い思いをさせてもらってますんで!」
私は、もうアロエ軟膏事業から手を引いているので事情がわからない。
「アッシュ君のおかげで、アマノベ家と取引できるようになったし、そこから他の家を紹介してもらえたので、都市のお金持ちと取引できてるんですよ! もうこんなん夢じゃないかと!」
固有名詞はわからないが、上流階級の家に出入りできる商人になれたことはわかった。あちこち渡り歩く零細行商人から、一段階出世できたので、この出血大サービスらしい。
「そうでしたか。それは何よりです、おめでとうございます」
めでたいことなら良いのだ。その恩恵に与れるだけ与りたい。
自由になるお金が今後も手に入るなら、欲しい物も色々でてくる。その時にクイド氏が対応できる範囲が広がっていれば、私も助かる。
クイド氏は幸せ、私も幸せ。素晴らしい関係だ。
あとは、バンさんにお礼を返さねば――と思ったのだが、こちらも受けとってくれなかった。むしろ、森で取って来たばかりの野草をくれる。
「バンさん、非常にありがたいのですが、あまり頂いてばかりでは私も心苦しいと言いますか」
「十分」
バンさんはそれだけ言って、私の頭をぽんぽん撫でる。
それでも食い下がろうとすると、なぜか猟師としての技術を話し出す。
待って。
なんで今日に限っていつもより口数が多いのですか。
覚えることが多いとお金の話をしている暇がないではないですか。
あ、今の話はとても大事そう。
ちょうど買って来たばかりの紙があるからメモを取らせてください。
結局、帰る頃には、恩返しをするどころか恩が増えてしまった。
普通には受け取ってくれないようなので、別な形のお礼を考えることにしよう。
「という具合でして、このお金を預かってください」
最終的に、お金はフォルケ神官に渡すことになった。
「いや待て神殿教会はそういう商売はしてない」
「じゃあ、私が好きな時に引き出せる寄付ということでお納めください」
「それは寄付って言わないだろ!」
抵抗するな。説得が面倒臭いじゃないですか。
「大体、預かるって言ってもだな、俺が盗むかもしれないだろうが。そこまで清廉潔白な自信がないぞ、俺は」
それでも聖職者ですか。その正直さは、流石聖職者という気もするけれど、問題発言すぎる。
ただ、職業人としての問題に目をつぶれば、私としてはフォルケ神官に盗まれるなら、それはそれで良いと考えている。
「家に持ち帰っても、父が酒代にくすねるに決まっているので、それくらいならフォルケ神官に盗まれた方がマシです」
「マシって……信用されているのかされてないのか、わからんな」
「ある意味していますとも。だって、フォルケ神官がお金を使うとなったら、お酒なんかでなく本でしょう。もしくは、古代語研究用の筆記用具とか」
「うむ。正直、最近ちょっとあれこれ買い過ぎて金欠でな。そういう意味でも、金を預かることは、我ながら不安なんだよ」
この愛すべき研究バカめ。だから、いい年して独身なのだ。
基本的には真面目で良い人だけれど、研究のこととなると周囲が見えなくなる。
自覚しているだけ良しとすべきか、自覚しても直らない手遅れと思うべきか、悩ましい。
「そういうことなら、私が預けたお金を好きに使ってください。本なら私も嬉しいですし、古代語の解読に役立つなら最終的に私も嬉しいですから」
「ほんとか」
フォルケ神官の表情が、ぱっと明るくなる。子供から見ても子供のような笑顔だ。
一部の女性が見れば、非常に人気が出そうなのがもったいない。
「あ、いや、しかしな……アッシュの金を取り上げるとか、世間体が悪すぎるだろ」
「世間体を気にしていたのですか」
「一応、神官なんだぞ」
では、一時期の亡者神官の有様はなんだったのか、説明が必要になりますよ。
「まあ、立場があるということなら、お金を預けるのではなく、共同研究資金とでもしておきましょう。研究目的なら、私とフォルケ神官、どちらが使っても良いお金です」
「うぅん……それは、さっきまでのと何か違うのか?」
「実質は何も違いませんが、建前が違います。二人で手掛けている研究のためのお金ですから、所有権は私とフォルケ神官で半分半分です」
世間体なんて些末な問題なので、建前が整えば問題あるまいの精神を展開する。
フォルケ神官は、そういうものか、とまだ首をひねっている。
「しかし、面白い考え方だな。共同研究資金か……王都にいた頃に使っていれば、便利だったかもなぁ」
「研究にはお金がかかりますからねぇ」
地味な研究には、パトロンもつきにくい。フォルケ神官を始め、古代語解読を志す研究者達は苦労しているのかもしれない。
