Ⅰ.知性と色欲ノ暴君アスモデウス
潮気を孕む、けれど枯れたような空気。鼻元をかする風は、じりじりとした熱を孕んでいて。
「……ここは」
どこなのだろう。そう、真摯に感じる。まるで、見たことのない光景。この世に生を受けて、ここまで輝く世界を自分は見たことがあったか。
あの天に浮かぶ、ぎらぎらと攻撃的な物体は何だ。今まで見慣れていた月より遥か小振りな外見で、なのにそれが発する存在感は比べることが叶わないほどふてぶてしい。遠く地平の彼方まで、光が全てを照らしている。
闇が存在しない。居心地のいい深い闇があたかも罪であるかのように迫害されて。あらゆるものが隠れることもできず明らかにされて。
「……アレクサンドリア」
少年の言葉が何かを物語った。
「この場所を知っているのですか?」
「うん。でも、本で見たことあるぐらいだけど」
「そうですか。では、あれは何ですか?」
「え? た、太陽……かな?」
「なるほど」
そして、二人はとぼとぼと目的なく呆然と景色を見る。
辺りには渇いた空気の擦れ合う音しかしない。住居らしきものもある、生活の余韻を辿るような名残もある。だが、欠け落ちている。嵌め損ねたパズルのピースのように。
「誰もいないね」
「そうですね」
人のいない都市に佇む二つの影。
ふと、少年が呟く。
「ねえ、ちょっと歩かない?」
「……?」
キントは彼に誘われるままに足を踏み出して。
住居群を抜け、人工物よりも自然の技巧が目立ち始める頃、それは現れた。
「あれは、いったい……」
「ファロス島の大灯台。僕らのお屋敷よりもずっと大きいね」
まるで、雲の切れ間を目指したかのような大規模な建築物。その造形はおそろしく精確で、紙面上にしか描くことのできない完全な図形のようだ。
「見てみたかったんだ。僕の世界ではもう失われてしまったから」
「???」
少年の意図を全くもって掴めないキント。
彼はしばらくそこで、陽の光を浴びてそびえる灯台の前で。変えがたい何かに浸るように留まっていて。
だから、彼女も潮風の香る穏やかな空気に頬を擦らせた。
「それじゃあ、アスモデウスがいる場所に行こうか」
日が傾き始めてから、彼はそう口にする。
「居場所を知っているのですか?」
「確証はないけど。ここがアレクサンドリアなら、たぶん……ね」
少年の目は、それを頼るに値する輝きを放っていた。
そうして二つの影はまた寄り添いながら揺れる。忘れられた古代都市の道すがらで。
「ここだよ」
「……」
それはひしめく家屋よりも遥かに巨大で、前面に並ぶのは白い石膏の階段と神の形を模した像。その荘厳な体を支えている柱は圧倒されてしまうほど太く、しなやかで。
「これは何の建物なのですが」
「図書館だよ。アレクサンドリアには、世界の全ての書物を集める目的で大図書館が建設されていたんだ」
「……ああ、なるほど。つまり、ここにいるのですね」
話が見えてきた。キントは彼の思惑を理解する。
「うん」
彼らはそのまま建物の中へ。
内部は迷路のように奥行きがあり、屋内だというのに高々とした屋根のおかげで圧迫感はまるでなく。閉じられた空間であるにもかかわらず、むしろ開放的な。そして、そこに並ぶ無数の本棚と書物。といっても、それらは未だ本の体裁の整えられていない紙を束ねた巻物のような形をしている。
まるで、文化の根底。あるいは、知識の出発点。少年はその美しい光景に目を奪われる。
「……」
だが、一方で感じられるひしひしとした冷たい視線。この場所では何かが。何か強固な意志を持つ存在が、自分達を補足していて。
『魔王ノ卵ト、ソノ従者カ』
どこからか声。あのマモンにも似た抑揚のない響きが、図書館の中にこだまする。
「アスモデウス……ですね」
少年よりも一瞬速く反応するキント。彼女は既に、手元に緑光を集め始めていて。
しかし、その行動には疑問が。
「あれ? キントは一緒に戦ってくれるの?」
あのときミアは傍観者だった。それならばキントも、とてっきり。
「メイドは七大悪魔との戦いに加わらない。それはメイド長の美学です。私はそれにとらわれません」
「……」
「メイド長と私は違う存在です。ならば、その振る舞い方も異なるのが普通だと思いませんか?」
「……そっか。それもそうだね」
少年は掌に浮かぶパーツだけで笑顔を返す。意味が正確に伝わったかは分からない。
