煉理の火翼22
翌朝、治療室は完全に綺麗な状態に整えられていた。
完全である。
それは昨日の使用後はもちろん、使用前よりも綺麗という意味を持つ。
床に落ちていた砂や血の跡は一つもなく、使い続けられてきた歴史を、古臭さではなく、趣として誇示しているようでもある。
いささかがたつきのあったベッドの骨組みもしっかりと補強されているし、真っ白なシーツに至っては昨日ここにあったものより明らかに上等なものに変わっている。
あまりの完全さに、大会初日、使用前の治療室を見ていたルスス氏は、他の医療従事者と共に、ドアの入り口で硬直していた。
仮眠を取っていたため遅れて到着した私は、皆さんの背中を押すのが最初の仕事になった。
「さあ、皆さん、今日も一日がんばりましょう」
治療に参加することがわかっていたので、今日は私も白衣を持参している。
重傷な患者さんが少ないことを祈りつつ、精一杯治療に当たりましょうね。
そんなやる気満々の私に、ルスス氏が詰め寄って来る。
「フェネクス卿! 一体これは、何をすれば一夜でこんなことまでできたのだ!」
「昨日、別れ際にお伝えした通り、アリシア王女殿下にお話ししただけですよ」
この劇的な模様替えの総指揮官は、アリシア嬢である。
ゲントウ氏にお願いして、アリシア嬢に治療室の現状を報告したところ、サキュラ辺境伯家のお屋敷まで、王女殿下直属の侍女や召使が一個小隊ほど、輸送馬車つきで派遣されてきた。
代表の侍女は、良く訓練されているらしい一団を整列させて、私に言った。
「アリシア王女殿下より、フェネクス卿の指示に従い、武芸王杯大会治療室の清掃を行うよう命を受けました」
領都で畜糞堆肥の研究をした時に、アリシア嬢は衛生がどれほど大事であるかの報告書をまとめていた。
だから、治療室がどんな状況かを報告しただけで、直ちに必要な行動ができると思った。
信じていたとおりである。
そして、信頼以上でもある。
よもや、人手まで融通してもらえるとは思わなかった。
人手は、サキュラ派の貴族の屋敷から引き抜こうと思っていたので、これは手間が省けた。
頼もしい総指揮官から、現場指揮を任された私は、早速王女直属の一団を引き連れて、治療室へ強襲をかけた。
治療室の中のベッドなどを一度全て外へ運び出して、徹底的に清掃。
シーツは、王女殿下愛用の不死鳥印の石鹸を使って、洗濯部隊が洗浄する。
ここで、輸送馬車の中身が運び出された。いくつものシーツである。
シーツを洗っても、乾くまでは使えない。当然のことである。
それを見越して、アリシア王女殿下は自身の周囲からシーツをかき集めて、馬車に詰め込んでおいてくれたのだ。
「流石、抜かりがありませんね」
私はありがたく、王族も使っている最高級品を含む多数のシーツを、粗末な簡易ベッドに使わせて頂いた。
また、侍女や召使の方達も、実に有能であった。
簡易ベッドを運び出した際、がたつくことに気づいた召使の一人が、口をへの字にして進言してきた。
感情表現がストレートな召使さんだ。
「フェネクス卿、私の実家の者を呼んでもよろしいでしょうか」
「どうしました? 作業に問題が?」
いえ、と召使さんは作業が順調であることを認めた。
その上で、向こう気の強い眼差しで、はっきりと不満を訴える。
「この部屋は、王国中から選ばれた戦士様が、力の限り戦った末の傷を癒す場所と聞いております。であるにも関わらず、この今にも崩れそうなベッド! 名誉の傷を負った方々に相応しいとは思えません!」
なるほど、と私は頷く。言っていることはもっともである。
私も初めこの治療室に来た時は、会場の立派さからすると、ずいぶんと手抜きだと感じたものだ。
「ご意見は良く分かりました。ちなみに、貴方のご実家というのは?」
「小さいながら、木工製品を扱っております」
どうやら召使さんの実家は、職人の家系であるらしい。
彼女の頑固そうな部分は、きっと職人気質の人間が周囲にいたためだろう。
「そういうことであれば、お願いできますか? 失礼でなければ、費用に関しては私の方へご連絡を」
「はい! すぐに実家の者を連れてきます!」
敬礼せんばかりの勢いで召使さんは一礼し、猛然と駆け出す。
すると、入れ替わるように侍女の方がすすっと近寄って来る。
「費用については、アリシア殿下とサキュラ辺境伯閣下の間でご相談させて頂ければと存じます」
あ、そうか。王女様が動いているのだから、勝手に現場であれこれ決めるとまずいこともあるのだろう。
「失礼をしたようですね。助かりました、よろしくお取り計らい願えますか?」
「はい、ご信頼頂き、ありがとうございます」
必要なことを確認すると、またすすっと下がっていく。
そうしている間にも、治療室の衛生状況はみるみる改善されていく。
急造チームだろうに、上手く連携が取れている。
恐らく、この清掃団を作る際に、必要とされる能力を持つ人材をきちんと選んでいたのだろう。
掃除洗濯が得意な者から、力仕事が得意な者、作業全体の監督役に、現場で急きょ発案された内容を管理できる者。
複数の能力が綺麗に組み合わさっている。
「素晴らしい。アリシア殿下は、日頃から皆さんのことを良く把握しているのでしょうね」
成長した彼女の能力に感心すると、代表の侍女が真面目な表情の中に、かすかに笑みを覗かせた。
「はい。僭越ではございますが、わたくしどもにとって、自慢の王女殿下であらせられます」
家臣からの好意も勝ち得ているようだ。
だから、急にこんな命令を出されても、皆さん何の戸惑いもなく動けるに違いない。
全清掃作業が終了したのは、夜明け前。
大会二日目も、終了後に同様の作業を行うことを確認すると、王女直属清掃団は撤収していった。
「ということですので、皆さんは何もお気になさらず、今日もお仕事に集中してください。ああ、汚れがひどいシーツは、替えがあちらに置かれていますので、遠慮なく交換してください」
「おぉ……何度上申しても叶わなかったことが、わずか一日で……」
「アリシア王女殿下は、衛生や医療知識も豊富なお方ですから。ルスス氏なら、それもご存知なのではありませんか?」
ルスス氏のパトロンは、アリシア嬢である。
「た、確かに、殿下は私も驚くほど、多分野に知見をお持ちの方だったが……」
ルスス氏は、眩暈を振り切るように頭を振る。
夢から覚めて、現実でお宝を目にしたような明るい表情だ。
「ここまで果断な動きができる方とは思わなかった。実は、研究資金は頂いているが、ほとんどお目にかかったことはなくてな……」
「そうだったのですか?」
アリシア嬢からの手紙には、ルスス氏のことも度々書いてあったので、てっきり親しく話しているのだと思っていた。
しかし、よくよく考えてみると、王女という身分では神殿の研究者という身分のルスス氏とは、気軽に会えない方が自然だ。
ひょっとしなくても、手紙の中身は、アーサーとしてルスス氏と会った時のものだとわかる。
これは私の勘違いだ。ちょっとひやっとした。
「まあ、ともあれ、アリシア殿下のお心遣いをありがたく思って、今日も一日がんばりましょう」
ルスス氏を始め、医療従事者の皆さんの返事は、昨日よりも元気が良かった。




