煉理の火翼10
時刻は夜。
春の月が、今宵も下界で何が起こっているかを眺めに、空へとその身を覗かせている。
春の香りを運ぶ風は静かで、露天風呂につかる孤独な人影を湯気の中に隠し、一幅の絵画のようにあつらえている。
私は、月を見上げている背中に声をかけた。
「お待たせしました。お隣、よろしいですか、マイカさん」
髪を束ねて覗かせたうなじが、小さく頷いて許可をくれる。
「では、失礼しますね」
隣に体を滑り込ませるうち、マイカ嬢の後ろ姿から、横顔が見えてくる。
緊張しているのか、俯きがちの彼女の顔は、感情を抑えこんだように物静かだ。
それが人形のように整った容貌を知らしめ、一方でお湯に紅潮した肌は生き生きとした艶めかしさを漂わせている。
つい、視線がお湯の中へと流れてしまうと、彼女の腕は、恥ずかしげに湯着を押さえた。
「すみません。マイカさんが綺麗なもので、つい」
紳士にあるまじき行いを素直に詫びると、マイカ嬢は頬の赤みを増しながら、ちらりと視線で撫でてくる。
「ちょっと、悔しい。あたしは、上手く声がでないくらい、ドキドキしてるのに」
それはお互い様である。
私だってすっかり意識してしまった異性の、普段は見ることのない艶やかな姿に、心臓が弾けてしまいそうだ。
頬、というより、顔全体が熱い。
きっと、マイカ嬢が私の顔をしっかり見れば、お互い真っ赤な顔で見つめ合うことになるだろう。
「私だって、すごく緊張していますよ。がんばって、冷静さを保っているだけです」
それくらいマイカ嬢は綺麗だし、女性として意識している。
先程から、自分がどれだけマイカ嬢を好きかという自覚が、毎秒単位で上方修正されていっている。
「そ、そう?」
マイカ嬢の視線が、再び私をうかがう。
先程より、少しだけ長く見つめられた。それでも、一秒よりは短かったと思う。
私の心音一回分、あったかないかだ。
続かぬ会話が、もどかしい沈黙を招く。
この幼馴染とこんなに話が合わないのは、生まれて初めてかもしれない。
「それで、その……」
こくりと喉を鳴らして、マイカ嬢が切り出した
「ここに来てもらった、理由なんだけど……」
今宵、この場所に呼び出したのはマイカ嬢である。
恐らく、夕方まで続いたサキュラ辺境伯家の親族会議で、いよいよ決まったのだろう。
マイカ嬢の伴侶に、私が候補として相応しいかどうか。
この場に誘われたということは、光栄な結果が出たようだ。
そして、心苦しい結果でもある。
その罪悪感が、マイカ嬢の言葉を待つはずだった私を動かした。
「マイカさん」
彼女の頬に手を触れ、恥らって逃げる視線を手繰り寄せる。
「ア、アッシュ、くん……?」
マイカ嬢は、私から動いたことに、身を強張らせて驚いた。
今の今まで、彼女の気持ちに応えて来なかった幼馴染のことを、彼女はよくわかっていた。
彼女の方から、逃げようがないほど真っ直ぐに気持ちをぶつけねば、この男は答えないと確信があったのだろう。
私も、そう考えていた。ついさっきまでだ。
「マイカさん、私は、あなたのことが好きです」
「あっ――、っ……!」
それが、真っ直ぐに気持ちをぶつけたのは私の方だ。少女を逃がさぬよう、いつの間にか腰に腕まで回している。
胸が熱い。腹の奥が熱い。
突然の私の言葉に、身をすくめ、声にも表せない感情に悶えている目の前の少女が、愛しい。
その少女が、今すぐ欲しい。
間違いなく、疑いようなく、私は、マイカ嬢のことを愛していた。
「でも、私は、マイカさん以上に好きなものがあるんです」
告白に続いた言葉に、幼馴染の少女は、私を誰より知る女性は、即座に何もかもを承知したようだった。
私がマイカ嬢以上に好きなものが、人ではないことも。私がそれを、どれほど追い求めてやまないかも。
「アッシュ、くん……」
ようやく搾り出されたマイカ嬢の言葉は、それ以上言わないでと、ねだるようだった。
「ごめんなさい。私はあなたを好きですが、あなたより先に、あなたより強く、あなた以外に心を奪われているのです」
我知らず、抱き寄せようとしていた腕を、少女の体から引き剥がす。
若い体でそれができるほどに、私の心は奪われ、縛り付けられていた。
