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Ⅲ.最後の手段

「……!」


 驚いて、振り返る。

 そこには変わらず震えるアスモデウスが。けれど、違う。何かが違ってしまっている。


「…………っ」


 事態の変化にキントも気付いた。

 はっきりとは分からないが、非常に都合の悪いことが起きようとしている。


『……コノ我ガ、愚カナル者ニミクビラレル』


 うろたえる二人を置いて、アスモデウスは言葉を紡いだ。


『……アマツサエ、慰メラレルナド』


 ――ああ、この震えは。


『……ソンナコトハ許サレナイ』


 ――怒りなんだ。


 少年はその声を聞きつつ、アスモデウスの震えの変化を理解する。そして、もう一つ。自分の、いや、周りの全てが変化し始めていて。


「……っ」


 辺り一面のあらゆるものから、白い湯気のようなものが。それはよく見ると、中に黒く長々とした刻印の羅列も。


「これは……いったい?」


 その問いに彼が答える。


「……文字だ」


 本棚が、本が、床が、壁が、天井が、次々と破壊されて。否、変質だ。ものが物理的に削れ、そこが光と文字に作り替えられていた。


「これは……」


 ――不味い。


 少年は輝かしい白光の中、キントを探した。


「……くっ」


 彼女の体からもまた、他のものよりも速度は落ちるが、光が、文字が、あふれ出していて。更に。


「……うっ、ぐ」


 その場に崩れ落ちる。

 理由は明らかだった。


「……うあっ!」


 彼もまたうめいた。右腕しかない体が軋む。文字と光に有無も言わさず変えられて。ただ、そこには強烈な痛みが。何千もの鋭い針に突き刺されているような。


「あ……ぐっ!」


 刺激に耐えるため両手で自身を抱くキント。だが、また同じぐらいの凄まじい規模で新たな感覚が加えられる。


「……あっ!」


 それは快楽、圧倒的な。どれほど強い感情をもってしても、どれほど尊い思い出をもってしても。全て呑み込まれ、塗り潰されてしまうような。


「……ぅうっ!」


 耐え切れない。とても耐えられるものではない。脳が破壊されるが如き、快感。そして、真っ白になった頭の中に、声が。


『生ハ快楽ノ泉デアル』『自然ハ生物ヲ二人ノ君主、ツマリ苦痛ト快楽ノ支配下ニオイテキタ』『味ワッテハナラナイ快楽ナドアルモノカ』『苦痛コソ生活ナノダ。苦痛ガナケレバイッタイ人生ニドンナ快楽ガアロウ』『男ノ性欲ガナクナレバ全テノ女カラ美ハ消エ去ルデアロウ』『貞操ハ氷柱ノヨウナモノダ。イチド溶ケレバソレデ最期デアル』『情欲ハ精神ノ非理性、反自然的昴奮、スナワチ強スギル衝動ナリ』


 その声が響く度に、少しずつ理性が消えていき。


「……あぐっ!」


 自分の存在が感覚を受けるためだけの器官になっていく。


 ――このままじゃ二人とも。

 ――死。


 そして、少年がそれを意識したとき。同時に脳裏を貫く言葉。


 ――サタン。


 それは、彼の中に潜むもう一つの意志の名。


 ――助け……。


 すると。


『卵ヨ』


 何度呼びかけても応えなかった声。どす黒い響き。悪意の塊。破壊の権化。仄暗い地の底から響くようなそれが、にじり寄るように囁いた。


『力ヲ貸シテ欲シイカ?』


 その問いに少年は藁をも掴む想いで縋りつく。例え、掴むのが藁ではなく、不敵な笑みを浮かべる悪魔の腕だとしても。


「……っ!」


 彼は悶えるような嵐の中、必死で頷いた。

 けれど、それに対する答えは。


『シカシ残念ダガ、ソレハ不可能ダ』

「……!?」


 心が砕かれるような衝撃。それが跳ねのけられることなど夢にも思わなくて。

 そんな彼にサタンは告げる。


『マモンノトキトハ異ナルノダ。貴様ノ存在ハ、アスモデウスニヨル書籍化ガ既ニ始マッテイル。ソレハ卵トシテノ〝変質〟ヲ意味シ、ソノ状態デハ我ノ力ヲ十分ニ貸シツケルコトガデキナイ』

