Ⅴ.全てを取り戻しに
しかし、どれだけ声を張り上げようと状況は変わらない。ただ時間だけが過ぎていく。
だから、パニックになりそうな頭を必死で回転させて彼は考えた。今、自分に分かること。今、自分ができること。
『と、とりあえず僕は死んで……いや、死んでなくて! でも、右腕で。右腕になっちゃってて! それで……!』
だが、それも上手くいかなくて。
そこでふと彼はあることに気が付いた。
『……あ!』
それは自分が事態を掴めていなくても、何が起きているかが分かってそうな人はいるということ。
『あ、あの……』
「どうか致しましたか?」
『じょ、状況を。僕に今何が起きているかを。せ、説明してもらえないでしょうか?』
少年は縋るようにメイド姿の彼女に問した。
「状況でしょうか?」
『う、うん。あの、僕が死んだはずなのに生きていることとか……僕がどうして右腕だけになっているかとか……』
「なるほど」
意図していることが、伝わったのだろうか。彼女は手鏡を先ほどと同様に素早くどこかへしまい込むと、胸の前で両手をぽんと叩く。
「最初からご説明差し上げなければなりませんね」
彼女はそう言って、目を細めた。
「おそらく魔王様は今、どうしてご自身が『魔王』と呼ばれているかお分かりになっていないのだと思われます」
『え……? う、うん』
「それでは単刀直入に申し上げます。あなた様は魔王です。それで今起きている全ての事態をご説明することができます」
『ちょ、ちょっと待ってよ! その、魔王っていったい何なの!?』
そこで少年が抗議の声を上げる。そしてそれに合わせて、右腕の指がばっと開いた。まるでイソギンチャクのようだ。
「魔王とは魔界を統べる者、あらゆる魔族の指導者です。そうですね。具体的に申し上げますと、先ほどから辺りを飛んでいる下級悪魔、それに空に浮かぶ蠅王ベルゼブブ――正確にはその目ですが、彼らの頂点に君臨するのが魔王、つまりあなた様です」
『……え? よ、よく意味が……って、辺りを飛んでいる……? そ、そうだ! あの化け物! あの空を飛んでた化け物はどこにいったの!?』
右腕だけで少年は慌てる。指がまばらに動き、眼がきょろきょろと周りを見回した。
「魔王様のおっしゃってる化け物とは、おそらく下級悪魔のことだと思われます。それに関しましては、魔王様の気高いお体を損壊した罰として私が全て処刑致しました」
彼女はそう言って頭を下げる。
『……!』
少年は言葉を失った。それは見てしまったから。今まで混乱してよく見ていなかったが、自分達を中心として化け物の死体がそこら中に転がっている。しかも、数は1や10ではない。一見しただけでは数えきれないほどの紫の肉塊が、まるで降り積もる雪のように重なり合っている。
『……これ、全部君がやったの?』
「はい」
そう答える彼女のメイド服には、化け物達の血の一滴すら付着していなかった。
「説明を続けます。魔王様は先ほど、どうしてご自身が死んでいないのか、またどうして右腕になっているかと問われました。それは一度申し上げた通り、あなた様が魔王だからというのが理由になります。おそらく魔王様は今のご自身の体について何らかの疑問を持たれているかと思われますが、私達にとってそれは取り立てて特別な事態ではありません」
『ど、どういうこと?』
「つまり、魔王様は素晴らしく生命力の強い体をお持ちということです。例え、肉体のほとんどを破壊されようと一部が残っていれば、そこに魂を移動させて生き続けることができるのです。今まさに、魔王様がなさっているように」
『……』
視線を下に向ける。すると、肘から上で地面に立つ自身の姿が見えた。その光景が少年の心に強い理不尽を生む。
理解は何となくできた。置かれた状況も分かった。しかし、何故自分が。どうしてこんな目に合わなければならないのか。そんな怒りにも似た感情が、彼の内側からあふれでて。
『僕が魔王って誰が決めたの!?』
