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揺らめきの向こう側に

作者: 井沼 若水

 目蓋に痛みを感じてゆっくりと目を開ける。最初に飛び込んできたのは砂利の混じった土の色だった。やがて、はっきりと意識が戻ってくるにつれて、上半身だけ横になっていたことに気がつき、体勢を戻しながら私は周囲を見渡した。

 目の前には道が両端に続いていて、その道の向こうには木々が生えている。どうやら後ろには川が流れているようだ。せせらぎの音だけが聞こえてきている。その中の開けた空間にあるベンチに、私は腰かけていた。公園の一角なのだろうか。見渡す限り同じような景色が続き、その先にどんな空間が広がっているのか想像することは困難だった。

 ここは、どこだろう。

 途方にくれた私は、つい手元を見る。何も持っていなかった。周辺にカバンの類もない。それどころか財布や時計、携帯すら持っていなかった。

 「何にも無しか」自嘲的な呟きが口から洩れた。

 そもそも、どうしてこのような場所で寝ていたのか思い出すことができない。陽の具合からすると、昼近い時間だろうが、それまで私は何をしていのだろう。記憶を手繰っていくことで何とか糸口を見出そうとするが、その記憶すら曖昧なままだった。

 私は誰だ。そんな疑問が私の中で増大していく。

 ふと唐突に「私」を示す手がかりすら全くないことに気づいてしまい、不安が一気に増大した。その心中を無理やり押し殺して考える。

 とにかく、この場所に座っているだけでは何も解決しない。それは確かなことだろう。とすれば、歩き始めるしかないなと意を決して立ち上がった。

 ちょうどその時、一人の男がこちらに向かって歩いてきたのが見えた。足取りは随分と軽いようだ。どうも信用できそうもないが、他に選択肢があるようにも思えない。私はその男に向かって近づいていく。けれど、私が言葉を発するよりも先に、男が声をかけてきた。

「あなたは誰ですか」

 思わず絶句して固まっていると、男はいきなり笑いだし、話を始めた。

「やぁ、すいません。そんな反応が楽しくて、ついついそんな風に声をかけてしまうのがワタクシめの悪い癖でして。もちろん、あなたがこの状況に困惑していることは十分に、ホント十分に承知しているつもりでございます。えぇ、ホントに」男はまだ笑っている。

「あぁ、そうかい。楽しんでくれてそりゃ良かった。で、一体あんたは何なんだ」私は、イラつきを滲ませながら答える。その声色に何か感じるところがあったのか、男は急に真顔になった。

「ワタクシですか。そうですね、この場の水先案内人とでも申しましょうか。あなたの困惑を少しでも解消して差し上げますよ。ですが、多くの疑問点に対しては答えることができませんし、またそのつもりはありません。第一、いきなり会った男の言葉を信用しようとは思わないでしょう」

 なんだか人を馬鹿にしたような態度だ。いっそ無視してやろうかとも思ったが、手がかりを簡単に手放すのは惜しいと思い直し、努めて冷静に話しかける。

「そうかもしれないが、じゃあ何を答えてくれるんだ」

「ある意味では大切なことです。この場所は現実とは少し違います。そして、ここから出るには出たいという意識を強く持つだけでいいんです。ただし、その想いを持つことが簡単かどうかは、また別の問題でもあります」

 最初に抱いていた印象からは想像できないくらいに男の態度が変わっていた。

「ある意味では、とはどういうことだ」

「説明するのは難しいのですが、例えば夢の中だったら何をしてもいいと思うか、夢の中であったとしてもしてはいけないことがあると思うか。どう思うかは人それぞれってことです」

 男の言わんとすることは理解できた。要するに、あんたが何をどう思うかは知らんということだろう。

 男は続ける。「そして、あなたが今ここにるのは信じられないかもしれませんが、あなた自身の意思です。ワタクシは手助けをする立場ではありますが、それもあなたがそう望んだからに過ぎません。つまり、あなたはこの空間に対し自ら結論を出すしかないのです」

「どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ。だから、すぐに出たいと強く思えば簡単にここから出られますよ」男はいったん言葉を区切り、思わせぶりに言葉を続けた。

「けれども、すぐに出てしまったら、あなたは何故こんなところに来たんでしょうねぇ」

 頭が混乱してきた。

 男の話を信じるならば、私は自らの意志でこの空間に望んできたようにも思える。そして、何らかの成果を得ようとしているのだろう。にもかかわらず、記憶は曖昧の状態に置かれ、手がかりはあまりに少ない。一体どうすればよいのか。これでは、堂々巡りだ。

 唐突にある想いが胸をよぎる。

「俺は死んだのか」

 その言葉にかぶせるように男は「アナタは死んだのですか」と、心底不思議そうな顔をして答えた。

 あまりの予想外の返しに、頭が余計に混乱する。だが、会っていきなりふざけたことを言ってきた奴であるということを思い出し、こ奴の態度を素直に見るのもどうかと思い直す。

