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フシノカミ  作者: 雨川水海
煉理の火翼

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煉理の火翼2

 結局、トレントは他にはいないようだった。

 幸いなことだ、と胸を撫でおろして良いだろう。決して、残念がってはいけない。


 トレントの樹家は、八体分とは思えない広範囲に広がっていたので、しばらく資源の入手には困らない。

 これが尽きる前に、他の樹家が見つかればなお都合がよろしい。

 見つからなければ、他領から輸入することになる。

 少々金はかかるが、今世ではガラスはともかく、硫黄などの利用法を確立している個人・団体がいないようなので、多分簡単に取引できる。

 めちゃくちゃ貴重で重要な資源なんですけどね。


 とりあえず、研究所に持ち帰ったガラス入り硫黄を、硫酸にする科学実験を始めよう。

 研究所の実務責任者ヘルメス君にゴーサインを出すと、あらかじめ調べていた手順に従って、研究所員(受刑者)の皆さんが動き出す。


 まず、樹皮ガラスを割って、中身を取り出します。


 ……いきなり違和感がすごい。

 やっぱり、この樹皮、ガラス瓶代わりになってますよね。


 化学変化に強いガラスで資源が守られているのは大変都合がよろしいのだが、流石に不自然だ。

 ある時は人を襲い、ある時は資源の入手先である魔物とは、一体なんなのだろう。


 私の疑問はいや増すばかりだが、とにかく、硫酸を作るために機材が準備されていく。


「ヘルメス副所長、ガラス器、組み立て終わりましたー」

「りょーかい! 今、確認しまーす」


 研究所員の報告に、ヘルメス君もてきぱきと動いて、機材の状態を確かめる。


 メインの機材は、ガラス製の装置だ。

 これは簡単に説明すると、二つの部屋に分かれている。

 一つは、硫黄と硝石を燃焼させる部屋。

 もう一つは、燃焼反応で得られた物質が流れていって、溜まる部屋。


 もちろん、後者の部屋で得られるものが、目的の硫酸である。

 この装置を複雑にしていくと、硫酸の濃度を上げたり、得られる量の効率化ができる。


「よーし、機材問題なし!」


 ヘルメス君が自身の手で機材を確認し終えたことを、大きな声で知らせる。

 それから、全体の様子を監督していたレイナ嬢に頷く。


「レイナ所長、実験開始の許可をお願いしまーす!」

「許可します」


 和気あいあいとした研究所には珍しいことに、事務的で簡潔なやり取りだ。

 そもそも各自の呼び方からして形式的である。


 これは、数々の危険物を扱う研究所が、自分達で考え出したルールに従っているのである。

 普段はどんな呼び方でも言葉遣いでも構わないけれど、危険が伴う実験、慎重さが求められる研究の最中は、決まりきった手順を守ること。

 それは呼び方一つからそうだし、一つの手順が終わる度に声に出し、上司の確認を取ることもそうだ。


 ルールの発案者は、やはりと言うべきか、レイナ嬢であった。

 締めるところはかっちり締める、頼りになるお姉さん属性に、ますます磨きがかかっている。

 彼女には、ベルゴさん達受刑者でさえ素直に言うことを聞かせるお姉さん力(カリスマ)がある。


 このルールを適用してから、研究所では大小の事故率が目に見えて減ったので、マイカ嬢がきちんとお褒めの報告書を作成した。

 優秀な部下を自慢するのも、上司のお仕事である。


「よし、硫酸製造実験、開始!」


 ヘルメス君の指示で機材に火が入れられ、レイナ嬢が注意深く全体の動きを観察している。

 私はそれをニコニコしながら見ているだけという、実に楽な役回りである。

 研究所のメンバーは、本当に優秀で助かる。

 いや、研究所のメンバーも、と言うべきか。頼もしい同僚や仲間に囲まれて、私は大変な幸せ者である。


 ちなみに、さらっと硫黄と並んで機材に入れられた硝石であるが、主な入手先は畜糞堆肥の製造小屋と牧場である。

