煉理の火翼3
スクナ子爵が用意して下さった宿は、温泉地で最も格式高い宿だった。
主賓の領主一族は、そういう扱いも当然だと頷けるが、よもや貧農の倅の私まで最高待遇の宿に宿泊できるとは思わなかった。
湿気を考慮した木造平屋の宿本体の佇まいは、さして大きくない。
だが、この宿は温泉地の一角をふさぐ形で建てられており、その奥には長年をかけて整えられた林が存在する。
これが、宿の庭である。
この庭園の中に、いくつもの離れや温泉があり、宿泊客は喧騒を離れて思い思いに湯治を楽しむことができる。
休暇はもちろん、密会にも持って来いだ。
実際、そういう使い方もされていると、イツキ氏がそっと教えてくれた。やんごとない方々のリゾート地ともなれば、そうなるのも必然と言えよう。
客の目に入らないようひっそりと衛兵が巡回しているのは、防諜と暗殺の対策なのだろう。
対魔物に重点を置いた辺境伯領の衛兵と違い、子爵領の衛兵達は対人用の繊細な気配をまとっている。
忍者的な空気だ。
今も、私は露天温泉に浸かっているのだが、湯船の向こうに広がる川と木々の風情ある景色の中に、ちらほらと黒子のような衣装を着た衛兵の姿が見える。
お仕事お疲れ様で~す。
肩まで温泉に浸かり、口から魂を吐き出す勢いでリラックスしながら、影働きの皆様に感謝の念を送る。
「あ~……」
癒される。
今世十五年、下天のうちをくらぶって蓄積した疲労が、お湯が染みた肌から抜けて行くようだ。
やっぱりお風呂は良い。温泉だとなおのこと良い。
心身ともに解されて、今までとは違った視点で今後の計画を検討できそうだ。
今まではサキュラ辺境伯領の中だけで物事を進めてきたが、石鹸技術の放出という手札を切った以上、今後はそうもいくまい。
あれ、一応は王室独占級の代物だったし。
今回、スクナ子爵からご招待に与ったことからも、サキュラ辺境伯領の開発技術が注目されている内幕がうかがえる。
公開技術と秘匿技術に注意して、外部との交渉に臨むべきであるな。
「アッシュ、せっかくの温泉に来てまで、そんな難しい顔をすることはないだろう」
「おや、ジョルジュ卿――ではなくて、バレアスさん」
貸切状態のお風呂場にやって来たのは、ジョルジュ卿だ。
新婚旅行中なのだから、堅苦しい役職呼びはやめておいた。
私よりしっかり筋肉のついた体にかけ湯をして、ジョルジュ卿は隣に浸かって来る。
なお、今世では混浴が普通だが、湯着をつける習慣があるので、健全だ。男性は膝丈くらいのズボン的なものを装着する。
お湯の温かさに、ジョルジュ卿は心地良さそうに吐息を漏らしてから、私に笑いかけてくる。
「また仕事のことを考えていたのだろう? 少しは気を抜いたらどうだ。俺から見ると、お前は働き過ぎだ」
「バレアスさんに働き過ぎと言われると、ちょっと危険な感じがしますね」
冬の領軍備品総点検の経験者ですからね。致命的な労働量だ。
私が真面目な顔で頷くと、ジョルジュ卿は明るい笑い声をあげる。
「そうだろう? イツキ様も、俺から言うと説得力があるはずだ、と言っていたよ」
あまり心配をかけるなよ、とジョルジュ卿は私の肩を肘で小突いてくる。親友でもあるイツキ氏を慮っての釘刺しのようだ。
体調管理は完璧なはずなんですけどね。
「そういうバレアスさんこそ、せっかくのお休みなんですから、私なんかではなく新妻と一緒に入るべきだと思いますよ」
新婚旅行なんだからヤエ神官と一緒にいなさいよ。
その辺は皆さん気を遣って、離れの露天風呂付き客室をあてがっているのに。
「流石に連日二人きりでは間が持たんよ、今日は別行動だ」
「新婚早々、なにをおっしゃるのですか。がんばってくださいよ」
「そう言われると……あまりいじめてくれるな」
真面目で精悍な顔立ちを、世にも情けない風に歪めて、ジョルジュ卿は嘆息する。
惚れた弱味という言葉があるけれど、どうもこの夫婦に限っては、惚れた側であるヤエ神官の方が強いらしい。
ジョルジュ卿が不器用すぎるとの見方もできる。仕事はびっくりするくらいできるんですけどね。
「そのヤエ神官は、今はなにを?」
「他の女性陣から誘われて、温泉を巡ると言っていたよ。先達として助言がどうのこうのと言っていたが」
「ほほう、恋の助言ですかね?」
推進室の女性陣はいずれもお年頃の乙女であるからして、難攻不落に見えたジョルジュ卿を陥落せしめたヤエ神官の手腕に興味があるのだろう。
スイレン嬢辺りは特に参考になりそうだ。お相手が同じ真面目な騎士タイプである。
今世の十五歳といえば、正式に結婚してもおかしくないお年頃だ。
比較的環境のよろしい上流階級でも、平均寿命が四十歳前後だから仕方がない。さらに平均寿命が下回る農民になると、十五歳で子供を持っていても当たり前に見られる。
前世と比べると、皆が生き急いでいるのだ。
「ああ、なんのことかと思っていたが、なるほど、恋の助言か」
ジョルジュ卿は、よくそういうことがわかるな、と感心した後、珍しく意地の悪い表情を浮かべる。
「では、妻に倣って、俺もいくらか先達として振る舞うべきかな?」
「おや? 私の恋愛事情への追及ですか?」
