『深緑の忍』第二話 囚われの姫君
陽が落ちた街道を、信じられない速さで走る『なにか』があった。
いや、それはもう走っているとは言わないのかもしれない。何故ならその『なにか』は、思わず目を塞ぐほどの光を放ちながら、耳をつんざく轟音を響かせ、その姿を視認出来ないほどの速さで進行していたからだ。
もしそれを見た人々がいるならば、口を揃えてこう言うだろう。
それはまさに地を這う雷だ。と。
「ああああぁぁぁぁああ! 速い速い速いッ!」
「あーもう! うるさい耳元で騒ぐなッ!」
閃光の中で発される声。だが二人のその会話は、轟音に飲み込まれ、周囲に聞こえることはない。
この雷の正体は、ギンをおぶって疾駆するミレディの姿だった。
街を出る前に、馬車では間に合わないと判断した彼女の選択によって、おぶって走るというごくごく単純な提案が出されたのだ。
馬よりも速いと必死に説得してくる彼女の言葉に、ギンが折れる形でこの方法が取られたのだが……。
その結果がこの、地を這う雷なのである。
「この程度で騒ぐなギンっ! こんなのはまだ速い内に入らんぞ!」
自らの行いを棚に上げ、配下を罵る少女。エルフとしてどうなのだろうか。
そもそも間に合わないのは、彼女の長い昼食の所為でもあるのだが。
ギンはそんな理不尽な彼女へ、叫ぶ。
「そんなこと言われてもッ! てか何なんですかこれ!? ただのエルフに出せる速さ超えてますよっ!」
彼の動揺も仕方がないだろう。何故なら彼女達は今音速を超えているのだから。もし人間がむき出しの状態で音速を越えれば、深刻な被害を受けるだろう。
だがたとえ音速を超えたとしても、風を操ることが出来るミレディとギンの二人には、特に何の被害も無い。
そしてこれだけの速度を出しているのは、無論……
「……上位雷魔法の『電光石火』と、同じく上位風魔法の『疾風追風』の複合魔法だ。名付けて『瞬光』。魔王になる私だからこそ出来る魔法だ」
魔法に並外れた才能を持つエルフ、ミレディだからこそ出来る芸当。
いつもの彼女なら得意げに話すのだろう。だが今の彼女はギンの『ただのエルフ』という言葉に、少しむかっ腹を立てたようで、恐ろしいほどの無表情だった。
――そして彼への報復として、その速度を少しずつ上げていく。
ギンの絶叫を飲み込んだ雷光は、暗くなり始めた空に閃光と轟音を響かせ、なおも一直線に走り続ける。
「生きてる……ああ良かった、生きてる。本当に死ぬかと思った……」
「大げさな……はあ、もういいか? 行くぞ」
自信が生きていることに安堵し、力なく座り込むギン。
無理もないだろう。馬車で一晩のところを、二時間弱でやって来たのだから。
彼はもう少しだけ座っていたい様だったが、ミレディからの冷めた視線に耐えきれず、震える膝に力を入れる。
「それで、目的の場所には着いたんですか?」
「ああそうだ、ここが、この森だ。」
彼女達の目の前に広がる広大な森。樹海とも呼ばれるこの場所が、彼女が複合魔法を使ってまで急いだ理由だった。
「この森には昆虫人と呼ばれる種族が住む里がある。私はそこに用があったのだが……まあ、やはり遅かった様だな」
少女の視界に広がる広大な森。だが、その奥深くからは夜空を照らすように、赤々とした炎が立ち上がっていた。
そして漂ってくる不快な臭い。残念なことに彼女達は、間に合わなかったのだ。
少女は立ち上がる火柱から目をそらすと、深いため息を吐く。
「報告と違うな……計算が狂ったか。騎士団の進行はもう少し後だと思っていたのだが、どうやら新国王が功を焦ったようだ」
そう言って、苛立ちをその表情に浮かべるミレディ。
彼女は『ここにはいない誰か』に向かって、ため息を吐いた。
