煉理の火翼8
指示された宿の部屋に入ると、長テーブルが置かれた会談用の一室で、イツキ氏とジョルジュ卿がすでに席についている。
そして、上座にいるのは、大柄な中年の男だ。
中年といっても、筋肉が維持されており、肉厚な体躯は立派なものだ。
この人物が、サキュラ辺境伯のゲントウ・サキュラ・アマノベである。
「アッシュ・ジョルジュ・フェネクス、御前に」
一礼すると、辺境伯閣下は、厳つい顔一杯に笑みを広げて見せる。
「おう、来たな! 会いたかったぞ、フェネクス卿!」
閣下は、四十代半ばとは思えぬほど軽やかに椅子から立ち上がったかと思えば、のしのしと歩み寄って来て私の両肩に手を乗せる。
乗せると言うより、叩きつけるような勢いだったけれど、それは敵意によるものではなく、好意の発露らしい。
閣下の表情には満面の笑みしかない。
「先触れもなしに呼びつけて悪かったな! お前と早く会いたくて、伝令を出すのも惜しんで飛ばして来たのだ」
いきなり好感度が高い。低いより良いけれど、びっくりしちゃいますよ。
というか、この辺境伯閣下、ひょっとして馬車でなく、騎馬で来たのか。すごい四十代だ。
「王都は退屈でな、お前からの報告が届くようになってからは、そればかりを楽しみに暮らしていた。はは、ようやく会えて嬉しいぞ!」
「私もです、閣下。騎士へお取立て頂き、感謝に堪えません」
でも、バシバシ肩を叩いてくるのはちょっと痛いです、閣下。
「なに、お前の活躍を聞けば、それくらい当然のことだ。むしろ、これくらいしか報いておらんと詫びたいくらいだぞ」
閣下は、そうだろう、と息子であり、領政を任せているイツキ氏へと会話を飛ばす。
「それについては同意するが、父上、もう少し加減してやったらどうだ。アッシュは小柄、ではないが、父上と比べると小さいのだから」
激しいスキンシップをする辺境伯に、息子からの警告である。
ナイスアシスト、と私は思ったが、閣下には通用しなかった。
「うむ、一見細身かとも思ったが、体幹が良くできている。肉付きも悪くない」
「ありがとうございます、閣下」
「お前の武勇伝も納得というものだ。実に頼もしいぞ、フェネクス卿!」
そして、バシバシ叩かれるのである。
イツキ氏が、申し訳なさを視線で訴えて来るので、苦笑いを返しておく。
まあ、気難しいよりも、気さくな方が安心できるので、これくらいは甘んじて受け止めよう。
ひとしきり私との初対面の挨拶を済ませたサキュラ辺境伯閣下は、上座の席、ではなく、手近な椅子に腰を下ろしてしまう。
「さて、堅苦しいのはこれくらいとして」
待って。
今までのどこに堅苦しさがあったのか問いただしたい。粉砕されつくした気安さしかなかったはずだ。
「何か軽く飲み食いしながら、楽な気持ちで話し合うとしよう。話の内容は、ちくと面倒なものだからな」
「あ、はい。では、何か頼み――」
この場で最も下っ端として、女中さんを呼んで手配しようとした私より早く、辺境伯閣下の野太い、良く通る声が響く。
「おうい、誰かおらんか! 何か軽食と酒を持って来てくれんか!」
部屋の外から、少し慌てた様子で返事がある。
ここの女中さんのスペックならば、声の主が辺境伯本人だとすぐにわかるはずだ。それは慌てるはずである。
「これで良し。それで、まず話し合いたいことなのだが――」
「父上、父上、まだ全員そろっていないのだ。マイカがそろうまで待ってくれないか」
「む? それもそうだな」
「まったく、いい年なのだから、少しは落ち着いてくれないか」
イツキ氏が呆れたように嘆息するが、閣下は気にした風もなく、わかったわかったと笑って流す。
ノリのいいイツキ氏が呆れて突っ込むというのは、新鮮な光景だ。しかし、それも納得の豪放磊落な閣下である。
これは周囲がストッパーに回らねばならない面白さだ。
「閣下は実に素早い方ですね」
私は、隣に座った中年の辺境伯を見上げて話しかける。
そう、隣なのだ。
