うるせえ。
祖父は、縁側に腰をおろし、茶をすすっていた。今日、百六十歳になった。もう、それを祝ったりはしない。祖父が、面倒だからやめよう、と言ったのだ。
「誕生日、おめでとう」
少年は、横に並んで、同じように座った。
「なんにも、めでたいことなんかねえ」
そう言いながら笑う祖父の目じりのしわが、深くなった。
「ああ、お前、夏休みって言ってたな」
思い出したかのように続けた。確かに言ったが、家にいるのは、いつものことだ。
全ての高校は、通信制なのだ。中学校までは、登校義務があり、校舎もあった。現在、高等学校と呼ばれている建物は、普段は地域の住民に貸し出されている。家からは、かなり遠い。
年に数回、同級生とはテストの日だけ、顔を合わせる。話は、特にしない。行って、帰ってくるだけだ。
「どうすんだ。これから」
「心配しなくてもいいよ。大丈夫」
「ぼうっとしてるから、心配なんだ」
「うん」
何と言っていいか、わからない。
祖父はサンダルをつっかけて、畑の方へ歩いていった。
見上げると、遠くの空が少し赤くなっていた。
家がある場所は、かなりの田舎だった。それでも、空は灰色がかっている。もっと遠くへ行かないと、澄んだ空は拝めない。
部屋に戻る前に、幸福値を測った。六十五。値は、管理部へ送信される。一日に一回、測定する。それが、決まりだ。百歳になるまでは、測り続けなくてはならない。
測定器は持ち運ぶことができるうえに、街の至る所に設置されている。この家には、一つだけ。いつも居間の壁に掛かっている。
二十以下になると、管理部がやってくる。
最近、管理部の制服を着た中年の男が二人、近所の家に入って行くところを見た。確か、小さな子供のいる夫婦が住んでいた。
彼らが、何かしたのだろう、と思った。一ヶ月くらい経って、そこに住んでいる父親らしき男を見た。妙に、目が光っていた。生き返ったと言うべきか。以前は、肩を落とし、足を引きずるような感じで歩いていて、目も死んでいた。その男は、既に極地行きが免除になっている人間だった。
価値を生み出さない人間は、極地という場所へ、強制的に送られる。これも、管理部が行っている。極地は、街の真ん中にあり、塀で囲われている。何万人入るのかは分からないが、街に一つの割合で点在している。郊外に住む人間より、極地にいる人間の方が多いのではないかと思う。それぐらい、大きい。
灰色の煙は、極地から出ている。行われているのは、労働。食べ物、生活用品、電子機器など、あらゆるものが、極地で作られて郊外へ運ばれてくるのだ。
穏やかな郊外に留まるためには、管理部の承認が必要だ。自分には、価値を生み出す能力があると、認めてもらわなくてはいけない。デジタルでも、アナログでもいい。いや、とにかく、何か秀でたものが必要なのだ。学校の成績が良ければ、郊外の大学へ進学できる。極地行きが免除される可能性はかなり高くなる。だが、大学へ進学できるのは、本当に一握りの人間だけだ。この国の、上位二割。学力で、大学へ行けるなんて、考えたことはない。運動や、芸術の類にも、期待できない。
極地行きが決定する年齢以下で、幸福値が二十以下になった場合でも、即座に極地行き。
極地へ行くぐらいなら、死んだ方がまし。そう言って死んでいく若者もいるぐらいだ。一度入ってしまえば、出てこられない。
百年以上。もしかすると、死ぬまで。
ただ一つ、極地を出る方法があった。管理部になるのだ。だが、管理部の人間は誰一人、その仕組みを郊外の人間には教えない。きっと、言えば大変なことになるのだ。
恐怖や苦痛を感じずに、簡単に死ぬ方法があった。
この国の死因第一位は、自殺。死ぬのは極地行きを嫌がった若者たち。そして、生きる理由を失った老人。
僕は、死のうとまでは思わない。それに、死ぬのがこわい。
楽天的。それだけが、取り柄と言ってもいいだろう。
人間の寿命は、今も伸び続けている。昔は、百年生きれば大往生と言われていた。寿命が伸びた理由はわかっていない。
父は、高校を卒業して、すぐに大工として働き始めた。そして、仲間とともに、地震に強い家の構造を研究し、望みがあると管理部に言われ、極地行きを免れた。今は、建築士だ。
母は結婚し、子供を産んだ。それで郊外にいられる。
あと十年。それまでに、何か見つけなければならない。
少年は高校を、卒業した。すぐにコンビニで働き始めた。進学以外で、正当な理由がなければ働かなくてはいけない。さもなければ極地行き。
音楽。芸術。運動。プログラムにより構成されたシステムの作成。極地行きが免除された奴らが、近所にいた。僕と、同い年だった。
幸福値は、下がり続ける。値は四十後半。値が二十以下になるか。僕が、極地行きの年齢になるか。
商品は、大型のトラックで運ばれてくる。もちろん、極地から。運転しているのは、管理部の人間。一見、大変そうに見えるのだが、なぜか、そこまで辛そうには見えなかった。
日ごとに、幸福値は下がっていく。死ぬ奴らも出てきた。
自殺する人間の幸福値は、大体、二十以下だ。