そして、二人がやがて始まる戦いを意識して身構えたとき。
『我ハ知性と色欲ノ暴君、アスモデウス』
規則正しく並んだ本棚達、その奥から凶暴な牙をむき出す影。
『コノ世ノアラユル知性』
次いで、建物の陰から二つの頭部。
『ソノ全テヲ捧ゲヨ』
柱に体を巻きつかせる鱗の鎧。
『代ワリニ我ハ与エル』
天井を這う甲虫。
『高潔ナ魂モ、純潔ナル誓イヲモ堕落サセル』
丸いくちばしと闇に光る眼。
『拒絶叶ワヌ極上ノ快楽ヲ』
最後に醜く太った腹が。
「…………」
「……」
二人が声を失ったのも無理はなかった。何故なら、そこに連なったのは獅子、牛、羊、蛇、蠍、鵞鳥、そして人型の何か。数もさることながらその規模もゆゆしく、一体一体が呆れてしまうほど巨体で。
「過失の大清算!」
そのときキントが行動を開始していなければ、呆然としていた少年を飛びかかってきた獅子が喰らっていたはずだ。
『ギュン!』
放たれた光の刃は、空中で獅子を跳ね飛ばす。
「敵を見てください! 呆けている暇はありません!」
「……っ!」
そして、彼女の言葉が空気を伝う間にすら、角を出鱈目に振りながら雄牛がこちらに突っ込んできて。いや、鵞鳥も空から落ちてきた。その計り知れない重量がぐしゃりと床をえぐる。
二人は反射的に左右に避けていた。
「……!」
「…………っ」
攻撃の手は休まらない。右に跳んだキントを蠍が。左に飛んだ少年を蛇が追う。
『キュゴオオオ!』
『ギュン!』
彼らは同時に手元から魔弾を撃ち出した。
だが。
『ジュンッ』
唐突に射線に跳び入って来た羊が熱を体に受けて、その鋼鉄のような体毛で炎を止める。また、蠍は尾から放った毒液で、キントの刃を押し潰していて。次いで、タイミングを見計らった蛇が顎を少年へ飛ばした。
「……っ!」
かろうじてその凶牙を避ける彼。
けれどその間にも、衝撃から立ち直った獅子が熾烈な抗争に再戦する。
「く……っ!」
まるで無茶苦茶だ。少年の脳裏をかすめる強い不快感。敵は、矢継ぎ早に攻撃を繰り返してきて。休む間も、対抗策を考える暇もない。
『ギュン!』
空間を舞うかまいたち。羊が体で受け止めつつも、いくつかそれて暴れ狂う牛に当たり、怯ませる。しかし、蛇が、獅子が、本棚を蹴散らしながら既にこちらに向かって来ていて。
『キュゴオオオ!』
以前よりも威力を増大させた炎弾が、キントに襲いかかる獣達を薙ぎ払って。一瞬だけ、そこに余暇が。
「キント!」
「こちらに来てはだめです!」
その声でようやく止まる。
『ドグンッ!』
するとすぐ目の前、鵞鳥の体が空間を潰す。あともうほんの僅かにでも、キントの声が遅かったなら。
「……っ」
冷たいもので背筋を撫でられたような感覚。このままでは。
けれど、同時に彼の脳を痺れさせるある違和感。漠然としていて、その正体までは分からない。だが、何かに。今まさに自分は何かに気付こうとしている。
『ギチギチギチ!』
壁を走る嫌な音。甲殻同士が擦れ合い、生理的悪寒を刺激する。
『グゴオオオ!』
牛だ。
『フシュルルル!』
それに蛇も。
獣達の体に大した損傷は見られず、勢いはむしろ増す一方で。
『キュゴオオオ!』
『ギュン!』
二人の攻撃はその場しのぎ的な効果しかもたらさず。
「……ぐぅ!」
混乱の狭間、跳びかかって来た獅子を避け切れずにキントは組み伏された。
「キント!」
『キュゴオオオ!』
瞬間的に獅子は弾き飛ばされる。
窮地を脱したキント。だが、その腕からはどくどくと赤い液体が流れ出していて。
「……キント!」
「これぐらい問題ありません! それよりも前を!」
声に従うと、前方には怒れる猛牛が。
次いで、体が反射的に硬直。その一瞬の遅れが、致命的な条件を揃えてしまい。
「……っ!」
景色の流れが急速に弱まる。まるで、死ぬ寸前の世界の遅延。
「……っ」
しかし、彼はそんな状態でも思考を止めなかった。極限状態でしか成しえない、視界のスローモーション処理。その驚異的な集中力を、彼は強引に頭の回転に移転させる。
それは意識的に行ったものではない。ただ、あの疑問だけは解消しなくてはならない。そんな強烈な脅迫概念が誘った。あのとき感じた違和感の正体はいったい何なのだろうか。
知性と色欲ノ暴君、アスモデウス。荒れ狂う獣達。出鱈目な襲撃。その中で自分は息をつく暇すらなくて。
――え?