閣下は、入室した私にいきなり近接攻撃を仕掛けて来て、そこから手近な椅子に座った。つまり、閣下は下座の方に無造作に座ったのだ。
まさか私がそれ以上上座の方に回るわけにもいかず、隣に座ることになった。
この凄まじい違和感は、しかし、辺境伯閣下には何ら感じられないようだ。
「うむ、何事も素早いことが肝要であるぞ。特に、辺境伯領はいつ何時、魔物が現れるかわからん。後回しにしていたら、次はないかもしれんからな。できる者が、できる事からやっていくのだ」
「なるほど、辺境伯領の風土ですか」
その結果、先触れなしで宿入りする辺境伯閣下と、座席の上下に頓着しない辺境伯閣下と、一番下っ端よりも先に大声で注文する辺境伯閣下ができあがると。
一応、辺境伯領の民として言いますが、その素早さは絶対おかしいですからね。
「イツキや部下には、せっかちなどと言われたりもするがな」
言っても直らないということがわかったので、新参者が改めて口にするのはやめておくことにしよう。
「閣下、王都について興味があるのですが、何か面白い話題はございませんか?」
「さっきも言ったが、相も変わらず退屈よ。嫌味と足の引っ張り合いばかりで――おう、そうだ」
面白くなさそうに椅子にもたれかかった分厚い体が、ぐいんと前のめりに戻って来る。
「アーサーから、よろしく伝えてくれと頼まれていたのだった。特にアッシュのことは、念入りに気にしておったからな、伝えておかねば叱られる」
サキュラ辺境伯の表情は、少し含みがある。
彼の末子という扱いになっているアーサーという少年が、本当は存在しないためだろう。
「それは嬉しいですね。アーサーさん、お元気ですか? お手紙ではお変わりないとのことでしたが」
「うむ、元気でやっておるよ。まあ、事あるごとに、我が辺境伯領が懐かしいとぼやいているがな」
手紙の文面そのままの生活を送れているようだ。
「無理な我慢をされていないのであれば、安心できます」
「はっは、それはどうかな。今回の湯治旅行も、ついて来たがっておったからな。出立の見送りもされたが、恨みがましい眼をしていたぞ」
流石に現在のアーサー氏の身分では、そう簡単に王都を離れることはできないだろう。
残念だが、会えるとしたら、私が王都へ行った時の話になる。
いくつかアーサー氏が手紙で語っていなかったエピソードを聞いていると、ドアがノックされる。
「お、来たな、マイカだろう」
イツキ氏が呟くと、それまで止まることなく話していた辺境伯閣下が、会話の流れをぶった切って沈黙した。
まるで時間が止まったような分厚い体を訝しく眺めているうちに、マイカ嬢が入って来る。
「遅れて申し訳ございません。マイカ、参りました」
マイカ嬢の髪はしっとり濡れて、肌も上気している。
どうやら、温泉に入っていたところに、呼び出しが届いたらしい。それはやって来るまで時間もかかろうというものだ。
一礼して入室したマイカ嬢は、ごく自然に上座に視線をやってから、あれ、という表情を見せる。
それから、下座に私と中年男を見つけて、ええ、とさらに表情を変える。
イツキ氏とジョルジュ卿が、そのマイカ嬢の戸惑いに、間違っていない、間違っていないと必死にアイコンタクトを送る。
マイカ嬢は、どうして下座にいるかはわからないが、挨拶すべき人物が下座の中年男性だと悟ると、恭しく礼儀を示す。
「サキュラ辺境伯閣下、お初にお目にかかります。ノスキュラ村の村長クラインと、ユイカの娘、マイカ・アマノベと申します」
戸惑いもあっただろうに、マイカ嬢の挨拶は見事だった。柔らかな声は耳に心地よく、所作は優雅であった。
それに対し、辺境伯閣下の反応は、無言。唇をきつく引き結んで、強張った表情でマイカ嬢を見つめている。
そのまとう空気が石壁のように固い。さっき、私と初対面の挨拶を交わした時の数万倍堅苦しい。
どうしてここで緊張感が漂うのか、私にはわからない。
今挨拶したのは、血のつながった孫娘のはずなのだが。
