何に対しての謝罪なのか
「……文ちゃんは」
パカリと何の前触れもなく目を開けた幼馴染みは、意識を失う前と変わらない、抑揚のない声でそう問い掛けた。
幼馴染みが目を覚ましたことは嬉しくても、その言葉に返せるものが見付からずに、視線を手元へと落とせば、隣に立っていたイトコが動く気配がする。
「作間……悪い」
幼馴染みの体を起こしながら、殆ど呟くように言ったイトコの言葉も、きちんと届いていたようだ。
上半身を起こした幼馴染みは、ゆるりと視線を宙へ向けて、そう、と頷く。
やはり感情の見えてこない声だった。
数日前から意識不明だった目の前の幼馴染みは、思いの外、しっかりと意識を失う前のことを覚えているようだ。
いつも通りの光のない黒目は、真っ白なシーツに向けられ、薄く開いた唇からは、細く長い息が漏れる。
「あの子は……」
こほっ、と小さな咳と一緒に出た言葉には、私が「生きてるよ」の一言で返す。
この場合は、生きているのではなく、助かったよ、が正しいことを、私は知っていた。
高校生にもなって、言葉選びくらい出来なくては困る。
それでも、正しい言葉を選び取らなかったのは、もう一人の幼馴染みのためだった。
幼い子供の命を一つ、一人分助けて、その代償として、幼い頃から同じ時間を過ごした幼馴染みの命を一つ、一人分失ったあの日。
一週間にも満たない、本当に数日前。
あの日の放課後は、私とイトコが学校に残っていて、幼馴染み二人だけで帰っていた日だった。
現場は見ていない。
見たのは、既に息を引き取った幼馴染みと、意識不明で白いシーツに沈み込んだ幼馴染みだ。
ただ、聞いた話では、小さな子供がボールを追い掛けて車道に飛び出した所に、目の前の幼馴染みが更に飛び出し、子供を抱きかかえた瞬間に、ここにいない幼馴染みが背中を押した。
つまり、子供を救った幼馴染みと、そんな幼馴染みを救った幼馴染みだ。
「親御さん、感謝してたよ」
「そう。良かったね」
イトコの言葉に、幼馴染みが真っ黒な瞳を向けて、一つ頷いた。
大きく波打つ黒髪が揺れるのを見ながら、私は下唇を噛み締める。
それを咎めるように伸びてくる白く細い指先を見ては、鼻の奥がツンとして目の奥が痛くなった。
「軽率だった?」
幼馴染みの言葉に、私は顔を上げる。
目と目が合えば、私の心中が見透かされているようで、どうしても口が開きにくい。
イトコは何も言わずに見守っている。
「……何で助けようとしたボクが助けられて、生きてるんだろうね」
何も言わない私を見て、幼馴染みが更に言葉を続けた。
淡々とした、感情の見えない声音だ。
いつものことでも、何でこんな時まで、そう思ってしまうのはいけないことだろうか。
「……ごめんね」
違う、違うの。
下唇を撫でる指先が、予想していたよりも優しくて温かくて、視界が滲む。
イトコが息を吐くのが聞こえて、それに合わせるようにして液体が一粒、私の目から落ちていく。
目の前の幼馴染みが謝ることは一つもない。
だって、子供を見捨てれば良かったなんて言えないのだから。
綺麗事かもしれないが、言えないのだ。
だからと言って、子供が助かったと涙を流し、お礼を言った母親に笑顔を見せることは出来なかった。
二つの命は、どちらも同じ命だ。
ただ、近しい者か、それ以外か。
天秤に乗せれば、同じ命なのに、近いか遠いかで重さが決まってしまうだろう。
それを分かっていても、言えなかったし、言いたくもなかった。
私の涙を拭いながらも、小さく、何度も何度も咳き込む幼馴染みを見て、イトコが水を手渡す。
コンビニでも自動販売機でも、どこでも売っているような有り触れた水だ。
それを受け取った幼馴染みに変わり、イトコの手が私の背中を撫でた。
「ぶはっ、何これ」
けほこほ、と咳き込むような音ではなく、げほっ、と何かを吐き出すような音だった。
視線を上げれば、白いシーツが濡れて、色が変わっている。
幼馴染みが手にしたペットボトルの中身は、三口分程減っているが、その殆どはシーツに零しているだろう。
「何これって水だろ。お前こそ何してんだ」
私の背中を撫でる手を止めて、訝しむように眉を寄せたイトコは、幼馴染みの手からペットボトルを抜き取った。
飲んでみなよ、と幼馴染みが言うのと同時に、躊躇なく飲み口を傾けるイトコ。
「別に普通だろ。ほら」
「……うん、うん。普通」
目尻に溜まった涙を拭いながら、手渡されたペットボトルに口を付けた私も、眉を寄せたままのイトコに同意するように頷く。
すると幼馴染みは、頭から額に掛けて巻かれた包帯に触れながら笑う。
口元だけを引き上げた笑い方だった。
「うん。ごめんね」
翌日の早朝。
生きていたはずの、意識を取り戻したはずの幼馴染みは、病院の屋上から飛び降りた。
遺書などは存在せず、病室も綺麗に整えられていたらしい。
そしてその日は、雲一つない晴れた朝だった。