 農業に都合の良い微生物さんが、堆肥用に窒素を分解してくれるついでに、この硝石も採れるようにしてくれるのだ。

 結構前から集めていたものが、今ようやく日の目を見た。


 これで硫酸ができれば、硝酸も作れるし、塩酸も作れる。

 消石灰から得られたアルカリ性物資と比べて、遅れること四年、とうとう工業的に使える酸が手に入る。

 硫酸は麻酔や肥料、そして電池の製造に利用できるし、硝酸はなんと写真技術に利用できる。それ以外の利用法だって多数ある。


 いやぁ、しばらく研究のネタには困りませんなぁ。

 一気に前途が開けた気分だ。


 頼もしい研究所メンバーの奮闘により、第一回の硫酸試作実験は、無事に完了した。

 硫酸、なんとか入手しました。


「すみませーん、アッシュさんがここにいるって聞いて来たんですけど」


 私がガラス瓶に抽出した硫酸を満足感と共に眺めていると、実験小屋の中に少女が入って来る。

 着慣れていない神官服が初々しい、スイレン嬢である。


「はい、私はこちらですよ。どうしました」

「あ、いたいた。トレントの捜索が無事に終わったって聞いたので、そのお礼をしたいと思いまして」


 アジョル村村長の役職を持つ少女は、今の彼女にできる最大の丁寧さで、頭を下げる。


「冬のトレントの襲撃からこれまで、数々のご厚意、本当にありがとうございました」

「スイレンさんにそう言って頂けるのであれば、働いたかいがありました。他の衛兵の皆さんにも、伝えさせて頂きます」


 トレント捜索隊と、トレント討伐隊の皆さんも、若い村長の謝辞に喜ぶだろう。

 今回の捜索完了で一段落となったのだし、合同で打ち上げ会を開いて、彼等の奮闘を労っても良いですな。


「あ、グレンさんにだけは、スイレンさんから直接お伝えしますよね?」

「えっ? い、いえ、それはそのっ」

「直接お伝えください」


 にっこり笑って後押ししておく。

 真っ赤になったスイレン嬢に、周りの研究所員も事情を察して微笑ましそうに表情を緩める。大半が強面傷持ちのおっさんですけどね。

 数少ないおっさん以外の人物、レイナ嬢がくすくすと愛らしい笑い声を漏らす。


「わかりやすいわね。でもアッシュ、からかうのは良くないわよ?」

「からかうなんて人聞きの悪い。応援ですよ」

「どうかしらね」


 ほどほどにしておきなさい、と言わんばかりのレイナ嬢の優しい眼差しに、私は笑って頷いておく。

 レイナ嬢のお姉さんっぷりはますます磨きがかかってきた。

 皆のお姉さんレイナ嬢は、スイレン嬢にも包容力たっぷりに話題を振る。


「ともあれ、スイレンさん、良いところに来ましたね。丁度実験が一つ終わったところなの。ヤエ神官も気にしていると思うから、報告を持ち帰って欲しいのですけれど」

「あ、は、はい! なんの実験でしょう?」

「それが正確にわかっているのは、アッシュくらいでしょうけど……硫酸製造実験ですって」

「りゅうさん……」


 スイレン嬢は、しばらくその単語を口の中で繰り返して考えていたが、やがて手を叩いて笑顔を見せる。


「あれですね! 肥料を作るのに使うっていう、あれ! トレントの捜索途中で必要な材料が見つかったって聞いたけど、もうできたの?」

「ええ、これがその硫酸ですよ。良く覚えていましたね」

「うん! まだまだ勉強不足だけど、農業に関係あることはがんばって覚えるようにしてるから」


 驚きながらも嬉しそうに、スイレン嬢は私の示したガラス瓶を見つめる。


「へえ、見た目は水みたいなんだぁ。想像してたのと違うなぁ。これを動物の骨とかにかけると、肥料としての効果が高まるんだったっけ? あ、いえ、でしたっけ?」

「ええ、文献によるとそうらしいです。今まで試したデータがないので、らしい、としか言えませんけれど」

「あ、じゃあ、これから確かめないとですね! うん、あたしもがんばります!」


 彼女のがんばる発言は、硫酸を使用した肥料の効果を試験畑で試すことが、彼女の仕事になるからだ。

 初めて出会った頃と違って、実に積極的なスイレン嬢である。


 現在、彼女は神官見習いであり、領地改革推進室の協力者として働いてもらっている。

