Ⅳ.清掃メイド
「じゃ、じゃあ、ちゃんと休まなきゃダメだよ?」
また、謁見の間を出ていくとき。少年は改めて、ミアに告げる。
彼女は扉を開け、送り出す形でそこに控えていて。
「かしこまりました」
僅かに微笑んだ気がした。
「……」
「………………」
二人の間に流れる、どこかすっきりとした清涼な空気。
そして。
「いってらっしゃいませ」
ミアが優美にお辞儀する。
「うん! 行ってきます!」
次いで、少年はそう返しながら部屋を出た。
『ギィィ』
後方で扉が閉まる音。
ミアが仕事の手を止めて、素直に休息を取ってくれるか。そこに全く不安がないといえば嘘になるが、彼は無根拠のまま、けれど心配はないだろうとも思う。きっと、大丈夫と。
「……」
だから、彼は。
「どこに行こうかな―」
そう言って、すぐに気持ちを切り替えた。
目の前に広がるのは廊下。その先の階段を下りれば、おそらく他の部屋も見ることができるだろう。
「とりあえず、下だね」
少年はふわふわと浮きながらゆっくり進んでいく。
その感覚はどこか、重みを構成する要素が体から溶け出てしまったかのような。だが、実際は浮かぶというほど曖昧なものではなくて。
例えるならば、ヘリコプターの感覚に近いかもしれない。それも、そこに搭乗した人間ではなく、輸送機そのもの。何かが体を押し上げているような、見えない力で空中に自身を固定しているような。そして、その三次元的な位置取りを自己の意志で操作できる奇妙な体感。
おぼつかないはずなのに、それは不思議と馴染んでいて。子猫が教えられぬままに、動く標的を視線で追うような。そんな本能にも似た衝動。
「……」
だから、少年の屋敷散策は何ら問題なく始まった。
「でも、すごく広いなぁ……」
彼は辺りを見回しながら飛ぶ。
「それにとても綺麗……ごみ一つ落ちていないや」
清潔、あるいは清廉。そこは驚くほど、清掃の手が行き届いていた。大理石できた床は丁寧に磨かれ、鏡のように光を跳ね返し。全面に張り巡らされた壁紙には、傷や染みといった不備はどこにもなくて。加えて、両脇に飾られた燭台や絵画、それに壺などの骨董品類は、まるで作られた時代をそのまま繋ぎとめているかのような。
この在り様は、例え一日でも手入れを怠れば、決して保つことはできないだろう。そう思えるほど、視界に映る物々は神妙な佇まいを彼に見せる。
それは、世に完成品を生み出す匠にも引けを取らない意気込み。ほんの微かにさえ、劣化を許さない、見逃さないひた向きさ。
「誰が掃除しているんだろう……」
当然の疑問。いや、興味。
これほどの空間を演出しているのは、いったいどのような人物なのか。
「……」
一瞬、ちらとミアの顔が脳裏に浮かぶ。
「い、いや、たぶん違う……」
けれど、少年は頭を振った。あり得ない。いや、あって欲しくない、と。
何故なら、もしミアが少年の随身だけではなく屋敷の清掃までこなしているとしたら、それはもはや彼女の不眠不休を指してしまうから。
「違う……よね?」
彼は振り返り、ミアがいるであろう方向を見据えた。
戻った方がいいか。ちゃんと彼女が休んでいるかどうかを確かめるべきか。そんな葛藤に囚われて。
だが。
『キュッ、キュッ、キュッ』
ふと、そんな音が空気を伝ってくる。何か、清涼感を覚えさせる小気味いい響き。
少年は反射的にそちらの方へ掌を、そこに生えた目を向けた。
視界の先に映し出されたのは。
「……」
本人の潔癖さを表しているかのような、上質な黒炭の如く、深い輝きを秘める漆黒の長髪。それが流水に似たしなやかさを持って腰の辺りで揺れていた。
また、身長はミアやドゥリーベスよりも頭一つ分ほど高く、大柄だ。だが、決して太っているという訳ではなく。むしろ、そのしっかりとした骨格には、ほどよく筋繊維の流れが見えて。あるいは、排球を連想させるアスリートのような。
「ふんふっふっふふーん」
そんな彼女が陽気に鼻歌を歌いながら窓を拭いている。
その姿は随分と幸せそうで。何かいいことでもあったのだろうか。いや、おそらく違う。そういうことではなくて、そもそも自分が行っている作業に楽しみを見出しているかのような。夢中になっているような。少なくとも、少年にはそんな風に感じられた。
だから。
「こ、こんにちは。キントさん」
少年は思い切って話しかけてみた。
「……」
びくり。そう肩を震わせるキント。
彼女もやはりメイド服を着ていて、その形状はシンプルでミアのものと近かったが僅かに異なる。それは白いエプロンの部分。ミアのものは上下に二つセパレートになっていたが、彼女のものは境目がなく、真っ直ぐと下まで伸びている。また、頭に乗っているのもカチューシャではなく、薄い布で縫われたメイドキャップで。
「……」
少年とキントが話すのはこれが初めてではない。いや、話しかけたのは初めてか。
そんな二人の間柄を端的に表現するとすれば、顔見知り。以前、彼が黄金の君主マモンを倒したのち、互いに自己紹介をしたのが彼らの最初のコミュニケーション。そして、今の所、最新の会話。
「……」
少年に声をかけられたあと、キントは横目でゆっくりとこちらを窺うような仕草を見せ、ぎこちなく体をこちらに向けてきた。
「……」
しかし、そこから言葉は出ない。
まるで、借りてきた猫のように彼女は黙り込む。掌を返したかの如き変わり様。今の彼女に先ほどまでの明るさは見受けられない。
「……え、えっと」
戸惑った少年はとりあえず口を開いてみる。
だが、その間もキントは睨むかのような視線をこちらにぶつけてきていて。また、どういう訳か彼女の顔は赤く紅潮していた。
「あの……」
そうして、呼びかけながらキントのいる場所へ向かって宙を進む。
「……」
すると、一歩足をうしろに下げる彼女。
「……?」
困惑して、止まる。けれど、そのままという訳にもいかなくて。
「ぼ、僕は屋敷を探検していて――」
なんだかよく分からないが、少年は自分の状況を説明しながら、再度近付いた。
「……」
しかし、また一歩。それに合わせてキントは下がる。
そして。
「……」
彼女は突然頭を下げ、慌ただしく脇に置いてあった清掃用の道具をまとめると、踵を返した。次いで、驚くほど早歩きで、逃げるようにその場を立ち去ってしまう。
「え? え!?」
その状況に少年は混乱するばかり。理由を訊ねようにも、既にキントの姿はそこになく。
「ぼ、僕、何か嫌われるようなことしちゃったかなぁ……?」
彼は目に少し涙を溜めながら、手首をだらんと垂らした。
「……あれ?」
だが、そんな彼の視界に一枚の布の姿が映る。
「これって……」
それは先ほどまで、キントが窓を磨いていたもの。どうやら急いでいたせいで、回収し忘れてしまったらしい。
「……と、届けないと困っちゃうよね?」
だから、少年は布をついと拾い上げ、彼女のあとを追った。




