灰の底1
本だ。
本だった。
意志を繋いだのは、いつだって本だった。
歴史上、多くの暴君が、本を滅ぼそうとしてきた。焚書、ビブリオコーストという、本を焼くことだけを指した言葉さえある。
だが、成功したものはいない。
本は焼かれ、灰になり、崩れ落ち、しかし消え去りはしなかった。
誰かがその懐に忍ばせ、炎から救った。
誰かが庭の土に埋めて、暴君の眼から逃した。
誰かが、その頼りない記憶の中に押し込んで、炎が吹き消された後に取り出した。
本はいつも、勇敢で情熱的な反逆者と共にあり、暴君と戦ってきた。
今日もまた、本は戦っている。歴史の誕生と共に、あるいは本の誕生と共に始まった、最大にして最強の暴君との戦いを続けている。
常に本を見張り続け、絶え間なく本を消し去ろうとする、無慈悲にして勤勉なる暴君の名を、時という。
そう、本は、時の暴虐に消し去られまいと、今だって戦っているのだ。
この壮大で崇高な、ついでに高貴で絢爛で、騒々しくも静謐で、何より心弾む戦いに、私もまた参加を志したのはつい昨日だ。
私の名はアッシュ。
前世の記憶らしい何かを持っている、今は八歳の少年だ。
****
「本を読ませてください!」
ドーンと神殿教会の扉を開けて、私は熱い思いを打ち明けた。
返事はない。粗末な椅子が並んだ教会は、がらんとして、埃だけが出迎えてくれる。
やはり、神官フォルケは奥の私室へ引きこもっているらしい。
それも無理はあるまい。教会は、本来であれば、その集落の祭事を催す宗教施設であると同時に、集落にある程度の教育活動も行うための教育施設である。
だから、神殿の教会らしい。
粗末な椅子は、冠婚葬祭の参列者が座るためであり、村人が暇を見つけては勉強をしに来るためにあるのだ。
だが、この私が生まれた農村は、問答無用のド田舎である。
戸籍なんて存在しないが、村人が百人くらいしかいないということは、見て、知っている。
さて、そんな限界集落に、暇な村人というのは存在するだろうか。
なお、この村の文明は、中世暗黒時代並である。内燃機関など存在しない。全て人力。馬力は前にあったが、現在はいない。
村唯一の農耕馬は、二年前にお亡くなりになり、この神殿教会で葬式を営んだ後、食べた。
あれは葬式と言う名の焼肉パーティーだったな。
また食べたい。お腹空いた。
…………。
問答に戻ろう。農耕トラクターもねえ、農耕馬あるいは農耕牛もねえ、化学肥料は何物だという絶望集落に、暇な村人は存在するか否か。
言うまでもない。否である。村人毎日(働き過ぎて目が)ぐるぐるである。
私も八歳にして立派な労働力だ。流石に重労働は少ないが、畑の雑草や石ころの除去、森の浅いところでの山菜取り、川での魚取りは、一通りこなしている。
前世(と思われる記憶)では、少年や少女というのは近代の発明であり、それは豊かな社会制度の下でしか生まれないという話を聞いた覚えがある。
つまり、幼児(非労働力)と成人(労働力)との狭間にある「働けるけど働かされない」期間が、少年少女という概念らしい。
すなわち、この村には、労働的な概念としての少年少女は存在しない。少年少女は、ただの半人前の労働力である。
結果、この神殿教会に赴任してきた神官フォルケが教える相手というのは、この村には現在存在しない。
村長の家では、例外的に子供に教育的時間を作ることになっている。さもありなん。徴税官やら何やらと話をするのは、村長の一族なのだ。読み書き計算ができなければ、村全体が困る。
まあ、実際には、これも有名無実化している。必要がある時は、神官が村長に同席して助言すれば良いという考えだ。
神官フォルケの赴任から一年、彼が教育を施した人間は、ゼロだ。
いや、ゼロだった、と言うべきか。
ここに、今一人、教えを請いに来た私がいるのだから。
「フォルケ神官、フォルケ神官! ダビドの家のアッシュです! 返事がありませんが勝手に失礼いたします!」
