Ⅱ.魔王「いつもの頼むわ!」
「魔王様、入浴の準備ができております」
「あ、うん。ありがとう」
ミアの報告に、少年はお礼を返す。
「……」
図書館を出たあと。彼とキントは来たときと同様、バフォメットに乗って屋敷へと帰っていた。
その頃になると月は赤く変わり、既にドゥリーベスが夕食の準備を完了させていて。
「それでは今日、アスモデウス討伐でできなかった分の掃除をしてきます」
キントは「先に夕食を食べた方がいいんじゃあ」という少年の提案もきかず、到着すると同時に清掃道具がしまってある倉庫へと向かってしまった。
だから、彼はとりあえず食事を終えて。
そして。
「あー、でも今日は疲れたなぁ」
そんな愚痴をこぼしながら、ふわふわと大浴場へと向かう。
「……」
しかし、それは何度も経験していることのはずなのに全く慣れることはできず。いざ、扉の前に来てみると、とても積極的には行動できなくて。
「……あの、ミア?」
「はい」
「きょ、今日はちょっと一人でお風呂に入ってみたいんだけど」
少年はよくよく考えていたことを口にした。もちろん、入浴を手伝ってもらうのは非常にありがたいし、また、手助けがなければろくに体も洗えない。そのことは重々承知している。
だが、あまりに恥ずかしくて。それに、何か悪いことをしているような気にもさせられて。だから、彼はかねてから頑張って単身でも入浴が可能かを一度試してみおうと思っていたのだ。
けれど、不安。そんなお願いを、あのミアがきいてくれるだろうか。彼がおそるおそる彼女の様子をうかがうと。
「はい。元より私はここに控えるつもりです」
彼女は驚くほどあっけなくそれを呑んだ。
「……え?」
飛び出す疑問符。
次いで、ミアは上品な動作で壁にそっと背をつけ、そのまま片手で扉を押し開ける。
「……い、いいの?」
魔王様のご入浴をお手伝いするのはメイドの仕事ですので。そう言って、決して譲らないのでは。そんなことを思っていた彼は、目を丸くして訊き返す。
「はい」
酷く端的で、事務的な返事。少なくとも彼にはそう思えた。無論、自分から依頼したことなのでそれを受け入れてくれるのは嬉しい。しかし、ここまで張り合いがないとむしろ寂しいとさえ思えて。
「……あ、ありがとう」
その感謝にも覇気がなく。
「……」
彼は不思議と泣いてしまいそうな気持になりながら扉の奥へと入って行った。
「やっぱり、広いなぁ」
浴場は相変わらず広々としている。また、飾られた彫刻達はとても見事に豪華な雰囲気を演出し、それらを束ねるように中央にはお湯を吐き出す黄金の獅子が陣取っていて。
「さてと。じゃあ、体を洗わなきゃ」
少年は備え付けのタオルを手に、洗い場へと向かった。
しかし。
「うーん……」
いきなり頓挫。何の策もなく、とりあえずといった心持ちで来てしまったために、まず手を付けていい事柄が分からない。
「……」
彼はタオルを台に置いてから、石鹸で撫でてみる。もちろん泡立ち、それで体を擦ればちゃんと洗うことができるのだが。そもそも、右腕だけでは擦ることが。
「……」
呆然とする少年。
やはり無謀だったかもしれない。あるいは、今からでもミアに声をかけた方が。そんな考えすら浮かぶ頃。
『トントントン』
何やら脱衣所で足音が。
「あれ、やっぱりミアが来てくれたのかな」
少年は申し訳なさを感じつつ、そちらへふわふわと飛んでいくと。
「入ってもいいですか?」
扉越しに声が。だが、ミアのものではない。とても真面目そうで、内に一本芯が入ったようなその響きは。
「え!? き、キント!?」
間違いようもなくキントのものだった。
「はい」
予想すらしていなかった事態に混乱してしまう。彼は、口をどもらせつつも、まずは状況を理解しようと奮闘して。
「あ、え!? あの、ど、ど、どうしたの!?」
「おや? メイド長から聞いていませんか?」
「は!? え、えっと何も聞いてないけど……あ! も、もしかしてお風呂の掃除だったりする? だったらごめん! すぐに出るから」
「いいえ、違います。浴槽の掃除は朝一番に済ませますので」
彼女の受け答えは少年と違い落ち着いていた。
だが、しかし、もし掃除ではないとするならいったい何の用だろう。対する彼は困惑の中、そんな疑問に包まれていて。
「じゃ、じゃあ何しに来たの?」
単刀直入に、ことの起こりについて訊いてみる。