「そうですか……俺にはよく分からないですけど。とにかくどうします? それじゃあ今入っても騎士団と鉢合わせして危ないのではないですか?」
じゃあ昼ご飯くらい抜けよ。ギンはそのとんでもなく失礼な言葉を飲み込んで、代わりにこれからのことを尋ねる。
「いや、このまま森に入る。いまさら、もう手遅れなのかもしれないが、確認だけはしておきたいからな」
「はは、やっぱりそうなりますよね……」
諦め、そう呟くギン。するとミレディはそんな彼に向かって、空間から取り出したあるものを差し出す。
細く、大きく反った、刀と呼ばれるその剣。それは彼女の所持する『黒刀』と酷似していたが、大きく違っていた。
それは彼女のものとは全く正反対の、薄く輝く様な白色をしていたのだ。
「持っておけ。私の刀程上等なものではないのだが、これもななかなかの業物だ。この先はお前を守りきる自信がないからな。最低限自身の身は自分で守れ」
「そんな……騎士団とはそんなに強敵なのですか?」
自身の身は自分で守れ。彼女のその言葉に不安を感じたギンが、恐る恐る、彼女に問いかける。
「ああ……私の巻き添えを喰らわない様にしておけ」
「身を守るって、ミレディ様から自分を守れってことなんですか……」
そうして一抹の不安を残しながらも、彼女らは森の中へと歩を進めるのであった。
――――――――――
「さて、現在の状況はどんな感じかな?」
白い服を着た好青年。それが彼を見ての第一印象だろう。
彼は、急いでやって来た自身の部下に、重厚な態度で問いかける。
「はっ、一、二、三班からの報告が届いていますので、今から読み上げさせていただきます」
……座ったまま優しげに目を細め、部下の報告を聞くその姿。それを見るだけで、彼の人となりがよく分かるだろう。
「各班とも多少の負傷者が出たみたいですが、全て順調に進んでいるそうです」
「ああ、それは良かった。じゃあここは僕が守っているから、君達は引き続き頼むよ」
青年がそう命じると、彼の部下は小気味良い返事を返し、森の中へと走り去る。
そして、彼の周りに訪れる静寂。
やがて青年は静けさに耐えられなくなったのか、自身の癖のある金髪を弄りながら、背後を振り返る。
そして、『それ』に向かって話し始めた。
「やあ、暇だね、何か話そうよ」
「……」
だが、『それ』は彼の言葉には応えない。話したくないのか、話すことができないのか、もしくは両方か。その俯いたままの顔からは、感情を読み取ることはできない。
「つれないねぇ、いいじゃないか、少しくらい話してくれたって」
彼は不意に、座っていたものから立ち上がった。そして顔中に悪意の見えない笑みを浮かべると、再び『それ』に向かって話し掛ける。
「ほら、君の『お友達』も言ってるよ? 無視は嫌だって」
「……ぅあ」
そして彼の一方的な会話が、終わった。ついに『それ』が口を開いたのだ。
「……ころ……し、て……」
絞り出す様な掠れた声。ひび割れた口から漏れ出した、その悲痛な懇願の言葉。
だがその言葉に、彼の笑顔は一層深く刻まれる。
「だめだよまだ死んじゃ、君にはこれからまだまだ囮になって貰わないといけないんだから」
「……うぅ……もう、やぁ……」
青年の発したその言葉に、『それ』は……彼女は大粒の涙を溢した。それは今日何度目の涙なのだろうか。
だがいくら涙を流しても、どうすることもできない。
彼女にはもう、自分で命を絶つ力すらも残っていなかったのだから。
「あはは、泣かないでよお姫様。せっかくの美人さんが台無しだよ?」
「……ぅぐ……ひっぐ……」
悔しさに、下唇を噛み締める。
彼女は今腕を木に括り付けられ、無理矢理に膝立ちの姿勢を取らされていた。