神像と椅子が置かれた聖堂の奥、神官が暮らす私室のドアを礼儀正しくノックした後、情熱的無礼さで押し開ける。
こぢんまりした、必要未満の広さの一室がそこにある。
部屋の中、がたついた机に突っ伏していた男が、乱れた長髪をかきあげて私を見る。
「なんだ、ダビドの家のガ――息子か」
「はい、ダビドの家のガキのアッシュです! ひどい顔ですね、フォルケ神官!」
男は、徹夜でもしているのか目の下のクマがひどい。かなり痩せており、身だしなみも崩れきっているので、とても聖職者には見えない。
村中で密かに、亡者神官と呼ばれているだけのことはある。普通の八歳なら夢に見そうだ。
亡者神官は、生命力溢れる私の声にダメージを受けたように眉をひそめる。
「何の用だ。それと、声をもっと小さくしてくれ、頭が痛い」
「失礼しました、ちょっと勢いが余っていまして。用件は、本を読ませて頂きたいのです」
「本?」
フォルケ神官は、自分の背後の書架を見やって、鼻を鳴らす。その動作で、書架に積もっていた埃が躍り上がる。
「本なんか読んでどうする。こんな何もないような村で」
貧しい村で、本なんて無用の長物だと言いたいのだろう。自虐的な笑みを浮かべたフォルケ神官は、確かに亡者のようだった。
書架の墓所を守る、孤高の亡者だ。
彼を説き伏せなければ、本にはたどり着けないらしい。
「そうですね。とりあえず楽しみます」
亡者神官は、その疲れた顔をかくんと傾げた。
「なに言ってんだ、お前」
「そっちこそ何を言っているのですか! 本ですよ、本! 楽しむものに決まっているではありませんか! 楽しんで楽しんで、何も考えずに楽しむ時間がなければとてもやってられませんよ、この世知辛すぎる世界!」
前世らしき記憶で裕福な生活を知る私には、今世の貧しさは尋常ではない。
恐らく他人の十倍つらい。何度身投げしようと思ったことか。すでに正気を失っているとしても納得できる。それくらいつらい。
ところが、昨日知ったのだ。村長家の奥様が、なんの変哲もない物語の本を読んで下さった時に知ったのだ。
本の世界に浸れば心が癒される!
それはそうだ。現実がつらいなら、現実以外で楽しむしかない。具体的には、空想の世界で!
「理屈ではないのです。フォルケ神官は、お腹が空いてつらい時、手に取る食事に目的が必要ですか? 水中で溺れて息が苦しい時、水面に浮かび上がって大きく息を吸うことに目的が必要ですか!」
八歳児がつめよると、その迫力に亡者神官は慌てて頷く。
「そりゃ、何も考えずに食うし、吸うな」
「そうでしょう! だから、本はただ読んで、楽しむのです」
「なるほど」
大きく頷いて、フォルケはそれなら仕方ないかと書架に手を伸ばす。
「いや待て。今の理屈はおかし――」
「おかしくありません! どこがおかしいというのですか、この私の! この本への純粋一途な想いのどこが!?」
情熱をこめて、私はフォルケ神官の眼を見つめる。視線で人を殺せるものなら百回は殺せる気持ちをこめている。つまりは殺気だ。
我ながら、ちょっと正気が怪しい昨今である。これは冗談ではない、かもしれない冗談ということにしておこう。
そんな本気の気持ちが伝わったのか、フォルケ神官はただでさえよろしくない顔色をさらに青ざめさせて、慎重に頷いてくれた。
「わかった。良いだろう。……しかし、お前、文字を読めるのか?」
聞くまでもない質問を、私は鼻で笑った。
「フォルケ神官は、この村で何人の人が文字を読めると思っているのですか」
「二人。俺を入れて三人」
「合っていますね。わかっているではありませんか」
「やっぱり読めないんじゃねえか!」
前世の文字ならすらっすら読めるし書けるんですけどね。
今世に生まれて早八年、文字なんて数えるほどしか見たことないのだから、仕方ないじゃないですか。
