Ⅱ.バフォメット
そして、二人はあと少しで小屋まで辿り着くという位置までやってきた。ここからはその荒れた外観が更によく見える。
少年は先ほど胸で膨らんだ期待をしぼませながら、じっとそれを見つめた。
「……」
しかし、どういう訳かミアはそこで立ち止まる。
不思議に思った少年は、彼女に視線を向けて問いかけた。
『どうしたの?』
「正しい手順を踏まなければ、私でも危ないので」
そう言うと、どこからか丁寧に袋詰めされた紫色の肉塊を取り出すミア。
『え? それ、僕達を襲った化け物じゃあ……?』
「はい。魔王様のおっしゃる通りです。事前に加工しておきました」
落ち着いた声で答えたミアは、そのあと不思議な呪文を口にする。
「バンフォ・バフォバフォ・メットメト」
『な、何それ……?』
困惑する少年を尻目に、ミアは手にした肉塊を小屋に向かって放り投げる。
そして肉塊は放物線を描きながら、ちょうど小屋の扉の前に着地し、ぐちゃりと嫌な音を立てた。
すると。
「めー」
どこからか動物の鳴き声のようなものが聞こえてくる。
少年が目を凝らすと、肉塊を中心として、地面に青白く魔法陣のようなものが浮かび上がっていた。
『……ん?』
更に、そこにはもぞもぞと白い物体が動いていて。
「めー」
愛らしい声で鳴いた。
「お屋敷を守る魔王様の忠実なる下僕、バフォメットです」
メイが少年の内心を察するように、先んじて説明する。
バフォメットはバスケットボールほどの大きさで、白い毛玉のような外見をしており、くるりと巻かれた角が上部に二本生えている。鳴き声は子ヤギのそれで、高く、母性をくすぐるような響きをしていた。
『か、可愛いね。あんなのいるんだ』
少年は目を輝かせる。
その視線の先にいるバフォメットは小さな口で、落ちてきた肉塊をはむはむと食べていて。
『でも、この子じゃあ屋敷を守れないんじゃないの?』
小屋を屋敷と言い張るミアに、一応気を使いながら少年は訊ねる。
すると、既に歩き始めていた彼女の足取りがぴたりと止まった。
「魔王様がご不安ならば」
そう言って踵を返す。そして、その場から適度に離れると、ゆっくり小屋に向き直った。
「ここでいいでしょう」
ミアはそこで、また袋詰めの肉塊を取り出す。しかし、今度は一度目とは違い、呪文を唱えずに目の前へひょいと投げた。それが宙を少し泳いだ頃だろうか、地面に以前と同じ青白い魔法陣が出現する。
「めグぅろバぁラダガあアア!!!」
『ひぃ!』
少年は悲鳴を上げた。
彼がいる僅か10センチほど前方。鼻は無いが目と鼻の先で、涎を撒き散らしながら肉を貪る巨大な口が現れる。
「ご安心ください、魔王様。バフォメットはお屋敷の周りを、一定範囲でしか行動できません」
ミアはそう言うが、それはとても落ち着ける光景ではなかった。優に熊さえ呑みこめそうなほど大きな口が、すぐ真向かいで次の獲物はお前だと言わんばかりに開閉している。確かにそれは透明の壁に阻まれて、まるでアクアリウムのように宙で止まり、こちらまで来れないようだが。それでもなお。
それでもなお少年は。
「めグぅろバぁラダガあアア!!!」
『ひぃいいい!』
割れんばかりに絶叫し続けた。