お気に入りの着物は無残にも引き裂かれ、剥ぎ取られた。自慢の白い肌も、彼等からの執拗な暴行によって、所々青く変色している。
だが彼女が本当に悔しいのは、抵抗できずに一方的に嬲られたことでも、手足を縛られたせいで、己の秘部を隠すことができないことでもない。
……自分を、仲間を殺すための囮として使われていることだった。
「いやぁ、でも羨ましいな、こんなに仲間に慕われているなんて。本当に羨ましいよ」
昆虫人族は命の危険が迫ると、同族にしか感じることができないフェロモンと呼ばれる臭いを放つ。
それは絶対数が少ない昆虫人が仲間同士で助け合い、どうにかして生き残るための秘策だったのだが、彼女の目の前の悪魔は……それを囮として使ったのだ。
「でも面白いね、こんなに簡単に引っかかるなんて。君の仲間達は優しいね……いや、それともただの馬鹿なのかな?」
「……ぐぅ……ぅ」
里の長、『姫』である彼女にとって、仲間への侮辱は何よりも許しがたいものだ。その屈辱に、彼女の顔はいっそう歪んだ。
だが、その瞬間、彼女の前方から聞こえる大きな爆発音。そして彼女の名前を呼ぶ、聞き慣れた声。その声を聞いた彼女の暗い瞳から、再び涙が溢れる。
「貴様らあぁぁあッ! よくも我らの姫様をッ! 許さんぞぉ!」
黒い忍装束を身に纏った、筋骨隆々の大男。大きく盛り上がったその体には、全体に黒光りする甲殻が張り巡らされている。そして何より目立つのは、その頭部から生えた一本の角。
甲虫を模した姿の彼は、彼女のお目付役だった五人の昆虫人のうちの一人だった。
「おや、あの方角は……どうやら四班がやられてしまったみたいだね」
青年はそう言って、ゆっくりと立ち上がる。緩慢な動きだったが、その目はしっかりと目の前の新たな敵を捉えていた。
「姫様ッ! 待っていてくだされ、拙者が今すぐ助け出してみせます!」
だめ、来ないで。喉が潰れた彼女の叫びは、彼に届くことはなかった。
「覚悟ッ!」
大男が繰り出す、極端な前傾姿勢を取った頭からの突進。それは並外れた巨体を持つ、甲虫型である彼の奥義だった。
甲殻に包まれた体で繰り出される突進は、この里では止められるものはいなかった。そう、この里では。
だが青年は……。
「ふう、『王国式剣術』……刺突ノ項――」
迷いなく抜かれた、白銀の剣。青年は迫り来る巨体を避けることなく、その切っ先で迎え撃つ。
慌てず、余裕の態度を崩さずに、ただ真っ直ぐ……彼の剣は大男の額をめがけて放たれた。
「黒角兜ぉッ!!」
「――ハイリヒ・シュトース」
白銀の剣と、黒の角が交差する。勝敗は、一瞬で着いた。
剣の切っ先が触れた瞬間、黒い忍の頭部が、呆気なく弾け飛んだのだ。
力を失った巨体は、ゆっくりと地面に倒れ込む。おそらく彼は、死んだことを理解する前に意識を失っただろう。
「はあ、四斑の損害状況が気になるな。伝令も来ないなら……もしかして全滅かな?」
青年は、四散した大男の死体に目を向けることなく、白銀の剣を仕舞う。そして、その惨状を全く意に介さない様子で、小さく呟いた。
「だけどまあ、これで厄介なのは殆ど片付けられたからね。もう後は楽だろう……はあ、でもそろそろ飽きてきたな」
そうして、今度は硬質な黒い巨体の上に腰を下ろす。
彼は、新しくできた『椅子』の座り心地を確かめる様に瞼を閉じると、深く息を吐く。
「……あぁ……やだ、よぉ……カブトぉ……」
『姫』と呼ばれた彼女の痛ましげな声を聞きながら、青年はつかの間の眠りにつく。
王家直属護衛部隊『騎士団』副団長――アレックス・バーナード。
それが、青年の名前だった。
「ちなみに副団長は僕を含めて三人いるよ」