「まったく、話にならんな。どこでそんな大人ぶった話術を覚えたかしらないが、ガキに手取り足取り読み書きを教えるつもりはないぞ」
「おや、非協力的なことですね」
とはいえ、予想していたことだ。
村での噂でも、私自身が見た限りでも、どうにもフォルケ神官は腐っている。
悪人という意味ではない。この三十代前半の男は、かなりの都会である王都からこんな辺境に飛ばされたことで、やる気や生きがいを失ってしまったらしい。
左遷されたエリートの末路といったところだ。
そんな人間に面倒事を頼んでも、上手くいくはずがないとは覚悟していた。
「それならば仕方ありません。簡単な本で良いので貸してください。それ以上はお手を煩わせません」
「馬鹿言え。本がどんだけ高価なものかわかってんのか。汚されたり売り飛ばされでもしたらどうすんだ」
「良いではありませんか。一冊くらいなくなったって、誰も気づかないでしょう」
私の言葉に、フォルケ神官は書架を今一度眺め、そこに溜まって遠慮を知らない埃に、忌々しそうに舌打ちをする。
全く管理のなされていない現状では、私の言葉を否定できないのだろう。
「神官にそれを言うとはいい度胸だな、クソガキ」
「これくらいなんてことありませんとも。フォルケ神官がいくら怒ったところで、他の村の人は全く気にしないでしょうからね。本を売ったお金が手に入った後ならなおさらです」
この村では、本の価値はゼロに等しい。
もしも私が盗んだとなれば、窃盗行為自体には白い眼を向けられるだろうが、本のことを気にする人は誰もいないだろう。
そこに賄賂を贈ってしまえば、窃盗行為自体も見逃される可能性がある。本の価値がゼロに等しいなら、路傍の石を手に取り、懐に入れたも同然だからだ。
誰も、それを窃盗などと思わない。
フォルケ神官も、そうは思いません? 思いますよね。
私はニコニコして、フォルケ神官を見上げる。
「このクソガキ……脅してやがるのか」
まったく、そんな怖い顔をしないで欲しい。
私だって脅迫したくて脅迫に聞こえるかもしれない言い回しをしているわけではないのだ。
神殿教会の神官が持つ教育者の役割を、忠実に果たして欲しいだけだ。仕事をサボタージュしようとしたのは、そっち。こっちは正当な権利を、脅迫に聞こえるかもしれない言い回しで求めているだけだ。
どちらが悪者か、八歳児にだってわかるというものだ。
「まあ、売るなんてこと、私がしないというのは、今ので信じて頂けたと思います」
その時は借りて売るんじゃなくて、盗んで売りますからね。私はにっこり笑顔にその意味を含ませる。
「ただ、汚さないことは難しいですね。気をつけはしますが、事故ということもあります」
ですが、とフォルケ神官が口を挟む前に、否定しづらい言葉を繋げる。
「そもそも本は、時の流れの中で、どうしても傷ついて摩耗するものではありませんか?」
「それは、まあ、確かに本は傷んでいくものだが」
予想通り、フォルケ神官は私の言葉を肯定してきた。これが、理屈をどこか別世界に忘れて来たような人間が相手だと、通用しないのだ。
フォルケ神官が理屈っぽい人で本当に良かった。感謝の気持ちで、相手の言葉を拡大解釈していく。
「そうです。本はどうしても劣化していくもの。劣化し、いつかは朽ち果ててしまうもの。果たして、ここの本達は、今まで何回読まれたのでしょう。そして、今後何回、読まれることがあるのでしょう」
もちろん、わかるわけがないが、さして多くないことだけは確かだ。
少なくとも、読み過ぎで擦り切れてしまう前に、その形を失うだろう。
「本だって、そこで埃をかぶって朽ちていくより、私に読まれて傷んだ方が本望というものです。私が読めば、ひょっとしたら、記憶を頼りにその本が蘇るかもしれないのですから」
「なるほど」
フォルケ神官が、感銘を受けたように腕を組んで数度頷いた。
「やたらと口の上手いガキだな。本当に農民の倅か? 商人じゃなく?」