「いぐッ……!」


 その間も、むせかえるような苦痛と快楽は容赦なく少年の体をえぐった。


『ツマリ貴様ガ生キ残ルニハ、自ラアスモデウスノ術ヲ解クシカナイノダ。ソウスレバ我ハ力ヲ貸ソウ』

「……あぁっ!」

『シカシ、代ワリニ可能ナ限リノ手助ケハシテヤル。微々タルモノダガ、シバラクノ間ハ感覚ノ暴走カラ免レルコトハデキルダロウ』


 そして。


「……う?」


 声が鳴り終わると同時に、少年は苦痛と快楽から一時的に解放された。


「……」


 視線を動かして、ようやく頭が回転し始める。それまでは、劇薬に浸っているような心地で、もはや意識など擦り切れて。思考は構築されず、ただ混沌に身を置くばかりだったから。


「……!」


 そして、その瞳は倒れ伏したキントの姿を写す。

 彼女はめくるめく巨激に堕とされ、それでもなお強く歯をくいしばることでそれらに懸命に耐えようとしていた。


「……っ」


 そんな彼女に駆け寄る少年。


「キント!」


 しかし、声は届かない。これほど近くで叫んでも、それを絶対的に上回る苦痛と快楽の津波が彼女を襲っていて。


『愚カナル者ヨ。コレガ報イダ』


 無機質な音。


『モハヤ書籍化ヲ止メルコトハデキヌ。貴様モ、コノオ、オ、オンナモ。全テガ我ガ知識ノ糧トナルノダ』


 アスモデウスはいつの間にか立ち上がり、二人を見下ろしていた。


「…………」


 少年は考える。今、自分にアスモデウスを倒せるだけの力があるか。答えは否。先ほど放った、全力の炎でも損壊を与えられていない。ならば、どうする。何か手段はあるのか。


 ――どうすれば。


 巡る思考は足を取られ、気付くと底のない沼にずぶずぶとはまり込み。


 ――何も、何も思いつかない。


 そこに対抗策は存在しなかった。敵に攻撃が通らない、その事実は他のどんなものよりも彼に絶望を与えて。


「……あっ! うぐっ」


 無力な少年の前で、キントがうめく。その体は次第に文字化が進み、足や手の先が消失しつつあって。


「……ぅぅ、どうすれば!」


 どうすれば。どうすれば。どうすれば。どれほど考えても、頭の中ではそんな焦りしか生まれない。

 アスモデウスを倒す方法、そんなものはない。見上げるほどの巨体と膨大な魔力、それに書籍化。そこには諦められる条件だけが軒を連ねて。


「どうやって! どうすれば!」


 無残な叫び声。何もできないことを嘆く声。


「……ぅう、キントぉ。ごめん、ごめんねぇ」


 彼には残酷にもただ、目の前で苦しむキントを見つめることしかできなくて。


「……う?」


 だが、そのとき。


 ――あれ、キント?