マイカ嬢にとっても、相手の反応は予想外だったはずだ。わずかに目が細くなり、どのように対応すべきか、高速で考えを巡らせたのが私にはわかった。
考えられる可能性は、呼び出しから集合までに時間がかかり過ぎたことしかない。
マイカ嬢は、そう結論して、表情を一層生真面目なものにして深く頭を下げる。
「重ねて、お詫びを申し上げます。閣下のお呼び出しを受けた身でありながら、この場に遅れましたこと、誠に申し訳ございませんでした」
私でも、多分、マイカ嬢と同じ対応をしたと思う。
だが、辺境伯は、うむ、と頷くだけだ。それ以上何も言わず、じっとマイカ嬢をしかめた顔で見つめている。
おかしい。
気分を害したにしても、一応の謝罪を受けたのなら、話を進めるべきだ。
許す許さないは別として、話があるからマイカ嬢もこの場に呼び出したわけで、沈黙を続ける理由がわからない。
沈黙が、重く部屋の中に積み上げられていく。
マイカ嬢は、徐々に不安を表情に滲ませながら、今一度、自分から話しかける。
「あの、閣下? 何か、私に無作法がございましたか? 未熟な身ですので、失礼がありましたら、ご教授頂ければありがたく」
が、またしても、閣下は無言。
石像か何かになってしまったのではないかというほど、反応がない。
さしものマイカ嬢も、ここまで手応えがなければ、他の対応法がわからず、視線を泳がせて周囲に助けを求める。
マイカ嬢の救難信号に動き出したのは、姪っ子大好きイツキ氏だった。
彼は、溜息も荒々しく、動かない己の父に不満の声をぶつけた。
「父上、マイカが困っているぞ。さっさと認めてはいかがか」
認めるとは、一体何のことだろう。
マイカ嬢と私は、この異様な空気を作り出しているであろう原因を聞き逃すまいと、息を止めて耳を澄ませる。
「あなたの孫は可愛いのだ」
孫は可愛い。
よく聞く話である。
だが、ちょっと待って欲しい。
それと固まって重々しい空気を振りまく辺境伯と、何の関係があるのだろう。
「か、可愛い、だと……!」
沈黙を破った辺境伯が、臓腑の底からひねり出したかのような声で叫ぶ。
「だが、イツキ! こ、この孫は! この孫は、俺から可愛い可愛いユイカを奪っていったあの男の娘なのだぞ……!」
叫ぶ内容は理解しがたい方向性であったが、血反吐をぶちまけるような苦々しさは伝わって来た。
娘を溺愛する男親の、魂の叫びである。
「そうだ。そして、父上の可愛い可愛いユイカの娘だ」
父親に対し、息子の声は冷静だ。
だが、内に秘めた強さは、息子の方が勝っている。
「ユ、ユイカの、娘……」
辺境伯の頭が、ぐらりと揺れる。まるで脳震盪を起こしたかのような反応だ。
そこに、息子が畳みかけるように、声を荒げた。
「そうだ、父上! 目の前の孫は、ユイカの実の娘だ! とっても賢く、とっても強く、何よりとっても可愛いだろう!」
「うおおおおおお!?」
辺境伯――いやもういいや。初孫を前にしたおじいちゃんが、脳をやられたかのように頭を抱えて仰け反る。
「認めるのだ、父上! いつまでも目をそらしているんじゃない! ユイカ姉上はクライン卿に嫁ぎ、その子を立派に育て上げたのだ! さあ、しっかりと目と心を開いて、目の前の孫を見るんだ!」
「ぐ、ううぅ……!」
一体何と戦っているのか、おじいちゃんが肩で激しく息をつきながら、目の前のマイカ嬢に顔を向ける。
当然ながら、マイカ嬢は顔を引きつらせて脅え気味だ。
だが、辺境伯家の親子はそのことに気づかないようで、さらにボルテージをあげた言葉をぶつける。
「どうだ、父上! あなたの孫は、マイカは可愛くないと言えるか! その口から、そんな言葉を吐けるのか父上!」
「かっ、かわっ……無理ィイイイイ!」
おじいちゃんが、机を叩いて立ち上がり、咆える。
「うちの孫、すっごい可愛いいいいい!」
「そうだろう! マイカはすっごい可愛いのだ! 話せばもっと可愛いぞ!」
「本当かイツキ!」
「仕事もできて気遣いもできてすっごい良い子なんだぞ、父上!」