何かがそこで引っかかる。目の前にはゆっくりと突進してくる雄牛。その撒き散らす涎の一粒一粒が観察できるほどで。
――荒れ狂う、出鱈目、息をつく暇? それって何か矛盾していない?
少年は思い出す。獣たちの今までの攻撃を。確かそう、確かあれは。
――あいつらが本当に出鱈目に、荒れ狂って攻撃してきたとしていたら、息をつく暇がないなんてあり得るかな?
そして、急激に速度を上げる思考。
――だって普通、本当に荒れ狂って出鱈目に多数が行動すれば、それはもうめちゃくちゃ。効率なんか考えずに、ひたすら攻撃してくることになっちゃう。『めちゃくちゃ』って言葉は、『息をつく暇もない』って言葉と響きが似ているようで全く違うもの。
――あいつらが『めちゃくちゃ』に行動しているなら、そこには必ず『無駄』が生まれ、『隙』が生まれる。でも、考えてもみると、そんな隙はどこにもなかった。そもそも〝考える隙〟さえなかった。そんなのはおかしい。だって、知能が高いって言われる人間だって、作戦もなしに、例えばサッカーなんかをしたら、終始味方同士のボールの奪い合いで終わるんだから。
――あいつらの戦い方はむしろ逆。互いの過失を埋め合うような、徹底的に僕らの余裕を奪って追い詰めるような。獅子、蛇、蠍で牽制し、牛で退路を限定させ、鵞鳥で止めを刺す。受けは羊。まるで、将棋やチェスみたいだ。
「なるほどね」
襲い来る死を眼前に、少年はふてぶてしく呟く。いや、呟いたつもりになっただけかもしれない。牛と彼との距離は、そんな言葉が入り込めないほどに、絶望的に詰まっていたから。だが、それでも彼は笑う。もし。もし、もう一度、自分に反撃の機会が与えられたなら、必ず勝利は手にできる。それを最期の矜持にして。
『グゴオオオ!』
そして、牛は突き抜ける。その場所の柱や本棚はまるでゼラチン質のようにぐちゃぐちゃに壊され、少年のいた空間ごとうしろにあった壁まで粉々に粉砕して。
次いで。
「何をぼやっとしているんですか!」
キントの怒号が響いた。
少年は彼女の温かな腕の中で、しんみりと。
「……ごめん。でも、ありがとう」
そう謝罪と感謝を示す。
それが起きたのは数瞬前。牛の猛進に少年が巻き込まれる最中、キントは跳んだのだ。もし、タイミングを計り損なえば自分すらが危うい橋を、彼女は迷いもなく渡った。
彼を守ること、それが仕事だから。彼女の行動原理を紐解くなら、それこそが最たる理由であることは揺るぎないだろう。何故なら、彼女は何事にも几帳面だから。だが、彼女がその最初の一歩を踏み出したとき、心の中は純粋ではなかった。公に混じる私という不純物。彼女の胸中には、確かに。確かに僅か、義務感以外の感情が。
「あと、ごめんついでに、ちょっと頼んでもいい?」
「……!?」
キントは少年の落ち着き振りに困惑する。
――な、なんなんですか、これは。これが今、死にそうになって、私に助けてもらった者の態度ですか?