 自身の嘆きで、少年はあることを思い出す。


 ――アスモデウス弱点って……。


 それは至る先、キントからアスモデウスが逃げた折に遡る。


 ――え? だったら、もしかして。


 そして、急速に回転を始める思考。紡がれる勝利への方程式。

 次に彼が放った言葉は。


「サタン」


 だった。


『何ダ?』


 応える声。

 だったらいける。少年は勢いのまま、言葉を続けた。


「僕にやってること、キントにもできない?」

『魔力遮断カ?』


 彼が訊ねたのは、サタンによるアスモデウスの魔力の強制的な不介入。つまり、魔力の遮断について。

 声は語る。


『可能ダ。ダガ、卵ヨ。ソレヲ行エバ、貴様ニ残サレル時間ハ半分ホドニナル。ソウナレバ、デキルコトナド限ラレテ――』

「キントと少し話す時間があれば大丈夫! お願い、やって!」


 問答無用。少年は嘶くように言い放つ。


『……』


 それと同時に彼の掌から細長い炎が舞い出て、円を描くようにキントを包んだ。

すると。


「ぐっ、うぐ…………ん?」


 彼女の苦しそうな声が止む。次いで、目を重々しげに開き、揺れる瞳に少年の姿を写して。


「……」


 事態はまるで掴めなかった。

 じっとこちらを見つめる彼と、その背後に立つアスモデウス。辺りは光と文字に包まれて、白く輝き。自分は床に倒れていて。


「……これはどういう」


 彼女は状況を尋ねようとした。

だが。


「キント、お願いあるんだ!」


 少年がそれをけん制した。


「……?」


 目を細めるキント。

 そんな彼女を待たず、彼はあるとんでもない提案を示してきて。


「あのね、キント! 本当に申し訳ないんだけど……を……して欲しいんだ!」

「……は?」


 キントの表情は凍りつく。

 分からない。冗談にしても度が過ぎる。いや、そもそも今は冗談が言えるような状況なのか。思考がどんどん正常に動き始めて。


「あなた、いったい何を? いや、それよりもアスモデウスを倒さなくては」


 彼女は起き上がろうとする。しかし、上手く立てない。視線を足元に向けると、そこに見慣れた部位はなくて。


「……」


 絶句。それで、全てを思い出した。自分は、周りのものはアスモデウスが使った何らかの術によって文字へと変化させられていた。

 そんな彼女に届く声。


「これがアスモデウスを倒せる方法なんだよ!」


 それは少年の声。初めは嫌悪した少年の。けれど、次第に向ける感情が違うものへと変化していった少年の。


「……」


 彼女は思い返す。妙な問題を出す悪魔達とのやり取りを。あれは、彼がいなくては突破できなかった。もし、彼がいなければ。二人は魔王と従者ゆえ、そんなことはありえないのだが。もし、だとしたら。


「……」


 おそらく、自分はずっとあのまま、ごみ一つない不快な世界に閉じ込められていただろう。そう理解している。


「……」


 いや、それどころか彼は自分に悪魔達へ報復する機会すら与えてくれた。あれは本当にすっきりとして。

 あの獣達と戦ったときもそうだ。見捨てられたのかとも思ったが、最後には彼が状況を打開してくれた。一人なら。もし自分だけなら。あれは、あのまま何ら変化もなく、力に押し潰されて終わっていたはずだ。そこまで考えて彼女は。


「……」


 ふと、少年の言葉に従ってみたくなる。もちろんその提案はとても不愉快で、決して乗り気ではなく、意味も分からないのだが。なんとなく。


 ――まぁ、やってみますか。


 そんな風に思えてくる。しかし、今の彼女にはそれが何と呼ばれる感情なのかは分からない。それがはっきりと分かるのはもっと先。だが、それでも彼女はその曖昧な感情についには身を任せて。


「……ね?」

「え?」

「それをやれば本当にアスモデウスを倒せるんですね?」

「う、うん」

「ならば……やりましょう」


 キントは覚悟を決めた。


「あ、ありがとう!」


 少年の感謝。

 けれど、今の彼女にはそれすら不愉快に聞こえる。


「……っ」


 立てはしないので座ったままアスモデウスに向き直る。そして、手を所定の位置にかけ。留められたものを一つずつ。予想していた以上に苦痛だ。


「ごめん、早く!」


 それを急かす、デリカシーのない彼の声。


「分かっています!」


 やっぱり、止めてやろうか。そう思いつつも、一度引き受けたことを反故にするのは彼女の真面目な性格が許せず。


『……』


 そんな二人を奇妙そうに見つめるアスモデウス。今から何が起きようとしているのか、まるで見当がついていない。


「……っぐ」


 彼女は恥辱の感情に耐えた。先ほどの感覚の暴風と、いったいどちらが辛いだろうか。そんなことさえ思い浮かぶほど、その行為には抵抗があり。全くもって、度し難く。


「お願い!」


 魔力遮断の効果が消えつつあることを察した少年が叫ぶ。


「……っ!」


 その瞬間、ついに最後のボタンが外れた。

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