 もし本当に死んだとするならば、どうして私はこんなところでグダグダ考えなければならないのかが分からない。普通に生きているとすれば、やはりこれは単純に夢であるのか。意識を強く持てば簡単に出れるという男の言葉は、それを裏付けているようにも感じられた。

 覚醒すれば、簡単に記憶を取り戻すかもしれない。けれど、この夢の内容は全く覚えていず、モヤモヤが残ってしまうのだろうなとも思ってしまう。どちらにせよ、それらを裏付けるものが何もないのが、もどかしくてしょうがない。

「ところで、まだ困惑を解消させてくれていないのだが」

 私は、男から少しでも情報を引き出そうと試みる。

「少なくとも、ある程度の疑問には答えてくれるんだろう。俺は、あんたの出現を望んだ。そうなんだろう。じゃあ、その役割が何かをあんたは知っているはずだ。その役割を果たしてもらおうじゃないか」

「巧い言い方をしますね。では、そのことに敬意を表して」男は、急に居住まいを正してこちらに向き直る。

「あなたは死んだわけではありません。ですが、危険な状態にあるといえます。要するに危篤ということですね。そういった場合、結局は意志がすべてを左右することになります。つまり、あなたが強く生きたいと願えば、意識はこの空間を離れ現実へと戻っていくことになるでしょう」

 予期していた可能性とはいえ、はっきりと断言されるとやはりショックを受ける。その想いを知ってか知らずか男は話を続けた。

「けれども問題は、現在の状況ではなく、何故このような事態へと陥ったかにあります。記憶の混乱は、無意識にこの状況に至る推移に対して拒絶の意思があったからで、そうであればこそ、ワタクシがここに居るということでもあります」

「危篤に陥ったのは、自らの意志であると?」

「そこまでは言いませんが、愉快な状態ではなかったとは言えますね」

 奴の話が本当ならば、俺は自殺未遂でもしたのかもしれない。いつまで未遂のままでいられるかは分からないが。

「だとすれば、俺は必死になってこの空間を出ようという意志なんて生まれたりはしないんじゃないのか。誰が好き好んで自殺までしようとした世界に帰ろうと思う」

 男は俺の言葉を聞いて心底不思議そうな顔をした。

「あなた自殺をしようとしたのですか」

 その言い方にむしろ絶句してしまう。

「誰だってあんな言い方をされれば自殺でもしたのかと思ってしまうだろう」

 そんなこちらの思いを無視するかのように、口調をガラリと変えて男は話を続ける。

「あるいは」

「あるいは?」

「あるいは、あなたはまだこの世に存在すらしていず、どのような人生を歩むかを見極めるために、神様が思考方法を読むテストをしている。人間生まれてくるときは平等なんて言い方もしますが、それでも生まれてきた環境によって方向性は随分と異なる結果を招くものです。いくら芸術的素養があったとしてもそれを生かす環境がなければ、どんなに優れた天才であったしても、無名の人で終わりかねない」

「さっきと言っていることが全然違うじゃないか。あんたは俺をからかっているのか」第一印象といい、十分に有り得そうなことだけに余計に腹立たしい。

「からかっているつもりなど毛頭ありませんが、ワタクシの意思は必ずしも完全に自由であるわけでもありませんので……」男は段々と声を小さくしていった。

「どういうことだ」

 男は弱り切った表情を見せながらも、はっきりとした口調で言葉を続ける。

「ここの空間は、あなた自身の意思で左右される場所でもあるのです。裏をかえせば、ワタクシの発言自体があなたの意思に支配されているともいえます。つまり、ワタクシはあなたの分身に過ぎません。ですから、ワタクシの発言を心底信じきれないのは、あなたがこの空間に対して明確な答えを見出していないということでもあります」

 そういわれると、返す言葉につまる。確かに、私はこの空間を把握しきれていない。本当に夢の中であるとしたら、そこに登場する人物は私の支配下であるともいえるだろう。しかし、そうだとしてもこんなふざけた奴を私は登場させようとするのだろうか。しばし、考えてしまった。

「こんな忠告は正しいかどうかわかりませんが、あんまり思いつめないことですね」

 男は、一言そう告げるとこの場から立ち去ろうとする。

「オイ、どこに行く気だ」

 私は慌てて声をかけたが、男は立ち止まろうとせず背中越しに「議論には時には休憩も必要ですよ」といって去ってしまった。

 その姿をしばらく見つめていたが、話声がなくなったからか、せせらぎの音が耳に伝わってきた。

 音のする方角に向き直り、小さく溜息をつく。

「水入りか」思わずそんな言葉が口をついた。



 ……私は、再びベンチに腰掛けている。目を閉じていると、ここがどこであるかなんて気にならなくなっていた。

 必死になって、元の世界を取り戻そうとしていたのを、忘れそうにもなる。

 元の世界?