「おまっ、それ、最高じゃないかイツキ!」
「最高なんだぞ、父上!」
もう本当に訳がわからない。
こういう時、どんな顔をすれば良いのでしょうね。
とりあえず、恥ずかしいという気持ちだけは、表情一杯に浮かんでしまう。
部屋の外で、女中さん達がこの異常事態を受けて、パタパタと走り回る音がする。スクナ子爵をお呼びして、とか聞こえて来る辺り、もう本当に申し訳なくなってくる。
私と同じ、いや、より混乱している様子のマイカ嬢が、私のそば――というより、私の背に隠れるように寄り添う。
「ね、ねえ、アッシュ君……あの、えっと……」
可愛い可愛いと連呼する辺境伯家の親子を、マイカ嬢はどう表現すべきか、ひどく迷った様子で口ごもる。
結果、彼女は、震える指で指し示すことで、それを表現することにした。
「……なに?」
「わかりませんし、わかりたくもないのですが……」
まあ、力強く叫んでいる内容からして、考えられる理由は一つだ。
「おじいちゃんとおじさんが、マイカさんの可愛さにやられて頭おかしくなったのでしょう」
これ以上具体的な推測は、したくもないです。
私とマイカ嬢が、根こそぎやる気を奪われているところに、スクナ子爵が顔を覗かせる。
「失礼いたしますよ。何やら大変なことになっていると聞いたのですが」
忙しいであろう老子爵の手をわずらわせたことに、私は猛烈な恥ずかしさを覚えて、真摯に頭を下げる。
「スクナ子爵閣下、お騒がせして申し訳ございません」
上司のしでかした問題を、部下としてお詫びする。
おい、辺境伯領のトップ二人、普通は逆だろう。
「大変なことにはなっていますが、大したことではありませんので、そっとしておいて頂ければありがたいのですが」
老子爵は、姪っ子大好きおじさんと娘・孫大好きおじいちゃんの話す内容を拾って、状況を察したようだ。
ものすごく優しい笑顔で私に頷いてくれた。
「ほっほ、確かに、大したことはないようですな。軽食と飲み物を注文されたとのことで、ただいまそちらは準備しております」
「いえ、もうお構いなくと言いますか、はい、ありがとうございます」
ぺこぺこ頭を下げる私が不憫だったのか、老子爵は、良いのですよ、と労わってくれる。
「男親にとって、可愛い娘の子供というのは、複雑な感情を覚えることがあると、私もわかるつもりですからな」
これには、マイカ嬢が首をひねる。
「そういうものですか……」
「ええ。もちろん孫は可愛いのですが、娘を奪っていった男の顔がちらつくと、どういう顔をして良いかわからなくなるのですよ」
ああ、それでおじいちゃん、石像みたいに固まっていたのか。
で、それを一度乗り越えて決壊すると、孫可愛いフィーバー状態になると。恐ろしい状態異常だ。
「それに、クライン卿がユイカ殿を娶った経緯は、ゲントウ殿にはいささか苦い記憶でしょうからな」
わかるでしょ、みたいな感じでスクナ子爵が見て来るが、残念ながらわからない。
「おや? ご存知でいらっしゃらない?」
私は老子爵の疑問を肯定する代わりに、隣のマイカ嬢へと視線を移す。
「その、なんとなく、知るのが恥ずかしくて……」
この五年間、ユイカ女神とクライン村長の馴れ初めを聞く機会は幾度となくあった。だが、それを聞かなかったのは、マイカ嬢の精神衛生上の都合だ。
そりゃあ、ご両親の恋バナとか、年頃に聞いてもどうして良いかわかんないですよね。それも、なんかど派手なことしたことだけは間違いないのだ。
なぜか私も巻き込まれたのはいささか解せないのだが、お世話になっているマイカ嬢に頼まれると、大人しく従う私だ。
「ふうむ。まあ、そういうこともあるでしょうな」
人生経験豊富なスクナ子爵は、深くは問わずに笑って済ませる。
「でも、マイカさん、流石にそろそろ知っておいた方が良いのではないですか?」
「う、そう思う?」
マイカ嬢自身も感じていたのか、うかがうような視線には、同意を求める色がある。