ずいぶんと久しぶりの話題だ。
都市に来たばかりの頃、初めてジョルジュ卿とプライベートで話す席を設けた時に、そんな話をした気がする。
その時は、お互い仕事人間だからと笑い話になったものだ。
その直後にジョルジュ卿をヤエ神官とデートさせましたけどね。あれはいい仕事ができたと自負しています。
「お前ももういい年だ。それに、ずいぶんと立場も変わった」
そうだろう、とジョルジュ卿は、後輩となった私のフルネームを役職付きで口にする。
「騎士アッシュ・ジョルジュ・フェネクス」
ええ、そうです。
私、この春から騎士生活始めました。
アジョル村でのトレント戦の功績により、サキュラ辺境伯閣下から騎士位を賜ったのだ。
姓の由来は、もちろん不死鳥である。とうとう不死鳥マークが、正式に私のシンボルマークとなってしまった。
「一家を為したのだ、その名を次代に繋ぐのも務めのうちだぞ」
「それはわからないでもありませんけれど、貴方が言うと説得力に欠けますね、義父上」
「むぅ、やはりそうか?」
私の返しに、長年独身生活を送っていた我が義父バレアスさんは、頭を掻いて誤魔化す。
そう、バレアスさんは私の義父だったのである。
私のミドルネームに使われているジョルジュは、一度はジョルジュ家の養子になったことを示すものだ。
ほんの二年足らずの養子生活であった。
ジョルジュ家の養子にならないか、という話は、私が軍子会を卒業した直後に持ち上がったものだ。
私が部下を統率する身分となる上で、農民の息子という出自で不利にならないようにと、イツキ氏が熱心に勧めてくれた。
多分、都市を離れて村に戻らなければ、と私が言い出した件が影響しているのだろう。
マイカ嬢の影響がちらほらと見える。
ひとまず故郷に相談をしてみたら、ユイカ夫人はぜひそうすべきだとやたら嬉しそうに推して来た。
両親も、親子の縁が切れるわけでもないと、快く養子に出してくれた。
アッシュ・ジョルジュの誕生は、私より周囲の人の方がよほど喜んでいたと思う。
イツキ氏が心底ほっとした顔をしていたし、マイカ嬢は我が事のようにはしゃいでいた。
その時の祝福っぷりを思うと、いささかジョルジュ家の息子だった時間が短すぎたような気がする。
トレント八体を倒しきったことを報告した時のイツキ氏の表情は、特にそんな考えを引き起こす。
賽の河原で石を積んで百年目みたいな顔になってたから……。
ともあれ、ちょっと前まで義父であった(今でも義父なのだが)ジョルジュ卿は、先輩騎士として私に結婚を勧めて来る。
「まあ、悪い例の俺が言うのも、ほら、あれだ、説得力があるだろう? かなり周囲から口うるさく言われたからな。あれはつらいぞ……」
「イツキ様も相当せっついたと聞いていますよ」
「あの人が一番うるさかった。新しい侍女が入ると必ず見合いを勧めて来るんだ。あれには本当に困った」
額を押さえてうな垂れる姿には、説得力十分な面白さがある。
「で、とうとう養子にまでお見合いをセッティングされて、そこから詰んだと」
「そうだぞ、俺の結婚はアッシュのせいだ」
私の〝せい〟とは悪意のある言い方に聞こえますな。
「ヤエ神官にご不満でも?」
「い、いや、それはない! ないぞ! 今のは言葉の綾というかな……」
やっぱり、この夫婦はヤエ神官の方が強いようだ。
「そういえば、バレアスさんが独身を続けていた理由、以前は教えてくださいませんでしたねえ」
確か、昔の恋が忘れられない、でしたっけ?
聞きたいですねえ。聞かせて頂きたいですねえ。
「ヤエ神官はご存知のお話ですか?」
「い、いや、知らないはずだが……アッシュ?」
「義父と養子なのですから、聞かせて頂けませんか? 今なら、ここだけの秘密にできると思いますよ?」
「今なら……?」
「ええ、今なら」
今を逃すとここ以外の秘密になってしまうかもしれません。
具体的には、ヤエ神官のお耳に入ります。
さあ、ジョルジュ卿、あなたはヤエ神官の追及を逃れる自信がおありですかな?
親切心に満ちた忠告を、笑顔の微妙な表現にてお知らせすると、バレアスさんの額に大量の汗が浮かんでくる。
お察しの通り、大変危険な状況ですので、返事は計画的にされるがよろしい。
「う、ぐ……っ」
その時、ジョルジュ卿の眼が何かに気づいた光を宿す。
なにか、上手い反撃を見つけたと見える。
一体なにに気づいたのか。私は思考を回しながら、ジョルジュ卿の一手を待つ。
もし、雑な言い訳が出て来たら、即座に叩き潰してくれる。
「い、いいだろう。俺も身を固めたのだ。過去に区切りをつけるのに、良い機会かもしれん」
「ほう?」
覚悟を決めたのだろうか。
いや、ジョルジュ卿の表情は、追い詰められながらも諦めていない。
自身の命を投げ打つことになろうとも、必ず敵を食い止めんとする騎士の顔だ。
「だが、こちらだけが話すのもなんだ。アッシュ、先にお前の話を聞こうじゃないか」
「私の?」
ジョルジュ卿の秘密の恋バナが聞けるというのであれば、こちらも相応の情報を提供する覚悟はありますぞ。
ジョルジュ卿は、切り札を叩きつけるように、真剣な眼差しで告げる。