「それはとっくにご存知だと思いますけど……」
「そうなんだがな。まあ良い。その弁舌に免じて、本を貸してやるから、少しでも後世に残すために良く読んで――」
と、話が上手いこと行きそうになったところで、フォルケ神官は我に返ったようだった。
「いや、待て待て待て! だから、お前は読めないんだろ!?」
「チッ、気づきましたか」
「危ねえガキだなこの野郎!」
「危ないなんてとんでもない。安心安全の無力で無邪気な八歳ですよ?」
とんだ風評被害だ。
別に詐欺をしようというわけでもない。詐欺に聞こえたかもしれない言い回しですが、これはただの説得です。
「ま、今は読めないのは確かですけどね。だから、簡単な本を貸してください。自分で覚えますから」
「馬鹿野郎。そんな簡単に覚えられるなら、俺みたいな神官がこんな辺境まで寄越されるか」
「誰も簡単に覚えるとは言っていませんよ。フォルケ神官が祭事の時によく言う聖句が載っている本を貸してください。そういうのがまとめられた教本? 説教集、ですか? そういうのが良いです」
フォルケ神官は、詐欺師の儲け話を聞くような顔で何かを考えこむ。私がまた何か変な罠をしかけていないか、疑っているに違いない。
重ねて言うが、私は脅迫に聞こえるかもしれない言い回しや、詐欺に聞こえたかもしれない言い回しで、説得しているだけだ。そんな疑われるような真似は何もしていない。
この澄み切った八歳児の眼を見て信じて下さい。
「何考えてるかわかんねえ眼をしやがって」
それはフォルケ神官の眼が悪い。主に寝不足が原因だと思う。
「まあ、良い。そういうことなら、俺が書いた写本がある。これなら売ろうにもはした金にもならんし、汚れても問題にならないからな」
「おお、ありがとうございます! フォルケ神官、あなたの行いに神の御恵みのあらんことを!」
説得のかいがあった。やはり時間をかけた丁寧な対話は偉大だ。
暴力はもちろん、詐欺や脅迫なんて理性的な話し合いができない野蛮人の所業だ。人と人はわかりあえるものなのだ。
深い達成感とともに、差し出された写本を掴む。が、フォルケ神官ががっちり掴んで渡してくれない。
「重ね重ね、ありがとうございます。必ず大切に扱いますので、安心してお渡しください」
手を離してくださいこの野郎、と伝えてみる。
「良いか、絶対に妙な真似をするな。大人を怒らせるなよ」
「妙な真似なんてそんな、脅かさなくてもしませんし、するつもりもありません」
早く寄越せ。というか離せ。これは今は私のものなのだ。
フォルケ神官は、ものすごく躊躇いながら、ようやく手を離しやがった。
そうだ、最初から素直に渡せば良いのだ。
フォルケ神官の寛大さと、どんくささ、ケチっぷりに何かを言うことなどせず、本――というより紙の束をめくって、全く意味の分からない文字を視線でなぞっていく。
その中から、数少ない見知った文字を発見し、フォルケ神官に尋ねる。
「フォルケ神官、この一文をどう読むのか教えてください」
「お前、本を貸したらそれ以上、俺の手を煩わせないとか言ったよな?」
「ええ、はっきり言いましたとも。だから、フォルケ神官は手を使わず、口を動かしてくださいね」
ほら、アホ面さらして絶句してないで、さっさと教えてください。
本当にこれを教えてくれたら、後は口も煩わせないから。今日はね?
フォルケ神官が教えてくれたところによると、その一文は、「逞しき狼神、賢き猿神、猛き竜神。その大いなる力を今日も与えたまえ」という神官どころか農民もよく使う祈りの聖句だ。
予想通りだ。神殿教会に祀られている三つの神像に彫ってある文字と「狼神」「猿神」「竜神」が一致していたし、文章の区切り方からそうだと推測できたのだ。
良かった。この文字は、表意文字ではなく、表音文字だ。
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