 これは、残念ながら一時解散となってしまったアジョル村の復興のため、農業をもっと学びたいという希望を受けて取られた措置だ。

 他にも、アジョル村の村人が十人ほど、都市に移住することになり、研究所の試験畑を運用する人手として雇われている。スイレン嬢には、彼等のリーダーをお願いしたのだ。


 ゆくゆくは、試験畑の記録や実験内容の提案まで任せたいと考えている。

 今、どんな実験内容になるのか熱心にレイナ嬢と話しこんでいるスイレン嬢を見れば、試験畑の管理責任者が誕生するのもそう遠い話ではなさそうだ。


 ただ、そのためには、意欲以外にも基礎的なスキルが必要になる。

 軍子会に参加できなかったスイレン嬢は、そのスキル、読み書き計算を習うために、神官見習いとして神殿に入ったのだ。


「スイレンさん、ヤエ神官との勉強はいかがです?」

「あ、はい。とってもわかりやすく教えてもらっています。フォルケ式って言う勉強法みたいなんですけど、すごいですよ、あれ。村で自分で文字を覚えようとしてた時よりずっと覚えやすいんですよ」


 その方法なら良く存じております。

 というか、ヤエ神官、いつの間にそんなものを使い始めたのですか。


「ま、まあ、どんな勉強法であれ、わかりやすいなら何よりです」

「憧れの都市にやって来て、勉強させてもらっているなんて、夢みたいですよ。それもこれも、全部アッシュさんのおかげで、本当にどう感謝したら良いか」

「とんでもない。こちらにとっても、研究所の試験畑を任せられる人手が欲しかったのですから、ありがたいことです」


 それに、私はスイレン嬢の希望を、上司であるマイカ嬢やイツキ氏に報告しただけなので、ほとんど手間はかかっていない。

 有為の人材を見逃さない上司が優秀なのだ。


「それを言うなら、畑で働くのだって、結局は新しい農業の勉強になるし。ありがたいことばかりですよ」

「お互い損のない関係ということですね」


 どちらにも負担がないなんて、きっと長続きできる良い関係になるに違いない。

 そんな素晴らしい関係なのに、スイレン嬢はちょっと困った笑みを浮かべている。


「ええっと、ありがたすぎて心苦しいっていうのがちょっと……」


 スイレン嬢の呟きに、レイナ嬢とヘルメス君が頷く。


「わかるわ、それ」

「最初は皆そんな感じだな」


 私以外は共感できる悩みらしい。私はさっぱりわからないので首を傾げざるを得ない。


「ありがたいことなら、そのままありがたく受け取れば良いと思いますが……」

「だから、それがありがたすぎて苦しいのよ」


 レイナ嬢の返しが早い。

 皆さん、随分と贅沢な悩みをお持ちみたいですね?


「私にはよくわかりませんが……ともあれ、お悩みがあるということで、心労お察しいたします」


 中身はわからなくても、悩みを持つ苦しみならば良くわかる。

 私も、夢に向けて今後どのように進んでいくべきか尽きない悩みを抱える身だ。同じく悩む同士を、優しい言葉で励ますくらいはできる。


「そういうことならば、もうすぐ温泉地で有名なスクナ子爵領に行けるのですから、そこでゆっくりと休んで、気分を新たにしましょう」


 実に楽しみですね。今世初の温泉ですよ。

 私が満面の笑みを浮かべたのに対して、スイレン嬢はますます困ったように苦笑する。


「その……さんざん迷惑をかけたあたしが、そんな旅行に同行させてもらえるっていうのも、大分きついんだよ……?」

「なにも気にしなくて良いと思いますよ? きちんとイツキ様が許可を出してくださったんですから、目上のご厚意に甘えるのも、目下の可愛げです」


 私が発案した温泉休暇が決まった時、今回の功労者であるグレン君が、スイレン嬢も連れて行きたいと素直な気持ちを漏らしたのだ。

 これを伝え聞いた私・マイカ嬢・イツキ氏は、そりゃそうだと三人そろって頷いた。


 今まさに恋に夢中のお年頃ですもんね。せっかくの楽しい旅行イベント、好きなお相手と一緒に行きたいなんて当然すぎる。

 そして、スイレン嬢自身、曲がりなりにも二年間、アジョル村の現場で責任者として踏ん張りとおした実績を持っている。最後には、村壊滅の危機に際して、村長として立派に振る舞った。