「ええ、だって……」
私が、マイカ嬢の可愛いエピソードを話し始めたイツキ氏と、それを熱心に聞いているゲントウ氏を見やる。
「何かあった時が怖いですよ。今回は、まあ、あんな感じで済んだので良かったですけど」
「……おっしゃるとおりです」
マイカ嬢は、がっくりと肩を落として、来たるべき時が来たことを認めたのだった。
「というわけで、スクナ子爵。事情をご存知でしたら、お教え頂けませんでしょうか」
「ええ、構いませんよ。なるべく簡単な説明の方が、よろしいでしょうな」
老子爵の気のいき届いた提案に、それでお願いします、とマイカ嬢は恥ずかしそうに頭を下げる。
「そうですな。王都で行われる武芸王杯大会はご存知ですかな?」
有名な話なので、私とマイカ嬢はそろって頷く。
それは、おおよそ五年に一度の間隔で開かれる、武芸大会の全国大会版だ。
いつもの王都で開かれる武芸大会は、通常通り、王都周辺の兵や騎士が参加するのみだが、王杯大会の時は、王国中から腕自慢が集まって戦う。
「今年は行われると聞きました」
「ええ。特に魔物被害などもなかったため、無事に開かれるようですな」
おおよそ五年に一度というのは、どこかで大きな魔物被害があると、その年の大会は延期になるためだという。
被災地やその周辺の領地が、魔物を目の前にしながらも腕利きの戦士を送り出してしまうと、魔物被害を拡大するためらしい。
つまり、自領で被害が発生している最中に、領一番の戦士を派遣しかねない栄誉ある大会ということだ。
「優勝者は金功勲章を得られるそうですね」
「その通りです。金功が特別であることもご存知……のようですな」
この王国の勲章の中で、最上位は金である。
そして、私も持っている銀と、最上位たる金の間には、比較にならない差がある。
サキュラ辺境伯のような、各地の領主が独自の裁量で与えられる勲章は、銀までと王国法できめられている。それより上の金は、王家のみが与えることができるという、特別な意味を持つ。
金功を受勲するということは、受け取る個人にとってはもちろん、その叙勲者を抱える領主にとっても、大いに自慢になるほどの栄誉をもたらす。
そのため王家から金功を得た者には、勲章とは別に、何か一つ願いを聞き届けられることが慣例となっている。
「そこまでご存知ならば話は早い。今からもう十五年以上前ですな。この王杯大会に、サキュラ辺境伯領から、若い兵が一人参加しました」
その兵は強かった、と老子爵は思い出すように瞼を伏せる。
「他の参加者が弱かったわけではありませんぞ。その若い兵より大柄なもの、経験豊富なもの、たくさんいました。むしろ、見た目だけで言えば、その若い兵は一番弱く見えたかもしれません」
ところが、その若い兵がバッタバッタと対戦相手を斬り伏せて、瞬く間に優勝してしまった。
「王杯大会の優勝者は、会場で優勝の証として金功勲章を受け取ると同時に、何か願いはあるかと尋ねられるのですな。その時もそうでした」
話の流れを察して、マイカ嬢が大きな目を輝かせる。
五年間も聞くのを嫌がっていた割に、聞いてみたら大好物の話だったようだ。
「マイカ殿の期待通りでしょう。その若い兵は、自分が恋焦がれるとあるご令嬢を、己の妻へと望んだのです。若い兵が誰で、ご令嬢が誰かは、言わずともお分かりですな」
もちろん、わかります。
そうか。あの万事控え目で、奥さんの尻に敷かれるのが大好きというクライン村長は、そんな大立ち回りの末に、女神と結婚したのか。
精々、辺境伯領の中での一悶着くらいかと思ったら、まさかの王国規模だった。
道理で、ジョルジュ卿を始め、都市の騎士連中を筆頭に、クライン村長の名声が高いわけである。文字通り、剣の腕一本で、美しい花嫁をその手にしたのだ。
感心する若者二人に、老子爵は気分良さそうに、補足の説明を行う。
「ちなみにですが、当時からユイカ殿とクライン卿は相思相愛だったそうです。軍子会でお二人は出会い、たちまち恋に落ちたそうです」