 そういっていたのは、さっきの男だけだ。奴が嘘をついていたなんて、いかにもありそうなことじゃないか。ここが現実じゃないなんて、どうして分かる。それに、たとえここが現実ではないのだとしても、私はここに、こうしている。それで十分じゃないか。

 ここで何をするべきか。急いで答えを出すこともないだろう。なんせ、時間だけはたっぷりとあるみたいだからな。

 ……いや、余計なことを考えるのはやめておこう。

 穏やかな気持ちは、心地よい風とせせらぎの音がもたらしてくれる。ここに留まっているのが自らの意志なのだとすれば、この風景に身を委ねていればいい。いつまでもここにいられたなら。そんな想いが胸を占めていた。

 どれくらいの時間が過ぎただろうか。ふと、人の気配を感じてその方向に目を向けると、真っ白な小さな猫がこちらを向いている。さっきの男かと思ったが、どうやら違ったようだ。

 その猫はゆっくりと近づき、私の足元で丸く寝そべる。猫はこちらに関心があるのかないのか、何事も無かったかのように眠りに入ってしまった。

 毛並みの美しい真っ白な猫。

 どうしてこんな猫が紛れ込んできたのか疑問に思ったが、この猫の態度を見ていると、その疑問が解決されるということはなさそうに感じられた。私は、しばらくその様子を見つめていたが、あまりの変化の無さに少しの溜息をついた。時は、ゆったりと流れていく。

 それから、いくらかの時間が過ぎた。猫はまだ足元に寝そべっている。

 今度は、砂利道をこちらに向かって歩いてくる足音が聞こえてきた。閉じていた目を開けそちらの方向に向けると、予想通りに先ほどの男がこちらに向かってくるところだった。そういえば、さっきは猫の足音がしなかったなと、ふと思う。

「こんばんわ」男は、立ち止まって猫に向かって挨拶をする。けれども、猫は一切相手にすることなく姿勢を変えないままだ。それを見た私は何となく愉快な気持ちになって、男に話かける。

「あんたでも、ここの世界は思い通りにならないようだな」

「元々、ワタクシの世界ではないのですから当然です」

 ずっと、猫を構おうとしていた男は、ようやく諦めこちらを真っすぐ見据えてきた。

「ところで、結論は出ましたか」

「結論?何の」

「これからどうするかです。あなたもいつまでもここに居たくはないでしょう。ここが、どんな場所であれじっと留まっていたって何も起きません。なんせ、ここは現実ではないのですから」

 この場所に来てからどれくらいの時間が経過したかは不明だが、空はまだまだ明るかった。もしかしたら、本当に時間が流れていないのかもしれない。けれども、男の言葉を信用することは出来ないでいた。

「たとえ、現実であろうとなかろうと何も起きないということはないんじゃないか。現に、そこに猫がやってきたし」

 私は、猫に手を触れる。それでも、猫はこちらに何の反応も示さないでいた。

「まぁ、そうですね。とはいっても、たんに寝てるだけの猫がいたところで大して影響もないでしょうけども」

 猫の様子をじっと見ていた男は不意に猫に触れたかと思うと、突然猫の姿が消えてしまった。

「猫が現れた理由。簡単にいえばあなたの心理状態の象徴ってやつですよ。まぁ、深い意味はありませんね」

「相手にされなくても、理解はできているんだな」

「そうでないと、ワタクシはこの世界にはいられませんから」

 皮肉を込めた言葉も綺麗に流される。やっぱり、こいつは気に食わない。

「そろそろあなたがこの空間に居る時間もお終いです」

 あまりにあっさりと言ってのけた男の言葉にしばし反応が遅れてしまった。

「俺はここから出られるのか」

「出られるというよりは、追い出すという方が近いですね。」

 男の口調がいつしか冷淡な響きを帯びてきていた。「あなたと同じで私も飽きましたし」そんな言葉も発したようだ。

「予定通りのものを仕上げる。そんなものは設計図さえしっかりしていれば簡単なことです。けれども、それだと予想通りの結果しか生み出さない。それじゃ、私にとって楽しみがないですらね。こうやってたまにちょっかいを出すんですよ。いつもの思考にちょこっと変化を加えることで予測できない結果を生むこともある。あなたが生を受けた後の未来の姿っていうのは、予めある程度は決まっています。なんせ、あなたはこんな考え方をするんですからね。ですから、その思考にあえて引っ掛かりを残して混乱を誘ったというわけですよ」

 男の姿が徐々に見えづらくなり、同時に目の前が、ぼんやりと消えていく。

「それで面白い結果になったこともあれば、どうってことない結果だったことも、もちろんありますよ。それでも、きっかけにでもなれば、全体にますます不確定な未来が生まれていきますからね。それが、どんな結果をもたらせるのか、それはワタクシにも分かりません」

男の声も次第に遠ざかっていく中で、それでもしっかり言葉が私に届いた。

「あなたが、その揺らめきの先に何を見、何を思うかは、じっくりと観察させていただきますよ。まぁ、あなたは覚えてはいないでしょうけどね」



 久しぶりの投稿になってしまいました。


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