思えば、風呂場にいるからといって自分は裸ではない。つい、体があった頃の癖で慌ててしまったが。別に今、キントに入って来られても何ら困ることはないのだ。そのときには少年もそう考え至って、冷静さをいくらか取り戻していた。
けれど、次に彼女が放った言葉が。彼の築いたその場しのぎの牙城を脆く無残に打ち砕く。それはあまりの驚きと、共に混沌。意味も理由も関係なく、ただその事実は彼の心を大きく揺さぶって。
「入浴を手伝いに来ました。右腕では何かと不便でしょう?」
その発言を分析すると、キントは彼の入浴を手伝いに来たそうだ。いや、分析などするまでもなく、それは目的を明白に表わしていた。
だから。
「……え?」
戸惑う少年に彼女は告げる。
「ああ、メイド長から聞いてないんでしたね。魔王様の入浴は普段はメイド長、敵を討伐に出かけるなどした際はそこに随身したメイドが手伝うという仕来りがあります。今日は私がアスモデウス討伐に随身しました。だから、メイド長ではなく私がここにやって来たという訳です」
「……」
訳が分からない。彼は立ちくらみを覚えた。あたたかな湯気にあてられて、のぼせてしまったといくことではなく。
「では、入りますよ」
そして、キントは何のためらいもなく扉のとってに手をかける。もやがかったガラス越しにその動作はとても機敏で。
「え? だ、ダメだよ!」
少年は咄嗟に声を荒げた。
「どうしてですか? 事情は分かったでしょう」
「い、いや分かったけど! でも、ダメだよ!」
「……」
ここまで伝わってくるような不可解をあらわにする視線。
「……」
少年は黙り込む。
次いで。生まれる膠着状態。
けれど、それはいとも簡単に破られた。
「理由がないのなら入ります。私も、まだ掃除が残っていますので、なるべく手早に済ませますよ」
言が裏に隠された意図まで語る。どうやら彼女は少年の拒絶を、彼が自分に対して何らかの嫌悪を抱いているが故と取ったようだ。しかし、無理もない。彼が最初、自分に恐怖していたことを聞いていたから。
だが、それでもなお入浴を手伝おうとするのは彼女がやはり真面目だからか。
「……っ」
そんな繊細な心の動きに少年は気付かない。いや、その余裕はないといった方が適切か。
「失礼します」
「……っ!」
彼の口は緊張で渇き、掌はこれ以上ないほど真っ赤に染まっていた。また、血走る眼。その視界は浴場の扉が開く様を酷くゆっくりと、命の危機に見た以前のスローモーションの如く克明に刻みつけ。
「…………っ!」
ついに、耐え切れず目を瞑る。
そして、がらがらと扉が引かれる音がして。
「どうして目を閉じているのですか?」
ぺたぺたと素足が数回タイルを叩き、すぐ前方でキントの声が響いた。
「い、いやだって……」
「意味が分かりません。私を見るのも不快ということですか? それなら――」
「ち、違うよ! そんなことない!」
「では、開けてください」
「……」
目を開けるしかない。少年は心の中で起きた様々な葛藤を経て、最終的にはその答えに落ち着く。そうしなければ彼女は納得しないだろうから。もちろん、できる限りの配慮しつつ。
「……う」
彼は薄く瞼を上げた。腕の角度的に、視界にはキントの張りのある健康的な肌と、次いで美しい脚のラインが。戦いに長けている、ミアにそう言われるだけあって。そこに余分な肉はなく、しなやかな筋繊維に薄く柔らかな脂肪が全体のバランスを整えるように這っていて。
「き、キント、タオルは!? ま、巻いてないの!?」
視線を上げても布の姿は確認できない。だから、少年はまた目をぎゅっと閉じて。
「タオルですか? そんなもの巻く必要はありませんが」
「ど、どうして!? それはダメだよ!」
「……?」
彼の必死の抗議に首を傾げるキント。
そして、またも停滞する状況。
「……」
「…………」
二人の間を無闇に沈黙だけが流れ、ただ無為を演出する。
「……」
「…………」
その永遠にも思える行き詰まりを解いたのは、やはり彼女だった。
「まどろっこしい」
「……え? あ、ちょ、ちょっと!」
キントは少年を掴み、掌の目に手をあてがうと、そのまま上下に力を込め始めた。いや、そんな緩やかなものではない。もはや一瞬。
彼は抵抗する暇もなく、それをこじ開けられて。
「……っ!」
ついに彼女の姿を。
「……………え?」
停止する思考。驚くべき光景。
「ふぅ、ただ目を開けるだけなのに。いったいどうしたというんですか?」
キントは。
「……」
丈の短いショートパンツと白のTシャツをスマートに身に着けていた。