マイカ嬢が、すっかり興奮した様子で頷く。
「じゃあ、結婚の条件が、王杯大会の優勝だったんですね!」
「ああ、それも間違いではないのですが……。結婚の条件と言うより、反対するご令嬢の父君を黙らせるためと言いますか……」
老子爵は、ちらりと視線をゲントウ氏に送る。
「そのご令嬢は、領主である父君から大変に可愛がられておりましてな。また、大変に美しく、機知に富んで聡明……ご領主は、方々に我が領の宝石とうそぶいて回っていたほどでして」
先程見た状態異常っぷりから、なんとなく想像がつく。
相当な親馬鹿だったのだろう。相手が女神だから仕方ないと、私は共感できますよ。
「一方、若い兵の方は、寒村の村長の息子でしてな。そんな男に娘はやるものかと、一人で大騒ぎされまして」
「あ、一人だったんですね」
マイカ嬢が確認すると、おおよそ、と老子爵は笑って頷いた。
「その若い兵も中々の人物だというのが、周囲の認識だったようですな。実際、王杯大会で優勝した姿を見れば、中々の人物どころか逸材だったのですから、文句のつけようがないでしょう」
説得力十分の実績だ。これはゲントウ氏の頭が固かったと言うより他ない。
「まあ、ご領主にも、自慢の娘の将来に色々な考えがあったのでしょう。男親としての心理がそれに重なって、兵の訴えにも、ご令嬢の訴えにも耳を貸さない様子だったそうで。そこで、若い二人がとった手段が、王杯大会の優勝というわけですな」
金功の褒賞として、二人の結婚を、というわけだ。
ご令嬢が嫌がる結婚ならともかく、相思相愛の二人の仲を認めろというのだ。これを拒絶するのは、さしもの親馬鹿辺境伯もできなかったようだ。
娘を愛する父親として、また立場ある貴族として、誇りと意地をもって、歯ぎしりしながらゲントウ氏は二人の結婚を認めたという。
なるほど、と私は頷く。
「つまり、辺境伯閣下からしてみれば、クライン村長は愛娘を力づくで奪い去った花嫁泥棒みたいなものなのですね」
「男親からしてみれば、どんな婿殿でもそのようなものですが……まあ、特にそう感じられたでしょうな」
同じ男親として、老子爵は気の毒そうに私の表現の正確さを認めた。
一方、男親になりえないマイカ嬢は、今しがた聞いた実の両親の結婚逸話に、頬を上気させてうっとりとため息を漏らす。
「素敵……。いいなぁ、私も、そんな風に奪われてみたいかも……」
熱っぽい視線が私の横顔に突き刺さって来るが、私は苦笑するばかりだ。
私がマイカ嬢を奪うには、色々と無理な条件が重なりすぎている。
一番致命的なのは、こう言ってはうぬぼれが過ぎるかもしれないが、マイカ嬢のご親族で、反対する人がいないことだと思う。
皆がどうぞと祝福してくれる状況では、奪うとは言えまい。
ところで、イツキ氏とゲントウ氏は、まだ話の本筋に戻って来ないのか。
彼等にとっては、姪・孫の可愛さ賛美が本筋かもしれないけれど。
そういえば初めてイツキ氏と会った時も、イツキ氏はマイカ嬢に夢中になっていたっけな。
私の視線に気づいたマイカ嬢は、一瞬、自分の熱視線を無視されてご不満な様子だったが、溜息一つで私の思考に合わせてくれた。
猟師式のハンドサインで、「やっちゃう?」と聞いてくる。
私の応えは、もちろん「やっちゃう!」である。
猟師式であるため、サインの本来の意味が殺傷を示すことは、偶然である。何も謀反の打合せをしているわけではない。
マイカ嬢が、妙ちきりんな気勢をあげている叔父と祖父に、とことこと歩み寄っていく。
その途中で、困った人達だなぁ、という呆れ顔が、拭い去られるように愛らしい笑顔に置き換わる。
「叔父上、お爺様」
普段のトーンより二段ほど高い、マイカ嬢必殺の甘え声である。
「いつまでもお二人で話してないで、私達も混ぜてくださいな。マイカ、寂しいです」
おじさんとおじいちゃんは、デレデレ顔でマイカ嬢の指示に従った。
この場で最強権力者が誰か、決定した瞬間である。