「そんな私では、絶対に、あなたを幸せにできません。あなたのことを放り出して、私は夢を追いかけてしまうでしょう」
夢に心奪われた私は、必ずそうなる。
でも、好きになった人にそんなことはしたくないし、そんなことになって欲しくもない。
「マイカさんには、絶対に幸せになって欲しいのです。それは、こんなどうしようもない壊れた私ではできないことです」
もっと力があればと願いつつ、私は一つ、気持ちを手放す。
「だから私は、大好きなあなたの気持ちを、受け入れることができません」
私の宣言に、マイカ嬢の喉は、その機能を失ったように見えた。
唇が開くも声はなく、苦しげに湯着の胸元を押さえて、少女は身悶える。
「そん、な……」
涙をこらえるように目を細めた少女から、かすれた声が搾り出される。
「そん、なこと……っ」
湿った息が吐かれ、切ない息が吸われる。
その呼吸をもって行われたのは、ガラスの像が叩きつけられたような、高く澄んだ叫び声だ。
「そんなこと言われたら……っ、もっと、もっと――好きになっちゃうでしょ!」
真っ赤な顔で、少女は感動の笑みを浮かべながら、少女を手放した私の手を掴みとる。
鷲掴みだ。
「もうダメだからね! こんな、こんなあたしの胸をときめかせておいて! これ以上ないくらいあたしを夢中にさせておいて! 絶対、絶対、アッシュ君のことあきらめてあげないんだから!」
ご覧ください。
そうです、これが私が惚れた女の子です。
目を爛々と輝かせ、口元には獲物を見つけた肉食獣の笑み。
武張った辺境伯家の血筋がこれ以上なくうかがえる。
掴まれた私の手なんかぎりぎり軋むくらいですよ。
一応、マイカ嬢の胸元に引き寄せられて柔らかいものが当たっているはずなんですけど、全然楽しめないくらい痛い。
「つまり、アッシュ君の初恋相手である夢から、アッシュ君を奪っちゃえば良いんだよね! この際、相手が人じゃないとかもうどうでも良いよ! アッシュ君を好きになって六年、それくらいじゃないとアッシュ君の奥さんは務まらないんだって悟ってるよ! 大丈夫!」
何が、大丈夫なんだろうか。
さらりと判明したけれど、マイカ嬢の中の私・アッシュのイメージが、予想よりひどいことになっている。
「元々アッシュ君を手に入れるためなら、相手がどこのなんだろうと一切退く気はなかったんだもん! アッシュ君が夢中になってる相手が、人だろうと神様だろうと概念だろうと受けて立つよ!」
咆えるように私に言い放ち、マイカ嬢はお湯を蹴立てるように立ち上がる。
月下、女神の血が育んだ肢体に湯着を張りつかせながら、雄々しさ十分に少女は私を見据える。
「宣言するよ、アッシュ君! あたしは絶対にあきらめない! アッシュ君をその夢から奪って、あたしの旦那さんにするんだから! 絶対に、どんな手を使っても!」
正々堂々の略奪愛宣言(ルール無用)である。
相手が抽象概念だというのに、一点の曇りもない迫力。背筋が震える。
「待ってて、アッシュ君! あたしの想いを絶対に受け止めてもらうんだから!」
その想い、受け止めたら私の防御を貫通してオーバーキルになりそうですね。
私の懸念をよそに、マイカ嬢は「作戦会議~、全員集合~」と叫びながら、お風呂場から消えて行く。
その去り際、目元に光るものがあったことを、私は見つけた。
本当に、素敵な女性だと思う。
告白を拒絶されたにも関わらず、私が気にしないようにと、あんな空元気を振りまいて立ち去った――などということは、ない。
ありえない。
想いを振り払われて、悲しかっただろう。
長年の段取りを無にされ、悔しかっただろう。
あの涙は、熱い想いに溶け出した本物の気持ちだ。
その上で。
その上で、あの少女は即座に奮い立ち、戦意をたぎらせて、勝ち逃げしようとする私を捕まえたのだ。
泣くほど悲しい。でも、あきらめない。
泣くほど悔しい。だから、立ち上がる。
絶対に逃すものかと。お前は私の獲物だと。
お前の事情がどうであれ、その一切合財から奪い取り、自分のものにしてやると。
もう一度言わせて頂く。
あれが、私が惚れた女の子です。
素敵でしょう?