そもそも、自殺が増えたのは、苦しまずに死ぬことができる装置を拡散させた管理部のせいだ。それを、企業が売った。管理部は、黙認した。
人が、死なない。だから、増える。
減らしたかったのだ。まったく、卑怯な奴らだ。以前は、死ぬことを恐れたりしなくなる薬さえあった。
そんなことが本当に許されるのか、ありえない、と思うのが歴史というやつだ。第三次世界大戦も、大量虐殺も、今では全く考えられない。
極地と呼ばれる場所は、世界中にある。昔は、そんなものは、なかった。この極地も、数百年後には、ありえない歴史の一幕になるのだろう。
例の装置や薬が拡散した当時、ものすごい勢いで人が死んだ。そのため、すぐに回収された。だが、今も歴史は続いている。いわゆる、密売。当然、それらを作る組織がある。手に入れるのは、そこまで難しくないという。
少年は、淡々と働いていた。何かに、ならなくては。頭では、そう思っている。
また、朝が来る。
数年が経った。結局、湧き上がるのは、わけのわからない怒りだけだった。郊外にいる人間が、楽をしているから。管理部なんて奴らがいるから。極地なんてものがあるから。
幸福値は、二十を下回ってはいない。なぜか、怒りに燃えれば燃えるほど、値は上がった。
青年はコンビニの店員だった。周りにいた若者たちは、二十を下回り、連れていかれた。半分は、その前に自殺した。そのコンビニには、また、新しい人間が入ってきた。四つか、五つ、年下。またいなくなる。それを、何度も、何度も、繰り返した。
それでも、青年は、青年のまま。怒りは、怒りのままだった。
幸福値は、二十を下回ってはいない。
時間切れ。十年、経った。
母と、父が居間にいた。表情は暗い。
チャイムが鳴った。
「俺が、出るよ」
男が、二人。おとなしく、青年は車に乗り込んだ。父と母が家の外に出てきた。一度だけ、振り返った。
「珍しいですね。最近は、値が二十以下で極地行きが普通なんですよ。年齢制限の方で、極地行きとは」
「そうですか」
「しかも、値は七十。何を、されていたんですか」
「コンビニの店員です」
「そんなに、楽しかったんですか」
「いえ」
男は興味を失ったように、前を向いた。
沈黙が続いた。
数時間は経ったか。
見慣れない景色。
「あの。極地行きを免除された人間の幸福値が二十以下になると、どうなるんですか」
青年は、小さな声で、遠慮がちに聞いた。
「それは言えないですよ」
「極地では、単純労働ですよね?」
「まあ、そんなところです」
「そんなに甘くないですよ。二十四時間、管理されていますから。簡単に、自殺もできないですよ。まあ、過労で亡くなる方のほうが、圧倒的に多いですけどね」
「どうやったら、管理部になれるんですか」
「ああ、それは向こうに着いたら説明があります。体力があり、勤勉で、冷徹。そんなところですかね。国に、忠誠を誓うわけです。郊外の人間には間違っても言ってはいけませんよ。管理部になれる人間は、全体の一割にも満たないですけどね」
「あんたはどうせ出てこれないよ。目が、おかしいんだよな。とても、国のために何かする人間には見えない」
運転していた男が、口を開いた。ミラー越しに、目が合う。
「もしかして、自殺用の装置とかを作っているのは」
「もちろん。極地ですよ。やっぱり、増えすぎても駄目なんですよね。あと、死にたい老人には、死んでもらった方がいいじゃないですか」
「昔の人間が、変なものを作ったせいですな。ほんとに」
本当に、そうだと思う。
無意識に、青年は運転手の首に、後ろから腕を回していた。もう一方の手で、押さえ、締め上げる。
「おい。おい、何をする、反逆者が」
隣に座っていた男が、喚いた。
うるせえ。そう、思った。
前の座席に組み付くような形になり、足の裏で、隣りの男の顔面を、思い切り踏みつけた。
もう一回。後頭部が、窓ガラスに当たる。
ハンドルが、ゆっくりと回る。中途半端に、前の男はハンドルから手を離さないでいる。もがいている。
反逆者か。そうだよな。この人たちから見れば、そうなるよな。思いながら、青年は男の頭を蹴り続けている。低い音が、その度に鳴る。
他に、道はあったかな。
ゆっくりと、回り始める。ハンドル。前の信号は、赤。交差点である。
こうする以外に、郊外にいられる方法か。考えつかないな。
衝撃は、左から。青年は、驚き、腕に力を込めた。
回った。逆さになっている。戻った。また、回った。回る。音を立てて、窓が割れていく。目を、かたくつぶった。
轟音。
見えるものが、揺れている。歪んでいる。
立ちのぼる白煙の中に、人影が浮かび上がった。クラクション。
うるせえ。
二歩、三歩と歩き出す。平地が、続いている。壁。あれの向こうが、極地なのか。どこまで、続いているんだ。
灰色の、よどんだ空の下だった。それが全てを包み込み、距離感を奪っていく。
つじつまを、合わせた結果が、これか。
「動くな」
その声で、青年ははっとして、振り返った。
立ちのぼる白煙の中に、浮かび上がる。人影が、一つ。聞き慣れない、女の声だ。
[了]