Ⅰ.魔王「いたれりつくせり、ワロスww」
空に蒼い月が浮かんでいる。昼夜の変化はそこから滲む光だけが知らせていて、辺りには瘴気のような窪んだ空気が満ちていた。闇の中では時たま、耳障りな響きが舞う。鳥が絞められるときに出す声のような、金属同士を擦り合わせて出るような。
そんな暗欝な場所に、ひっそりとそびえる石造りの巨大な屋敷。その内には。
「……」
一本の右腕が君臨していた。
それは別に気取った表現ではなく。主を称える謁見の間、その中央に据えられる金や宝石で飾られた豪勢な椅子の上には、正真正銘ただの右腕が座っている。いや、乗っている。
ここに至った経緯は、とても複雑で。答えを得るにはまず、彼がこの世界を訪れる以前の時間軸まで遡らなければならない。
元々、元来。彼は人間だった。更にいうなら、どこにでもありふれた一人の少年の姿をしていて、右腕は単なる体の部位に過ぎず。少なくとも、彼が人間界と呼ばれる世界で生きていた頃は。親しい友人と過ごした記憶の中では。彼は何の問題もなく人であった。
しかし、転機はやってくる。何の相談もなしに、何ら予感すらさせず。その忌まわしい波乱は渦を巻く。
それはまるで地獄だった。持っていた常識が覆り、決して抗えない力によって好き勝手に蹂躙される。そこには語り尽くせないほど多くの濃密な出来事があったが。話をまとめると、少年は人間界に降り注いだとある〝厄災〟によって自身の体と親友とを同時に失ってしまったのだ。
本当なら、その事実をもって物語の幕は下りる。当然だ、ただの人間が肉体もなしに生きていられる訳がないから。
けれど、運命は少年を逃がさなかった。死を受け入れたはずの彼の前に、澄んだ水面よりも美しい瞳を備える女性が立つ。彼女は少年を「魔王」と呼び、自身を彼に仕える専属のメイドであると説明した。また、その「魔王」という類を見ない素質こそ、少年を右腕のみの状態で生存たらしめている所以で。次いで、メイドは希望を唄う。集めた者のあらゆる願いを叶える秘宝が魔界にはある、と。
だから、少年は旅立った。全てを取り戻すため、右腕となった自身を受け入れて。これが彼の選んだ宿命の枝葉、これが彼の歩んだ道程。
そして。
「うーん……」
少年は唸った。
椅子には腕の肘から上の部分が立っていて、掌には目と口が一つずつ。また、どういう仕組かは分からないが、鋭い牙が生え揃ったその隙間から声が漏れ出ている。
幼く、まだ男女の垣根を感じさせない高い響き。更に語調も柔らかで、その節々には子どもらしいあどけなさが感じられた。
「暇だなぁ」
そして、ぽつりと呟く。不必要なほど広い空間に、それは寂しく滲んでいって。
「あ、あのさ、ミア」
少年は視線を移した。
そこには、一羽の白鳥のように流麗に姿勢を正した人影が。
彼女は隅々まで丁寧に仕立て上げられた、端正なメイド服を身に着けている。
「はい」
透き通る声。まるで、枯れ果てた大地を癒す、一滴の雫のような。まるで、暖かな白昼に目頭を撫でる、優しい木漏れ日のような。
ミアはこちらに顔を向けた。
「えっと……僕も何かやった方がいいんじゃ……?」
「何か、でしょうか?」
少年の問いに、彼女は不思議そうに首を傾げる。それは、間近で見ている彼にしか分からないほど微細な仕草。
また、その表情も、触れれば壊れてしまいそうなほど可憐で。容姿を構成する細かなディティールの一つ一つが、まるで計算し尽くされたかのように美しく整っている。
彼女の前ではどんなに優美な彫刻も、あらゆる技術を束ねた絵画も価値を失くして。
「う、うん。だって、屋敷の掃除とか皆に全部やってもらっちゃってるし……」
目覚めてから今までの記憶を少年は想い起した。
それはここ数日の、屋敷での日々。少年の言う「皆」とは、ミアを含めた五人のメイド達のこと。彼女らは生活する上で必須となる料理、食器洗い、掃除、洗濯、庭の手入れ、はたまた屋敷の番犬的存在のバフォメットの世話に至るまで、身の回りにおける全てをこなしていて。