耐えきれず愚痴が飛びだした。
だが、少年の心にはまた、別の感情も生まれていて。彼が受け入れようと、否定しようと湧き水のように染みていく。
『何で、僕なの!? 何で、僕じゃないとだめなの!?』
それは納得という感情。空の黒点を見たときの胸騒ぎ、聞こえてきた暗闇からの声、奇妙な紋様、右腕から放たれる炎。常識的にはあり得ないこと。だが、彼は無意識にそれらを受け入れていた。戸惑いながらも肯定していた。もしかすると彼は、いつか、どのタイミングでかは分からないが、気付いていたのかもしれない。
『こんなの意味が分からないよ!』
自身という存在には、何か特別な意味が込められているということを。
「魔王様。魔王様は今日、ご自身だけに聞こえる声をお聞きになりませんでしたか?」
そしてその想いを裏付けするかのように彼女が口を開く。
「また、魔王様は今日、何体かの下級悪魔をご自身の手で処刑されませんでしたか?」
『……それは』
「そして、下級悪魔を処刑する際、右腕に紋様が浮かびませんでしたか?」
『……』
少年は神社で化け物を倒したときのことを思いだす。あのとき腕に浮かび上がった刺青。それはきっとまだ、今のこの体にも張り付いているのだろう。
「それらがあなた様が魔王であることの証明です。普通の人間にはその声を聞くことも、下級悪魔を倒すこともできません。ましてや、右腕だけで生命を維持することなど、とても」
彼女はそこで言葉を切った。
『……』
反論の言葉が思い浮かばない。それは何となく自分の中で答えが出ていたから。どれだけ理性が反発しようとも、いや、理性ですらが告げてくる。肘から先だけいになった状態で生きている人間などいない、と。
少年の頭が、正確には右腕しかないのだが、彼の中のものを考える精神的な部分が少しずつ馴染んでくる。徐々に落ち着いてくる。そしてこれまでのことを振りかえると、全てを理解した訳ではないが、それでもなお彼女の言葉には意志を委ねるだけの力があって。
『……そっか』
少年は小さく呟いた。
思考は沈み、数々のことが巡る。彼が生きた人生。思い出の場所。そして、今日の激動たる日。空に目が開いたかと思えば、化け物が現れて。知らない声を聞いたかと思えば、化け物と闘って。そして、彼は大切なことを忘れていたことに思い至る。
『……あ! 二人は! 二人はどうなったの!?』
ほんの僅か。ほんの僅かだが、少年の心には期待があった。二人が無事なのではないかという期待が。これほど理解に苦しむことが自分の身に起きているのだ。それならば、もしかすると彼らにも。
「二人というのは、あちらの人間のことでしょうか?」
手首だけで振り返る。そこには意識を失う前と同じ光景が広がっていて。
「魔王様のご友人だったようですね。お悔やみ申し上げます」
神妙に目を伏せながら彼女は言う。
『……ああ』
声があふれた。
『……ああ』
分かっていたこと。予想はできていたこと。けれど、覚悟なんてやはりできていなくて。
『あああ……っ!』
彼の目から涙が落ちる。比喩ではなく、右腕に生まれた目から涙がこぼれでて。
『ああああああ……っ!』
少年は泣いた。声を上げて泣いた。そのときは必死で、悲しむことすらできなかったら。二人を偲んであげることすらできなかったから。彼は泣く。
右腕だけでは彼らに駆け寄ることすらできなくて。その場に倒れて、ただ求めるように体を伸ばす。ただ、泣きながら。
『うわあああ……っ!』
悲痛な声だった。世界が終ってしまうかのような悲しい声。どこまでも深く落ち込み、そこから帰ってこられなくなるような。どれだけ泣いても二人との思い出が次から次に巡ってきて、少年の既に無くなってしまった胸が締めつけられる。
『うわあ……あぁ……』
そうして長い時間が過ぎた。
地面には大きな染みができていて、少年はそこでうずくまっていた。
落ち着いてきた頃にメイドが近付き、無言で彼を立たせる。
彼は小さく『ありがとう』と告げた。