「……その服は――?」
「メイド服では手伝いにくいのでこれを。何か問題でもありますか?」
「……いいや。うん、それなら大丈夫」
「……?」
彼女は不思議そうな視線を向ける。一気に疲労したかのような少年の心境を、彼女はうかがい知ることができない。
そして。
「あ、あの、じゃあお願いします」
「はい」
彼はキントに手伝ってもらい、体を洗った。
「あ、そんなに洗わなくても」
「いいえ。ちゃんとしなくては意味がありません」
少年の体を洗う彼女の手つきはミア以上に丁寧で。いや、丁寧過ぎるというか。一度洗った所を水で流し、再度洗うという念の入れ様。そこからは普段から、彼女がどれだけ清掃に情熱を注いでいるかが垣間見えて。
少しおかしくなる。また、おかしくなるついでに彼は。
「そういえばさ」
ずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「キントって何を怒ってたのかな? 僕、謝りたくて」
それはアスモデウスとの戦いのときも触れた事情。彼女が少年に冷たかったのは、果たしてどんな理由があったからなのか。
「……ああ、そのことですか」
キントはそこで一度手を止める。次いで、彼が行ったいくつかの暴挙を思い出して。
――あのとき少年が雑巾を入れたバケツには、宝物庫のものを手入れするための溶剤が入っていました。あれはとても量が少なく、私も月に一度しか使うことができません。そんな貴重なものに使用済みの雑巾を入れれば、まるで台無しで。そもそも、バケツの中を見れば普通の水でないと分かるし、縁にかけていた布も新品です。ちょっと考えれば、そこに汚れのついた雑巾を入れることがどんなに滅茶苦茶かは分かるはず……そう私は憤っていました。
――庭での出来事もそうです。どういう訳か、少年が掌から炎を撃ち出していました。別に百歩譲ってそれは構いませんが。せっかく私が心を込めて、よりいい見栄えになるようにと剪定していた木を破壊する必要はないじゃないですか。あのあと、ぼろぼろになったそれを片付けたのも私ですし。
しかし、そこまで考えて彼女はふうと嘆息をついた。
――ただ、まぁ、最初の振る舞いはこちらが悪かったですしね。いくら私が激しい人見知りでどんな風に接していいか分からなかったとしても、あれは仮にも仕えている自分の主人に対して適切な態度ではありませんでした。それに。
――この少年には何度も助けてもらいましたしね。
そして。
「あれはもういいんです」
彼女は告げる。
「……え? でも」
「怒っていた本人がいいと言っているからもういいんです。ですが――」
「……?」
「代わりにあなたにはお屋敷の清掃についてちゃんと知ってもらいます」
「???」
言葉の意図が掴めない少年。
その答えはキントの胸の内にだけ存在していて。
「そうそう、私も訊きたいことがあったんです」
「え? 何?」
「アスモデウス討伐のときのことです。確か、こざかしい悪魔達と勝負をした頃でしょうか」
「う、うん」
「何と言いますか、そのときがらりとあなたの持つ雰囲気が変わったような印象を私は受けました。あれはいったい――?」
「ああ、そのことかぁ」
彼女の抽象的な質問に、彼も思い至ったことがあるようで。ともするならばあの異質な変化は偶然の産物ではなく、何か裏付けがあるということか。
彼は口を開いた。
「あれはね。キントが困っているように見えたから」
「???」
その少年の発言はよく分からなくて。
だが、次に紡がれた言葉でそれは明らかになる。
「あの場所から出られないって、もう掃除ができなくなるってキントが困ってたから。僕がしっかりしなくちゃって。そう思って」
「……」
キントのためだった。彼の変化。そして、行動。今の言と状況を照らし合わせるとしたら、それは全てキントのためだった。
「……」
そう思い至った彼女の顔はほんの僅かに。その場の温度とは関係のない所で、紅潮する。頭からはもう、初め少年から怖がられていたことも、先ほど自分が浴場に入ることを拒絶されてたことへの不可解さもまるで消え去っていて。
そして、彼女は自身の心の動揺に気付き。
――な、なかなかやるじゃないですか。
胸の内でそっと呟く。
「……?」
眼前には不思議そうに、こちらをうかがう黒い瞳。
「……っ」
そんな視線に射抜かれて。少年の体を洗うキントの手は、焦りを誤魔化すようにどんどんと加速していった。




