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Ⅲ.致命的なすれ違い

彼がそれを言い終わってから、理解が及ぶのにおよそ一分はかかった。


「…………は?」


 キントの口から放たれる疑問符。いや、そこには失意、憤り。こんなときに馬鹿なことを言うのは止めて欲しい。そんな批判めいた感情も入り混じって。


「……何ですか、それは。どうして七大悪魔の一角のアスモデウスが私を怖がる必要があるんですか?」


 彼女の声のトーンは恐ろしげに下がる。

 だが、その様子に気圧されつつも、少年は食い下がるように口を開いて。


「だって、あいつ『女ー!』って言って逃げていったんだよ? 僕は男だし。ここにいる女の人って、キントしかいないじゃない!?」

「……」


 ああ、あれは「女」と言っていたのか。キントは心の中でぽんと手を叩いた。

 先ほどは、自身の強い緊張と、アスモデウスのあまりに無機質な声でうまく聞きとれなかったが。よく思い返してみると、そう聞こえるかもしれない。

 そこまで考えると、少年の言もあるいは真実味を帯びてきて。「女」と叫びながら逃げる存在が、「女」以外のものを恐れているとは考えにくく。

だが。


「でも、それはおかしくないですか? だって、私は今までずっとアスモデウスと戦っていました。怖がるなら最初に相対したときから、そうするのが筋でしょう?」


 その疑問が解消できない。彼女からしてみれば、アスモデウスとは初対面ではなく。むしろ、徹底的に刃を交えた対象で。今更何を、とさえ思えるのだ。


「いや、あのね。さっき説明したと思うんだけど、アスモデウスの本体はあの巨人なんだよ。獣達はあいつに操られていただけ。だから、本当は今初めてアスモデウスはキントのことを見たんだ」

「それこそ何を。奴は図書館のうしろから私達のことを見て、それで獣達を使って攻撃していたんでしょう? それならずっと奴は私のことも見ていたことに――」

「違うんだ。あいつは、はっきりとこっちが見えていた訳じゃないんだ」

「……?」

「ここは暗いし、たぶん図書館の奥からだと影みたいにしか見えていなくて。それをあいつは狙って攻撃していた。その証拠に、一度僕がキントの出すかまいたちを掴んでその場から離れたとき、あいつは僕を見失っていたんだ」


 少年の熱のこもった解説。

 対するキントは今得た情報を頭の中でふるいにかけて。すると、ぼんやりと見えてくる。この戦いの仕組み。もし、彼の言が本当だとするならば、あるいは。


「ということは……」

「うん。よく分からないけど、アスモデウスはキントを怖がってる。だから、今がチャンスかもしれない」


 二人は視線を合わせる。

 だとするなら今自分達がやるべきことは追撃。この瞬間こそは怯えた獲物を追い詰めることができる、暗雲の切れ目。

 二人は走った。建物の奥、闇の先へ。


「……!」

「…………!」


 すると、それはすぐに見つかる。


『……』


 両手で頭を抱え、逃れるように尻をこちらに向けながらぶるぶると震える怪物。


「……」

「…………」


 彼らはそのあまりの哀れな姿に言葉を失った。

 そこには、二人を恐怖の底に突き落とした暴君は存在せず。


「……あの」


 少年はつい言葉をかける。


『……!』


 びくり、と体全体が震えた。巨体のせいか、その動きだけで床がどしんと鳴る。けれど、それまでの勢いは嘘のように縮こまり、その成りはまるで天敵に怯える子兎のようで。


「あの……キントが怖いの?」


 彼は思い切って訊ねてみた。

 普通なら、眼前の敵にそんなことをする者には軽蔑の感情しか湧かない。だが、キントもまた、彼の行動を非難することはできず。


「……」


 黙って見つめる。

 すると、アスモデウスはろうそくに灯る小さな火のように揺れる声を精一杯荒げながら。


『ワ、我ハ知性ト色欲ノ暴君デスポートアスモデウス、ダゾ! ソンナコトハ、アルモノカ! 無礼者!』


「……で、でも」


『ウルサイ! 我ハ全テノ知識ヲ手ニシテオル! オ、オンナモソウダ! 我ガ女ニツイテ知ラヌコトハナイ!』


「……」


 少年は口ごもった。

 アスモデウスは言葉で、声で、大いに怒りを表現している。けれど、その間も体勢はずっと変わらず、怯えるように縮んだままで。


「……」


 周りを見渡すと、そこには想像を絶するような本の山。これほど大量の本があれば、おそらく女性について書かれたものも多数存在するだろう。そこまで考えて、彼はある答えに辿り着いた。


「もしかして……知識はあっても、実際に女の人を見たのは初めてなんじゃ?」

『……!』


 びくり。前よりも更に大きくアスモデウスの体が震える。そして、そのまま石のように固まってしまった。


「……」

「…………」


 呆然と立ち尽くす。少年が言ったことはおそらく図星だ。二人ともそれがわかっていたから。


「……」

「…………」


 二つの視線で交わされる目配せ。それで互いに理解した、もはやこの敵を倒すという気概が失われてしまっていることに。

 キントは戦いの構えを解き、一つ息を吐く。次いで、少年へと向き直るとお辞儀をして、少しうしろに控えた。


 ――あとは任せた……ってことかな。


 彼はその行動の意図を的確に読み取って、アスモデウスに視線を戻す。


『……』


 それは未だ、何の敵意も見せず、アルマジロのように自分を傷付ける何かから身を守っているだけで。


「……えっと」


 少年はなるべく相手を安心させられるような優しい声を意識した。


「……僕も同じだよ?」

『……』

「怖いよね。初めてのことって」

『……』

「僕も最初はキントが怖かったんだ」

「…………」


 うしろで、眉間を寄せるような気配。

 彼はそれを背に感じつつ、気まずさに耐えながら。


「声をかけてもあんまり話してくれないし。何かは分からないけど、なんだか怒らせちゃったし。だから、初めの内はずっと僕はびくびくしてて」

『……』

「でもね。一緒にここまで来る内に、少しずつキントのことが分かってきて」

『……』

「今は結構、仲よくなれたのかも……って」


 少年はなるべく真摯に、自分の感情をそのまま表すように言葉を紡ぐ。


『……』

「…………」


 その発言にはキントも威圧を解いて。


「だからね」

『……』

「初めてで怖がることって別におかしいことじゃないんだよ」

『……』

「ちょっとずつ時間をかけて安心に変えていこう?」

『……』


 そして、彼は黙る。相手の心の整理を待つように。

 すると、アスモデウスは。


『……ウ』

「……」

『ウォオオオオ!』


 声を上げて泣き始めた。

 ぶるぶると揺れる体。頭の上に回った手が感情を爆発させるように、ぎゅっと握り込まれていて。


 ――分かって、くれたのかな。


 少年は目を伏せ、そちらから背を向けた。アスモデウスのためだ。アスモデウスが落ち着けるまで、じっと待つつもりで。

 しかし、そのとき。


『……苦痛と快楽の書籍化ブーフ・デ・フエルドゥ・オン・シュメッツ


 陽の落ちた荒野に響く地鳴りのような。そんな不安を煽る声が響いた。

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