Ⅵ.キント「はい、あーん♥」
「うえっぷ……」
かなり長い時間、暴走したバフォメットに乗っていたせいか。
少年の体は酷く疲労して。また、存在しないはずの胃が、とても不快に捻じれている。
「うぅ……」
今にも何か吐き出してしまいそうな悪寒。
彼は手首をだらんとぶら下げて、水面を視界に移す。
「……」
そこは湖だった。荒野の途中にぽつんとある小さな水の溜まり場。
少年のそばには、小さくなったバフォメットがほむほむとその水を飲んでいて。
「うえっぷ……」
先ほどの揺れを思い出して、彼はまた気分を落とす。
「……」
近くにはキントもいた。
少年と違い、彼女は万全な調子で。敷物を広げたり、食べ物が入った箱を取り出したりと昼食の準備に励んでいる。
食事の方は、今日の朝、ドゥリーベスが用意してくれたものだ。
それらは蓋を開ける前から、素晴らしい香りを立てていて。
「……」
どこかに食欲を忘れてきたかのような少年にも、少し空腹の予兆が。
「ふぅ」
キントは全ての支度を終えると、一つ息をついた。次いで、少年の方へとやってくる。
「……」
「……食事」
簡素な単語。
彼女はそれだけ告げて、敷物の場所へ帰って行く。
「……はぁ」
彼は何だか悲しい気持ちになった。
どうして彼女は機嫌を損ねているのか。それが分からないままに、煙たがられるのはとても精神に悪く。
けれど、「もし、何か自分がしたなら謝るよ」、その一言が出ない。
何故なら、まず二人は親しい間柄とは言えないし、仮に言えたとて、それをもしも無視されてしまったらショックで立ち直れなくなりそうだから。
言いたいけど言えない。彼はそんな嫌なジレンマに悩まされながら、また。
「うえっぷ……」
催す吐き気に耐えた。
「……」
ただ、そんな中でもいいことはある。
「…………」
キントの方へ視線を向けると、彼女は敷物の上に座っていた。決して、少年と目線を合わせることはないが。万端の準備がなされた昼食に手をつけようとはしない。
それは、あるいは。
――もしかして、僕を待ってくれてるのかなぁ。
とも取れる振る舞いだった。
しかし、それならばいつまでも湖の方にいる訳にはいない。
彼はだるい体に活を入れながら。
「……」
ふわふわとキントの方へ向かう。そして彼女と相対する位置について。
「えっと、頂きます」
「頂きます」
彼らは同じタイミングで食事の挨拶をした。
「…………」
「……」
彼女は黙々と料理を口に運ぶ。
会話は生まれない。
――気まずいなぁ。
彼はそんなことを思いつつ、目の前の料理に手を伸ばす。
だが。
「……あれ?」
そこにはハンバーグのようなものがあった。卵焼きのようなものがあった。サラダのようなものがあって。デザートのようなものも。
「……」
彼は一応、フォークを掴んでみる。料理を刺してもみる。
しかし。
「……た、食べれない」
右腕だけ体では、それらを食べることはできず。
「……え、えっと」
もしくは、掌を箱にうずめて食べるということは可能だが。いや、それはいくらなんでもマナーに欠けていて。ただでさえ、嫌われている節があるキントの前で、その行動はダメ押しにしかならないだろう。だが、ならばどうすればいいというのか。
「……」
少年は自然とキントの方を見る。
「あ、あの……キントさん?」
「……」
呼びかけられた彼女の目線亜氷のように冷たく。
だが、勇気を出して彼は。
「も、申し訳ないんだけど……僕、一人じゃご飯が食べられなくて……」
「……」
その場に立ちこめる異様な空気。まとわりつくような沈黙。
「……」
「…………」
居心地が悪すぎる。
まるで、招かれざる集まりに顔を出してしまったかのような不快感。
だから、少年の心は折れて。
「……ごめんなさい。やっぱりいいです」
彼は昼食を諦めた。
「…………」
一方のキントは淡々と食事を口に運び。だが、彼から目を離すことはせず。
「…………はぁ」
最後に溜息をつく。
そして。
「……何から食べますか?」
低い声で。いや、敢えて低くしたような声で訊いた。
「え? た、食べさせてくれるの!?」
「……仕方ないですから」
不満そうな響き。けれど、そこには強い芯のようなものが。
「じゃ、じゃあ、ハンバーグ」
「分かりました……どうぞ」
「あ、ありがとう、はむ」
キントの手つきは丁寧だった。まるで、母親が我が子にするような。そこには怒りの感情など微塵も混じっておらず。
「……」
しかし、彼女の表情は固い。
「次は何を?」
「あの、サラダお願いしていい?」
おそらくはちゃんと分けているのだ、心の中で。自分の感情と、今の行為は別にあるべきだと。
「分かりました……どうぞ」
「ありがとう、はむ」
それはキントの。根底とする考え方、生きてきた歴史。それらを全て内包した、清廉な精神が表れているようで。
「……」
少年は。




