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Ⅳ.微笑みメイド

 それは不思議な空間だった。足元から遠く視線の彼方まで、窪み一つなく滑らかで。潔癖とさえ感じられるほど澄んでいる。綺麗。さしあたり、そんな表現が適切なのだろうか。だが、どこか座りが悪い。しかし、どこが。

 頭の中をいくらまさぐっても、答えは出てこない。全く、不気味な場所だ。初めに覚えた感覚は、いつの間にか変質してしまっていて。考えれば考えるほど、奇妙な嫌らしさに変わっていく。

 そんな中、ふとキントは気付いた。


 ――ああ、そうか。

 ――ここには、ごみがない。


 どこまでも続く純粋な白地で、悪魔と相対する者がいる。

 彼は体のほとんどを失って、心は未だ熟しておらず。全てが不足に満ちていた。けれど、どういう訳か、誇り高く。追い詰められているはずなのに、揺るぎない。

 そんな大いなる矛盾をその身に携え、彼は。


「いつでもいいよ」


 傲慢に引き金を引いた。


「……」

「……」

「…………」

「……」


 少年に気圧される。彼の数倍は生を貪ったであろう悪魔達が気圧される。


「……一つ目の問題だ」


 長い膠着の末、一体が口を開いた。それができたのは言わば克己心、このままで済ますものかという粘質の復讐心が身を焼いたから。

 声にはどす黒い怒りが立ちこもって、もはや相手を見くびるような遊びはどこにも感じられない。


「ここに二つのバケツがある。何の罠もない、水を汲むだけの道具だ」


 声につられて、いつの間にか悪魔の手元にバケツが出現していた。それは説明の通り、見るからに平凡で。滑らかな銀が伝うそこは曇りなく渇いていた。


「そして、コップが一つ。こいつが鍵になる」


 悪魔はバケツを足元に置くと、更にどこからか硝子でできたそれを取り出す。


「お前らは今から、バケツを使ってこのコップ一杯分の水を量りとってもらう。ちょうど一杯分だ。あふれたり、足りなかったりは許さない」

「ん、どういうことですか? コップ一杯の水を量るのに、バケツを使う意味なんてないでしょう? 水場をコップで掬えば、それがちょうど一杯分です。そんなバケツ、しかも二つだなんて。全く必要ありません」


 キントは疑るように首を傾げた。


「お前、馬鹿か? バケツを使って、コップ一杯分を量ることに意味があるんじゃねえか。コップを使って、コップ一杯分の水を量るだなんて。そこらで喚いてる猿だって、尻をかきながらやってのけるぜ?」


 嘲りと同時に、毛むくじゃらの猿の群れが取り囲む。ただし、キントの周りだけ。それに、その中の一匹は、我が物顔で彼女の頭の上に座り、呑気に果物を食べていた。

 また、それらは悪魔と同じくあやふやで。彼女は反射的に腕を、脚を振るったが、直に霞みに触れるように手ごたえに乏しく空を切る。


「……やはり、殺します」

「無理だよ。分かってるでしょ?」


 再び、両手を構えたキントを少年が止める。

 角が立つような嫌らしい笑みを浮かべた悪魔がそれを見ていた。


「……」


 しかし、彼女は。


 ――どういうことですか?


 何より、目の前の唐突な変化に思考を奪われていた。


 ――この少年、今までとはまるで雰囲気が。


 ぶるり。そうとは言わないまでも、微かに。キントの背筋が波打ち出す。


「じゃあ、このバケツはお前らに渡す。水は、池をそこに作ってやったぜ。コップは俺が持つ。チャンスは一度きり、失敗すればお前らは死ぬまでここから出られない。それじゃあ、はじめ!」


 水が、バケツが手の内に揃う。ならば、あとは提示された問題とやらをさっさと解いてしまうだけ。その真意は雨の日の窓のように曇っていたが、とりあえずやってみればどうにか答えが分かるだろう。

 キントは知らぬ間に消えた猿達にほっと息をつきながらそれらの片方に手を伸ばした。

 だが。


「ちょっと待って、キント」


 またも、彼女を諫める少年の声。


「その前にまだ、テーブルの上に乗せられていないものがある。そうでしょ、デビイ?」

「ギャハハハ! 分かっちまったか。悪い悪い、ただちょっとお前らを苦しめたくて。忘れてた訳じゃないんだ。これは単なるわざとで」


 一つは炎のように赤く、一つは沈むように冷静で。二つの影は互いに好敵手を見つけた獣のように視線を飛ばしている。しかし、目前で何が起きているかが要領を得ない。

 眉の間の皺が溜まり、キントの胃ははむかむかと荒れる。そんな彼女に、少年は憮然とした表情を崩さずに説明した。


「この問題、今のままじゃいくら考えても答えは出ない。何か他に、もう一欠片、条件が必要なんだ。それをあいつは隠してる」

「……」


 どこか遠くで鐘の音が響いている。こんな何もない場所で。こんな不明瞭な世界で。


 ――何なのですか?