 辺境伯領としても、褒美を与えるに不足はない。

 そして、領地改革推進室の一同で温泉地に行くならば、一人増えたところで大した違いはない。


 だったら、スイレン嬢も一緒に温泉に行けば良いじゃない。

 流れるようにスイレン嬢の温泉行きが決まったわけだ。

 どこにもスイレン嬢が気にする要素はない。強いて言うなら、グレン君の背中でも流してあげれば良いんじゃないですかね。


「そもそも今回の温泉旅行、メインの目的は、スクナ子爵からのご招待に応じることと、辺境伯閣下との会談ですから」


 スクナ子爵は、石鹸の製造法を教えた温泉地の為政者だ。

 こちらも打算ありありの技術交換であったが、石鹸の獲得に大層喜んで頂けたらしく、今回の招待はそのお礼である。

 また、近頃の領地経営が色々と立て込んでいるため、辺境伯閣下が良い機会だから直接会って話し合いたいと仰せになられた。


 だから、今回の温泉旅行にはイツキ氏も参加して、子爵家とのトップ外交と、辺境伯家内のトップ会議が開かれる。

 最重要の公務と言っても過言ではない。


 そう、あくまでお仕事、これは出張である。

 出張先に温泉があったので、疲れが取れて幸せになれるお湯に入れるだけだ。

 私も、湯治場を有するスクナ子爵や、ご主君であるサキュラ辺境伯と直接言葉を交わす可能性も高いという。上手くコネを作っておけば、今後の計画も有利になるに違いない。


 色々と楽しみなお仕事であるな。

 私が夢への希望溢れる顔で皮算用をしていると、スイレン嬢、レイナ嬢、ヘルメス君が、顔を寄せ合って溜息をついている。


「あたし、そのお偉い様からのご招待っていうのが、もう恐れ多いんだけど」

「そういうことに慣れてないんだもの、それが自然ですよ。私だって緊張するわ」

「気にすることないよ。こんなのが平気っていうか、楽しみにできるのなんて、アッシュだけだって」

「アッシュさんだもんね」

「そう、アッシュだもの」

「アッシュだからな」


 別にもうそれで納得して頂いても構いませんが、特大の溜息をくっつけるのは止めて頂きたい。

 まるで、私が困った人間みたいではないですか。

 しかし、スイレン嬢(と他の二人)の悩みはわかりましたよ。


「どうやら、辺境伯閣下のお誘いに恐縮しているようですが、気さくな人物なので大丈夫ですよ」


 なんたって、領主クラスのトップ会談があるのに、推進室一同の同伴を許可してくれたくらいだ。

 柔軟な対応ができる、話のわかる上司だ。


 もっとも、許可が下りた最大の理由は、サキュラ辺境伯領が誇る重鎮の結婚の報せにあるだろう。

 この度、新たに誕生した夫婦に、新婚旅行をプレゼントしようという辺境伯閣下の粋な計らいだ。

 私達推進室は、それと同じタイミングで温泉に行きたいと声をあげたので、ご相伴に与ることができたようだ。

 タイミングは大事である。


 結婚した重鎮が誰かって?

 いい年して未婚のままでいたとある騎士様で、年下の美人神官にとうとう追い詰められた人です。

 存分に祝って差し上げましょう。

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― 新着の感想 ―
スイレンさんが無事留学できてよかった そういやいい年したイケメン騎士おじさんの初恋こじらせはどうなったんでしょう 女性向け作品ならめちゃくちゃ需要ある過去持ちキャラなのにいつの間にか年貢を納めてるw
[一言] この成果は、一途な想いかそれとも執念の為せる業か。よくぞ難攻不落の牙城を崩したものですな。 ヤエ神官、おめでとうございます㊗
[良い点] 段々と人生の墓場に追い詰められていく経過が、経過のみで語られる点が軽くホラーです。 途中途中に具体的なイチャイチャが語られればほのぼのなんだけど、経過報告だけだとマジで追い詰められてる感…
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