Ⅳ.倒せた。
――ええい、ままよ!
勢いのまま、彼女はそう心の中で叫びながら両腕を広げる。いや、ただ広げたのではない。恥ずかしさのあまり真っ赤に火照った顔。ぷるぷると震える肩。噛まれた下唇。広げられた大きな目。その手には。
「…………」
ボタンの外れたブラウスの両端が掴まれていて。
つまり。
「…………」
その間には、彼女の豊満な胸部を包む可愛らしいピンクの布地が。
「…………」
「……」
『…………』
止まる時間。膠着する空気。この瞬間は、あのアスモデウスすらも呆けた顔で棒立ちしていて。
「…………」
--こ、これはいつまで続ければ……。
キントは目に涙が溜まっているのを自覚した。
そして。
『……』
無限にも感じられた時間が過ぎ。
『……ウ』
再びときが。
『ウアアアアアア!』
動き出す。
「……!」
「…………!」
アスモデウスの絶叫に伴って、辺りの光が急速に失われていった。いや、正確に言うなら光が、文字が、全てがもとの物質に帰着していって。
『アアアアアア!』
またも自分の殻に閉じこもるかのように、アスモデウスは壁まで這いずり、そのまま両腕で頭を抱えて震え上がる。ただの女性ですら恐怖の対象であるのに、その腕の狭間に誕生した美しき光景は刺激が途方もなく強すぎた。
少年はその隙を見逃さず。
「サタン!」
そう叫ぶ。
『実ニ素晴ラシイ。卵ヨ、今コソ貴様ニ力ヲ――』
すると、仄暗い声は大いに告げた。
しかし、割り込むように彼が。
「君に力を借りる前に一つお願いがあるんだ!」
『……』
予想外の出来事に黙り込む声。また、彼の言う願いとは何なのか。興味をそそられ耳を傾けた。
「あのね敵を倒すときなんだけど」
少年は語る。このとき、彼の胸には二つの決意。その一つは。
「キントを。ううん。他の子たちも含めて、仲間を傷付けたりしないで欲しい」
これから先、自分の仲間達を決してサタンの脅威に晒させないということ。それは、マモンとの戦いにて、サタンがミアを攻撃しようとしたトラウマから生まれたもので。少年は一時的にだが、これ以上ないほどの絶望を味わった。だから。
『……卵ヨ』
「……」
『我ガソレニ従ウ必要ハアルノカ?』
しかし、声は笑う。その決意を遥か見下すように。何の価値もないと、侮蔑するように。
そこにもはや交渉の余地はなく。
だが。
「もし、このお願いをきいてくれないなら、僕は君から力を借りない」
少年は宣言する。それは暴走にも似た。極めて無謀な宣戦布告。
『ソレデハ貴様ハ死ヌゾ?』
「そうだね」
『何カ他ニ手ガアルノカ?』
「ないよ」
『……』
何だ、このふてぶてしさは。その声の真意は靄がかって掴み切れはしないが、言葉にするとそのような。
『貴様、イッタイドウイウ――?』
つもりだ。その言葉が紡がれる前に。
「たぶんだけど。僕が死んだら、君も困るんじゃない?」
少年の意図がはっきりした。
ここに至って声の主も理解する。今は落ち着いているが、いつまたアスモデウスが復活するとも限らない。そんな予断を許さない状況下で。脳がひりひりと焼けつくような刹那で。いや、だからこそ彼はこの提案を。否、脅迫を敢行した。
『……』
そして、その向こう見ずな恐喝は。
『卵ガ我ヲ脅スカ』
「……」
その自身の命をも天秤にかけた賭博 (ギャンブル)は。
『マア……ヨカロウ』
――通る。
「……!」
目を見開く少年。その胸の内に宿るのは勝利への歓喜か、それとも無事への安堵か。
サタンは続けた。
『ダガ、コチラカラモ一ツ条件ヲ出ソウ』
「条件?」
『構エズトモヨイ。至極簡単ナモノダ』
その声は仄暗くも、まるで肩の力が抜けたような。
『我ラノ前ニ立ツ敵ハコレヲ容赦セズ滅スル。例エ、ソレガノイカナル者デアッテモ』
「……」
彼はふとアスモデウスの方を見た。
そこには小さく丸まり、怯える影。酷く哀れを誘う光景。