そんな会話を、フォルケ神官の私室でしていると、ドアがノックされた。
「失礼します。アッシュ君の声がしたんだけど、アッシュ君いますか?」
顔を覗かせたのは、マイカ嬢だった。
「いらっしゃい、マイカ。もうそんな時間だったか。ほれ、アッシュ、今日の勉強を見てやれよ」
「はいはい。まったく、フォルケ先生が勉強を教える日は来るのでしょうか」
「優秀な一番弟子を持てて、先生はとても頼もしいよ」
にやにやしやがって。
マイカ嬢と聖堂の方へ移動すると、彼女が心細そうに見つめてきた。
「えっと、ごめんね、覚えるのが遅くて……」
「とんでもありませんよ」
いきなりの謝罪に、びっくりしてしまった。
マイカ嬢は、物覚えがとても良いと思う。素人の私の教え方でも、読み書きがすでにかなりできるのだ。あとはもう、私が教えなくても、自然に身について行くだろう。
マイカ嬢が謝ることなど何もないので、どうしたのかと訝しんでいると、思い当たることがあった。さっきのフォルケ神官とのやり取りが原因か。
「先程のフォルケ神官との会話なら、教えるのが嫌だと思ったわけではありませんよ。本来教えるべきフォルケ先生が、どうして教えないのかと思っただけです」
「そ、そうだったんだ。良かった。アッシュ君に迷惑をかけちゃってるんじゃないかと思って……」
マイカ嬢は、胸を押さえて大きく息を吐いた。そんなに心配していたとは、思いやりのある人だ。
「マイカさんはとても聡明ですから、私が教える手間なんてほとんどありません」
「そ、聡明って……賢いってことだよね? えへへ」
このように、意味の分かる単語もかなり増えている。ゆくゆくは秀才美人間違いないだろう。
照れくさそうに笑っていたマイカ嬢だが、ふと首を傾げる。
「でも、アッシュ君はもっと覚えるの早かったよね」
「そうでもありませんよ。確かに、きちんとした勉強を受けるようになってからは短かったかもしれませんが、その前にちょっと、勉強していたのですよ」
前世らしき記憶のことである。まさか真正直に言うわけにもいかないので、そういうことにしている。
「そうだったんだ、全然知らなかった。やっぱり、アッシュ君はすごいね」
「運がいいだけですよ」
前世らしき記憶があるなんて、他の事例を見たことがない。かなり幸運だと思う。
「そんなことないよ。アッシュ君がすごいから、お母さんもアッシュ君を頼りにしているんだから」
「それは光栄ですね」
ユイカ夫人は、フォルケ神官とは別な意味で頭脳明晰な人物なので、引き合いに出されて褒められると嬉しくなる。
フォルケ神官が学者として優秀なら、ユイカ夫人は経営者として優秀だと思っている。
「それで、お母さんから、アッシュ君に伝えるように言われたことがあるんだけど」
少しマイカ嬢の声が低くなった。母親が他人の子供を褒めているから、少し嫉妬したのだろうか。
「なんでしょう」
「アロエ軟膏なんだけど、良く売れているからもっと作りたいんだって。だから、村の人の何人かに、手伝ってもらいたいけど、アッシュ君はどう思う?」
「ユイカ夫人に問題ないのであれば、お任せいたします」
経営とか商売とかわからないので、有能なユイカ夫人を信頼している。裏切られたとしても、私には及ばぬ能力での出来事なので仕方ない。
これを信頼と言って良いのか、異論はあるかもしれない。
「わかった。お母さんに、問題ないって伝えるね」
「よろしくお願いします。マイカさんを伝言に使ってしまって、お手数をおかけいたします」
丁寧に頭を下げると、マイカ嬢がパタパタと手と首を振る。慌てているのに、嬉しそうににやけている。
「良いの良いの! これくらい全然良いの! お勉強を教えてもらってるし、ちょっとでもアッシュ君の役に立てるなら、全然!」
以前の反省を活かして、子供扱いせず、一人の女性として、伝言板代わりを務めてくれたことに感謝を示したのだが、思いのほか喜んでくれたようだ。
礼儀というのは、誰が相手でも大事なものなのだと再認識させられる。
「さて、それでは今日のお勉強を始めましょう。なにか気になることはありますか?」
「それが、アロエ軟膏を作るのをお手伝いするようになってから、数字のことがちょっとわからないなって」
「ああ、確かに、それは気になるでしょうね」
あのレシピには比率などが出てくるから、今のマイカ嬢ではわからないところがあるだろう。
そういうのは気持ちが悪いものだ。
「では、今日は少し計算についてお話ししましょうか。ちょうど良いので、アロエ軟膏のことを例にしましょう」
これから増産体制に入るアロエ軟膏レシピの理解を深め、また身近な例として学習効果も高まる。
一石二鳥ではなかろうか。