世界の火種
彼らと入れ替わるように、天使が現れた。ふわりと舞う白い羽が見える。
ブラックスーツの天使の名は、マクシミリアン・シーガル。未だ性徴が見られない華奢で小柄な体躯に亜麻色の巻き毛。長い睫毛で縁取られたビー玉の瞳が飾る、愛らしい驚愕のベビーフェイス。
これでまさか男だとは、真実を知っても信じ難い。彼を語る際に「前代未聞」「世界の七不思議」と枕詞がつくのはこのせいだ。
「わざわざ御足労頂き、申し訳ございません」
アレキサンダーは深々と頭を下げた。
「お止め下さい」
抱える苦悩をごまかすように眼鏡を掛ける彼は、その奥で困惑気味に笑った。
「私はそれに値する者ではありません」
声変わりをしていない繊細な音は、彼の魅力をさらに引き立てる。
「無理を申し上げていることは理解しております。もし――」
「いえ」とマクシミリアンは渋る言葉を遮った。
「本当に、貴方はお優しい。優しすぎるほどに」
囲いの中から、黒目がちの瞳が見つめる。
黒に見えるそれは、実は暗い青。その真実は、互いに向かい合わなければわからない。
「貴方の強さが、私は羨ましい。ですからどうか、私を甘やかさないで下さい」
そう言って、マクシミリアンは笑った。
「…………」
彼に向かうと、蓋を外した。露見したビー玉がじっと奥深くを覗きこむ。
「……自己否定と自己疑念でがんじがらめ……といったところでしょうか」
「自己、ですか」
「えぇ。非常に強い自己へのその感情が彼を殺してしまっている。負の感情はとても強い。それが自分に向けば、何よりも自分を殺す術になります。後は……強い喪失、ですね」
「……喪失」
「自分の世界が崩壊するほどの、正気が保てないほどの強い喪失です。ただ、彼が今生きているのはその賜物です。今の状態では死を選ぶ気力すらない」
「つまり、まだ死んではいない。ということですね」
「その通りです。心の取り戻し方次第でしょう。もし誤れば、間違いなく自ら確実な死を選びます」
「……そうですか」
そうだろうとは思っていたが、彼に言われると推定が確証を得て断定になる。
「……どう思われますか?」
「個人的な感想を言わせて頂けば、『言葉が出ない』ですね」
伏せた瞳。すっと、透明の壁が隔てる。
「データ諸々、拝見させて頂きました。テオ様もジルに相当する市場価値だとおっしゃられていました」
「…………」
「彼の存在はまさに、世界の火種です」
「……世界の火種、ですか……」
余韻の中、それをさらに後押しするかのようにマクシミリアンが重く口を開いた。
「……まだ、未確定なのですが」
「?」
「不可解なことがありまして……」
「……不可解?」
「結果として申し上げますと……会員が、次々と殺害されています」
「!」
アレキサンダーの顔には、驚愕の二文字。
『会員』とは、選ばれし者のみが所有することを許される資格。名立たる著名人や政財界の大物など、ヒエラルキーの上に君臨する支配階級がこぞって名を連ね、それを持つ者はサロンパーティーと化した『闇市場』に参加できる。
彼らからすれば優越感を得られる特権かもしれないが、こちらからすれば反吐が出る下劣なクズのステータスだ。
今の世では、こんなことが平然とまかり通っている。
「殺人事件扱いになっていますが、何分、面子が面子。許可も取りましたので、少々詳しく調べてみようかと思います」
「……それを、わざわざ私にお知らせ下さる理由はなんでしょう?」
疑うような視線の裏には、隠しきれない不安。嫌な予感がざわざわと胸を騒ぎたてる。
「殺された会員は――皆、プレミアコレクターです」
「!?」
衝撃と激震が走る。警告を知らせる鐘の鼓動がズキズキと痛む。アレキサンダーの顔色は一気に強張った。
しかし、そう宣告したマクシミリアンの色の方が。いつの間にかひどく暗く淀んでいた。