そうなると、必然的に彼のやるべき仕事は消失する。
何もせず、黙って過ごしていても。机上には豪華な食事が並べられ、部屋は驚くほど清潔で埃一つなく、夜には丁重にベッドメイキングがなされた寝具で眠りに落ちるのだ。もはやそれは至れり尽くせりといった待遇で、不満の感情が生まれる余地はない。
しかし。
「それらは我々、メイドの仕事です。魔王様のお手を煩わせる訳にはいきません」
少年を魔界へと誘った張本人は落ち着いた声で告げる。
だから。
「……」
彼は自身の内に側ある、得体の知れないもやもやとした感情を拭えずにいた。
『ギィィィ』
そして、扉を開ける音がする。謁見の間の、大きな両開きのそれの片側が。
すると、隙間から短い赤色の髪が覗いて。
「失礼するでー」
ミアと身丈は同じぐらいだろうか。活発そうな笑顔を見せる、軽やかな印象の少女が入ってきた。
「あ、ドゥリーベスさん」
「はっはー、魔王はん。何や、全然慣れへんなー。前にも言うたけど。名前にさんとか付けんで、うちのことはまんまドゥリーベスでええで?」
彼女は両手を頭のうしろで組みつつ大股で、鼻息混じりにこちらへ向かってくる。
着こなしたメイド服は、ミアのそれとは違い。短い袖は肩を過ぎた辺りで止まっていて。スカートの下からは張りのある太ももと、肌に密着する造りのブーツが見えていた。
「そ、そっか、ごめん。え、えっと――ドゥリーベス」
「そうそう。さん付けされると、こそぶったくてしゃーないわー」
そこでミアが口を開く。
「ドゥリーベス。偉大なる魔王様に対して、無礼な言葉遣いは止めなさい」
彼女らしく落ち着いた声。けれど、そこには威圧するような重々しい響きが。
「ほんま、メイド長は堅苦しいなー。別にええやん? 魔王はんも構わへんやろ?」
対するドゥリーベスは陽気に返した。夏の日差しを受けて育つ花のように、のびやかな。
だから。
「うーん、僕は全然――」
「魔王様」
「ん、何?」
「メイドが無礼を働き、申し訳ありませんでした」
「え?」
「ドゥリーベスを処刑致します」
だから、ミアの発したその言葉は強調され、とても陰鬱に聞こえた。
「何や、やるんか?」
すると、ドゥリーベスは組んでいた手を離し、格闘家のように顔の前で構える。足幅を十分に開き、いつでも動けるといった佇まい。
「仕える者の――」
次いで、ミアが呪文を唱え始めた。
「えぇ!? ちょ、ちょっとストップ!」
既に火花すら散りそうな二人の間に割って入る少年。
彼はその身に流れる魔力を利用して、空中を素早く飛び回ることができる。
「ですが」
ミアはいち早く反応を見せた。
そこに畳みかけるかのように彼は告げる。
「だ、ダメ! 喧嘩はダメ! 二人が傷付けあうのなんか、僕、見たくないよ!」
「……では、せめて、私の命で償いを――」
「それもダメぇ! こんなことでミアが死ぬのは絶対ダメ! これは魔王様からの命令です!」
「かしこまりました」
すると、ミアはそれまでの思いつめたような表情が。といっても、近くで見ている少年にすら分からないほどの僅かな変化が嘘のように消えて。
「ふ、ふぅ」
彼女がいつも通りの落ち着いた雰囲気に戻ったのを確認して、少年は安堵の息を吐き出した。
「魔王はんは優しいなー。でも、もっと残酷にならな、いずれ後悔することになるで?」
だが、それに水を差すかのような忠告が。
「ドゥリーベス。偉大なる魔王様に対して……」
そして、また二人の間に不穏な雰囲気が流れ始める。
その空気を察してか、少年は誤魔化すように慌てて言葉を捻り出した。
「あ、あの! ドゥリーベスは何しに来たの!?」
「……」
「…………」
何の脈絡もない質問、けれど意外にもそれは彼女らに効果的だったようだ。
二人は互いに視線を外して、体に込められた力を抜く。
「ああ、忘れてたわー」
そして、気の抜けるようなのびのびとした声で
「朝食できたで?」
ドゥリーベスが笑った。