「……」
今から彼は、彼らはこの弱々しい存在を一方的に、何の抵抗もさせずに滅ぼすのだろう。それは身がよじれるほどの罪悪感。あるいは、殺さずとも。
「それを守ればいいの?」
けれど、少年はぶれなかった。頭に巡るのは親友を失ったときのこと。そして、ミアを失いかけたときのこと。あの痛みを避け得るなら、罪悪感など恐れはしない。自らが手をどんなに汚そうとも、もう二度と自分の大切な者達を奪わせはしない。そんな覚悟が、彼の未熟な魂を冷酷にすら変えていく。
『ソウダ』
「……約束するよ」
次いで、収束。
『ナラバ契約成立ダ』
嘆息するように声は言った。
『卵ヨ、我ヲ呼ベ。我ハ偉大ナル神ノ敵対者。全テノ魔族ヲ統ベル者。我ガ名ハ――』
二人の声が重なる。
「『サタン』」
そして。
「『……』」
焔と化した少年は前に立つ。その背に守るように。
「……」
ブラウスのボタンを絞め終わっていたキントは、それを見つめて。何を言っていいか混乱したが最後に。
「……行ってらっしゃいませ。魔王様」
そう告げた。
「『……』」
焔は一度だけ振り返る。それは笑っているようにも見えて。
「『我は全てのものに平等だ』」
宙に左の手を回し、魔法陣を描いた。以前のものよりも段違いに大きい。
「『差別せず、区別せず、我の憤怒はそこにある一切の存在に降り注ぐ』
次いで、体を開き構える。風が荒れ狂い、とんでもない密度の魔力がそこに集まった。
「『偉大なる神の祝福のように』」
そして、轟々しき拳打。その場を席巻する力の全てを解き放つ。
成り響く鐘の音。それは偉大なる魂の消滅をあらゆる存在に知らせるようで。
『ゴグガァアアアアアア!!!』
巨大な。巨大な火の竜が魔法陣から姿を現した。いや、それだけではない。
『ゴグガァアアアアアア!!!』
もう一体。
『ゴグガァアアアアアア!!!』
更に、もう一体。
一つだけでも強烈な破壊者たる熱の塊が、合わせて三首の暴虐に変わる。また、竜達は周りのあらゆるものを引き寄せ始めた。正確に表現するなら、全てが分解され、炎の形へと変質し、土石流のように竜達の大顎へと流れ込む。
空気が乾く。音が消える。アスモデウスのときと反対だ。ものが消失し、世界がどんどん闇に浸食されていく。
『……』
その中でもアスモデウスは怯えていた。ただ、うずくまりながら。きっと、それはこのまま状況も分からずに消滅する。
「『……』」
ほんの少し。僅かにだけ、割れるような心の余韻。
けれど。
「『……』」
焔は黙った。本当は、真摯に自分に向き合うなら、謝りたかった。こちらの都合でここまで来て、一方的に命を奪うことを。
しかし。
「『……』」
焔は最後までそれを口にはしなかった。それを言うことは簡単で。許されたと自分が勝手に思うことは容易で。だから。
「『……』」
だから焔は今にもほころびそうになる口を必死に閉じて。
そして。
「『統べる者の暴虐』」
判決を下した。
『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!!』
竜が口から熱の収束線を吐き出した。それはその場をねじ切るように破壊が拡散していく。貫くはアスモデウス。包み込む膨大な熱量。一瞬で森羅万象を焼き尽くす、暴虐の火矢。絶対の虚無。
悲鳴すら焼けついて。魂すら残さず。熱は更に温度を上げていく。止まらない暴火空気があまりの力に軋んだ。ひびが割れ、崩れ落ちながら主を失った空間が裂けていった。
「『……』」
「…………」
そこに立つは二つの影。魔王とメイド。
『ゴゴゴゴゴゴ!』
次いで、世界が終わる。大図書館もファロス島の大灯台も全てがたぎる炎に包み込まれて、焼けただれて、倒壊して、霧散して、果てる。そして。
「『……』」
「…………」
光が全てを包み込んだ。