「もう一度。……を……欲しいんだ。なるべく……して。その一つを僕が……。でも……だから……」
「はぁ!?」
そして、提案。
しかしそれはあまりに理解に苦しむ内容で。
「それで何が起きるって言うんですか!? というか、そんな使い方試したことありませんし、意味が分かりません!」
「でも、やるしかない。時間もない……来るよ」
視線を向けると、もう獣達が向かってきている。
「……っ」
彼の言う通り、そこにもはや余裕はなかった。
「っく、どうなってもしりませんよ!」
キントは最後にそう毒づいて、両手に光を集める。そして、それが完全に集まり切る前に。
「過失の大清算!」
かまいたちを放つ。
しかし、それは明後日の方向を走り、獣達へはかすりもせず、そのまま建物の奥の方へ。
そのとき、少年はどこにいたか。
「……っ!」
急流のようにうしろへ流れていく景色。とてつもない圧が体全体にかかる。
「……っく」
空を切り裂く緑の光刃陣。彼はその一つの尾に必死につかまっていた。
――たぶん、いるとしたらこっち側。
刃は天井付近まで上昇し、そこからなら図書館の下方がありありと見渡せる。凄まじい空気の抵抗感の中で彼はそれでも目を開き、辺りを探る。
それはとある気付きによって裏付けされた暴挙。もし、獣達が出鱈目ではなく規則的に戦っているとしたら。その規則を指示する者がいるはず。そして、彼は更に覚えていた。最初見えた敵の群れ、その中に、あれ以来姿を見せていない者がいることを。
――いた。
少年の目に映る影。本棚のうしろに身を隠しつつ、獣達の様子をうかがっている。そして、影は時折指を宙で動かしていて。今、それに従うように鵞鳥が落下した。
「……」
以前に見た腹の出た巨人。頭上で刃から離脱したこちらには気付いていなようだ。
だから、少年は。
「……」
目を閉じ、これ以上ないほど集中して掌に熱を集める。
それは時間をかければかけるほど膨張し、また温度を高め、それを丁寧にねじり上げるよう育てていく。
『……?』
そのとき、巨人の指が止まった。同時に獣の動きも止まり、建物の入り口付近の土煙が晴れてきて。
しかし、その場にはどういう訳か人影が一つしかない。あとの一体はどこへ。目を凝らすような仕草をするも、見つからず。巨人はふと上を見上げた。
『……』
だが、もはや手遅れ。そこには自身を包み込むほど巨大に膨れた熱の塊が誕生していて。
『キュゴオオオ!!!』
放たれた。それは、抵抗の暇すら与えず、一方的に獲物を包み込む。
『イゴア!』
『ウゲ!』
『シュルル!』
『ギチ!』
『グブル!』
『ガァー!』
後方で、獣達が声を上げてのたうち回った。
そのときの少年の行動は素早く。空中で一気に体をねじって翻り、鳥のようにキントの元へ。
「キント!」
「……」
ほんの数分だったが、一人で獣を相手にしていた彼女の顔にはかなりの疲労が見
えて。けれど、少年を睨みつけながら。
「……説明を」
そう求めた。
「え?」
「何が起きたか説明をしてください」
「あ、うん」
そして彼は、戦っている中で獣達を操る存在に気付いて、それを倒すために今のような突飛な行動をしたことを順序立てて彼女に説明する。
「……なるほど。それで、アスモデウスの本体は倒したのですね」
「うん、たぶん」
「ならいいです」
彼女はメイド服についた埃を払いながら、姿勢を正した。
――一瞬、自分だけで逃げてしまうのかと思いました。
次いで、少年に対するある種の申し訳なさと、自分への嫌悪。
「大丈夫? 一人にさせてごめんね」
「……」
彼はそんなキントに謝ってきて。
だから、彼女も普段はそうそうそんなことを言わないのだが、流れに身を任せて。
「いえ、その私も――」
だが、そのとき。
『愚カナル者ヨ。ヨクゾ気付イタ』
無機質な声が落ちてきた。