『……』
たくさん涙を流したせいか、少年の心は少しだけ軽くなっている。いや、気を抜けばまた泣きだしてしまいそうなのだが、ほんの少しだけ。
彼はそのまましばらく呆然と立ち尽くした。赤黒い空を見上げながら。そして、そんなことをしている内に、ふと何かを思いだしたよう口を開く。
『君は何しにここへ来たの?』
それは様々想いが巡る中、少年の内で引っかかっていた疑問の一つだった。しかし、これまでは自分に何が起きたかを知ることが先決で、すっかり思考の外に消えていてしまっていて。今になって、彼女に問いかけてみる。だが、その響きはどこか投げやりである。
「魔王様をお迎えに上がりました。」
『お迎え?』
「はい。現在、魔界は魔王様の不在により、他の力を持つ魔族が台頭して混乱を極めております。ですので、魔王様には人間界からお帰り頂いて、魔界を統治して頂く必要があります」
彼女の言葉はとても無機質に響いた。
自分が魔王で、魔界という見知らぬ世界が大変で。それを救わなければならない。そこからは、まるで意味を見いだせなかった。何故なら、もう自分が住んでいた町は消えて、大切な友達も死んでしまって。そして、それはもう戻らなくて。周りにある何もかもが無意味だった。
『そっか……そうなんだ。……でも、あんまり興味がないなぁ』
だから、少年は言葉を返す。酷く空虚に。感情を忘れて。
そのときだった。
『ピシリッ』
何かが割れる音がする。
『……え?』
音のした方向に視線を向けた。すると、空が無数にひび割れていて、それがあのときのようにゆっくりと開き始めていて。
「ベルゼブブが本格的に動きだしたようですね」
メイドが言った。
『どういうこと……?』
「これからベルゼブブは世界中にあの目を出現させます。そして、あらん限りの暴虐をもって人間界を滅ぼすでしょう」
『そ、そんな……』
驚きの声を上げる。同時に、町に空いた大きな穴や自分達を襲った化け物のことを思いだして。
『世界が滅びちゃうの……?』
そんなとき、彼女が問いかけてきた。
「世界をお救いになりたいですか? 魔王様」
『え?』
悪夢のような空から視線を移すと、彼女は優しく微笑んでいて。
「魔王様が魔界を完全に支配なされば、それも可能です」
『どういうこと?』
「魔界にはとある秘宝があります。その秘宝は今はばらばらにされ、力のある魔族達がそれぞれ所有しておりますが。それらを全て集めることができれば、その者の願いを何でも一つだけ叶えると言われています」
『……え?』
「そのとき叶えられる願いに限界はありません。もし、魔王様が『ベルゼブブによる人間界への侵略を無かったことにして欲しい』と願えば、その事実を歴史から消し去ることができます。そして、その場合はおそらく魔王様のご友人も――」
『え!? も、もしかして、二人が生き返るの!?』
「正確には『死んだ』という事実がなくなるのですが。おおむね魔王様のおっしゃる通りかと思われます」
「……!」
二人にまた会えるかもしれない。また、三人で遊ぶことができるかもしれない。その事実は、張り裂けそうなほどの嬉しさを少年に感じさせた。
そんな少年に彼女は言う。
「それでは改めてお尋ねします」
それはノックのようだった。自分の中の何かをこじ開けるための、運命的な合図。
「世界をお救いになりたいですか? 魔王様」
彼はその言葉を心の奥で受け止める。そして。
「……うん」
小さく頷いた。
「かしこまりました」
彼女はそう告げると、また少年に背を向けた。次にこちらを振り返ったときには、彼女のうしろに巨大な黒色の門が出現していて。
「それでは参りましょう」
扉をゆっくりと押し開ける。
すると、その隙間から一気に闇が広がった。
「我らが魔王の卵様」
急激に小さくなる意識の中で、最後に彼女がそう呟いた気がする。だが、今の少年にはそれが何を意味しているのかは分からなかくて。
彼は、ただそっと目を閉じた。