 彼女は掴みかねていた。少年に対する振る舞いも、彼の持つ全体像も。先ほどまでは見下してさえいた存在に色濃く靄がかかっている。


「なになに? 困ってんの? ぎゃはは、そうだよね? ま、馬鹿なりに必死に考えた結果、ちゃんと情報が不足してるってことには気付けたみたいだから。ご褒美に教えてやるよ。まずは、そのバケツをよく見てみな。あれ、どうしてだろう? 何だか大きさがまちまちだ! そこに理由を見出すなら、二つは量れる量が違うってことさ! 正確に言うと、小さい方はすりきりまでちゃんと入れればコップ三杯分、大きい方はちょうど五杯分の水になる。でも、決して一杯分ではないんだぜ? はい、これで話は今度こそおしまい! それじゃあ次はお前らの番だ。パンクな答えを期待してるぜ!」


 ごちゃごちゃとうるさい、まるで子どもだ。自分が得た知識を、さも真理を探り当てたかのように周りに語る。しかし、その語り草はあまりに稚拙で救いがたい。的を射ず、矢を乱射する壊れた弓のような。結局、何が言いたいのかが分からない。

 キントは受けた不快感を、目を細めることで表した。

 そのとき。


「……なんだ、つまんないね」


 少年は自分とは全く別の次元に立っている。少なくとも、キントにはそう感じられた。


「……は?」


 薄汚い悪魔の額がぴくりと動く。

 その仕草を意にも介さず彼はキントに向き直った。


「ねえ、キント。あいつらが悔しがる所、見たくない?」


 彼は無邪気に、それと同じぐらい狡猾に笑っている。姿は右腕が浮かぶばかりで、表情は推し量れない。けれど、彼女には。


「……」


 分かり切ったことを、とキントは思う。今の彼女には、少年に対して抱いていた剣のよりも遥かに悪魔たちへのそれが勝っていた。


「……どうすればいいんですか?」

「簡単だよ。耳を貸して」

「……」


 彼の口元へ顔の側面を近付ける彼女。


「おいおい! 偉そうなこと言って、さっそくメイドと相談かよ! こりゃ負け惜しみ確定だな!」


 その間、実際には悪魔達の暴言がその場を飛び交っていたのだが、二人はそれらを徹底的に無視しながら。


「ごにょごにょ……」

「ふむふむ」

「ごにょごにょ……」

「はい。ですが、どちらのバケツもコップ一杯分を量ることはできません。これはおそらく罠です。奴らはまだ何かを隠しているのでしょう」

「ごにょごにょ……」

「え? それに何の意味が……?」

「ごにょごにょ……」

「分かりましたよ。言えばいいのでしょう、言えば? そうすれば、大きいほうのバケツにコップ三杯分の水が入ります。ですが、それに何の――」

「ごにょごにょ……」

「え? うーん、そうするとまぁ、大きいバケツが一杯になりますね。コップ五杯分です」

「ごにょごにょ……」

「はい? 違う? 小さいほうのバケツ、ですか? それは、えっと、まだ水は余っています」

「ごにょごにょ……」

「どれぐらい余っているか、ですか? それはまあ、コップ五杯分のバケツには先ほど余裕が二杯分しかなかった訳ですから、コップ三杯分のバケツからは二杯分の――って、あ!」


 その瞬間、キントは脳に電流が走ったかのような衝撃と。絡まったロープを解き切ったかのような快感とが同居して。


「……!」


 思わず、顔を勢いよく回した。


「ね、簡単でしょ?」


 そこには、右腕だけのくせに酷く頼もしく見える存在が。


「さっき、あいつらはキントをすごく馬鹿にして、侮ってた。そんなキントが問題を易々と解いちゃったら、あいつらの面目はまるで立たない」

「はい」

「だから、出来る限り堂々と、余裕たっぷりに解くんだ」

「はい」

「じゃあ……やっちゃえ」

「はい」


 そうして反撃の烽火は上げられる。

 目指すはこの世界からの脱出。それも、可能な限り胸のすくような。


「は? 馬鹿は馬鹿の二人でも、解くのは知能猿並みのメイドの方かよ? おいおい、そこの右腕野郎、ちょっとお前が変わった方がいいんじゃないのか?」


 悪魔達は腹を抱えて、キントを指差して。お互いに顔を見合せながら、げらげらと不快な笑い声を響かせていた。

 だが。


「ぎゃははは…………はは?」


 それはすぐに止まる。彼らには分かったから、彼女が何をしているのか。

 問題というものは残酷で、解き手には最後までそれが正解なのか確証はなく。まるで、導のない森を歩くような緊張感があるが。作り手には、作り手であるがゆえに、目の前で起こっている事態が自分にとって都合の悪いものかどうかがすぐに分かってしまうのだ。


『ジョロロロ……』


 キントは悪魔の前に立つと、無言のまま淡々とバケツの水をコップに注いでいく。


『……ピチョン』


 その最後の一滴はあたかもファンファーレのようで。勝利の快感と共に、彼女の体を走る毛細血管の全てに沁み渡った。


「……」


 そして、声すら出せない悪魔に言い放つ。


「簡単すぎます。もっと、ましな問題はないんですか?」

 すると。


「…………うがあああ!」


 顔を真っ赤に染めながら、猪突猛進のイノシシのように襲いかかって来て。

 けれど、それにはまるで意味がない。今度は構図が反対だ。しっかりとその場に立っているキントに対して、悪魔は密度を持たない靄。その鋭く見える爪は相手になんら危害を加えられていない。

 そんな中でも彼女は。


「まるで、猿のようですね」


 ダメ押しの追い打ちを畳みかけ。


「ぐ、ぐやじいいい!!!」


 血管の浮きあがった額、ぼろぼろと流れる粘っこい涙。

 キントは滑稽な悪魔を背にしながら。


「……」


 にこりと可愛らしく笑った。

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