第四章 「Ⅱ.少年が望んだ世界」 の没案
「やったー!」
「よし!」
「わ、わぁ!」
彼らは下駄箱の前に貼られた表を見て、盛り上がっていた。
「また、同じクラスだな!」
大柄な彼は楽しそうに二人の肩を叩く。
「い、一緒だねぇー」
そして、臆病そうな彼が嬉しさで小刻みに手を震わせ。
「うん!」
少年が笑う。
「楽しかった、運動会!」
「運動会!」
「皆で行った、修学旅行!」
「修学旅行!」
少年は体育館から響いてくるクラスメイト達の声を、耳で静かに拾っていた。
「……先輩」
そして、その呼びかけに反応して静かに視線を戻す。
「あの……その……」
深いコバルトブルーの瞳に、抜けるような白い肌。それに、耳を撫でるような優しい声。
「えっと、その……」
そこにはとても可愛らしい少女が立っていた。
「……うぅ」
しかし、先ほどからずっとこの調子で。
彼女は少年を呼び出した張本人なのに、まるで歯切れが悪い。いや、それどころか今にも泣きだしてしまいそうで。
少年は笑う。
「行こう!」
「……?」
彼女はその差し出された手を、首を小さく傾げてじっと見つめた。
しかし、しばらくするとおそるおそる、そこに自身の左手を置いて。
「……!」
彼は彼女の手を掴み走り始めた。
すると、すぐに周りの声が消え、自分達の吐息しか聞こえなくなる。
「あ、あの! どこに行くんですか?」
「ここじゃない、どこか!」
そうして二人は笑った。
一緒にいれば、どこまででも行ける気がして。
そして走り続けて、笑い疲れて。
そして。
「あのさ……」
少年は徐に彼女に話しかける。
「ん? なーに?」
すると、彼女は料理の手を止めずに返事をした。
その声はどこか曖昧で。
「大学卒業したらさ」
「うーん」
「一緒に暮らそっか?」
「……」
だが、彼女はばっとこちらを振り向く。
そこには笑っているような、でも泣いているような。そんな幸せな顔があって。
少年は扉を開けると、開口一番に報告する。
「契約取れたよ」
すると、社長椅子に座る、相変わらず大柄な彼が。
「でかした!」
と少年を激励した。
「さすがー。じゃあ、これであの案件も進められるねー」
その隣には、すらりと背の伸びた臆病そうな彼もいて。
「も、もう次の仕事の話? 一休みぐらいさせてよ」
三人は会社を立ち上げていた。
「いやいや、会社のためにどんどん働け。これは社長命令だ」
「しゃ、社長って言っても、社員は僕らしかいないでしょ?」
昔と何も変わらない光景。変わったのは彼らの身長だけ。
「社員が少なくても、社長は社長だよ。上司の命令はちゃんと聞かなきゃ」
「え、えー」
ずっとあのときのままで、彼らは歩く。
「……うぅ。じゃあ、行ってきます」
「おう、頑張れ」
「行ってらっしゃーい」
共に手を取り合いながら。
「か、可愛いなぁー」
「ふふふ」
とても小さく、まだ赤みの残る頬を少年は優しく指で撫でる。
すると、それはくすぐったそうに顔をしかめて。
「お父さん似かなー?」
「い、いや、目元とかはお母さんそっくりだよ!」
二人は笑い合う。
また、それにまた笑顔が一つ加わって。
「あ! 笑った! 笑ったよ!」
「あはは、可愛いだろー?」
そこには幸せがあふれていた。
そして。
そして。そして。そして。
そして、彼はもはやぼんやりとしか分からなくなった家族の顔を見つめた。
『ビー、ピー、ピー』
頭の横で、電子音が鳴っている。
「……ぁ」
少年が声を漏らすと、家族は心配そうに顔を覗き込んで。
「……ぅ」
誰かが、彼の頭を撫でてくれている。
優しい手。
慈しむように、何度も。
「……ぁ」
とても暖かかった。
少年はそれで、これまでの全てが愛おしく思えて。
「りが……」
穏やかに笑う。
家族は、ずっと彼のそばに寄り添ってくれていて。
「……とう」
少年の心にに後悔はない。自分の中の、自分の周りの、全てのものが輝いている。何もかもが満たされ、そして。
『ピーーー』
そして、少年は目を閉じる。
胸いっぱいに膨らむ幸福を噛みしめながら。
最後にどこかでもう一度カラスの鳴き声を彼は聞いた気がした。
『オ前ノ望ンダ世界ダ』
少年の思考はしぼんでいく。まるで、線香花火のように。
世界が音を立てて歪み始めた。
「僕が望んだ世界だ」
少年は幸せそうに呟く。
すると、彼もまた同じように歪み、瓦解していく。
「あぁ」
だが、それでもよかった。いや、それでよかった。
少年の心はただひたすらに十分で。これ以上何もいらなくて。
『……イ』
けれど、まだ声が彼の元に届く。
いつか聞いた声。
それはとても煩わしかった。
何度も、何度も、辺りに響いて、心地よい余韻を台無しにする。
少年は思わず耳をふさいだ。これ以上、聞いていたくなくて。
しかし。
声はそれでも響いてくる。ふさいだ両手を超えて、体まで伝わってくる。
いや、違う。これは響いてきているのではない。中、少年の内側から染み出してきていて。
『下ラナイ』
その声は確かにそう言った。
そして、少年の意識は形を取り戻す。
先ほどまでの幸福感が消え、代わりにそこには何もない空間が広がっていて。
「……え?」
少年は姿の見えない声に問う。
『貴様ノ描イタ世界ノコトダ』
すると、どこから声が返ってくる。いや、むしろ生まれてくる。彼の内側から。
「ど、どうしてそう思うの?」
少年はまた訊いた。動揺しているような声で。
ここがどこか、相手が誰なのか。そんなことはどうでもよかった。とにかく彼の答えが気になって。
『ソレハ偽物ダカラダ』
だが、彼の言葉は意外に陳腐だった。
そんなこと言われるまでもなく少年は気付いていたから。この世界が偽物だと知ってなお、分かってなお、浸かっていたのだから。甘い蜜のような、逃れられない幸福感に。
だから、少年は言い返す。
「偽物のどこが悪いの? そこに幸せを感じるなら本物と同じじゃない?」
心に、既に迷いはない。
人間界を救う、友達を生き返らせる、魔界を支配する。そんなものにもはや執着はない。少年は確かに、それらをやり遂げたのだ。自身の望んだ世界の中で。
「僕はちゃんと、やったんだ! 言われたことを全部。求められたことを全部。やりたかったことを全部。だから! だから僕は幸せなんだ!」
少年の言は止まらない。まるで何かにとり憑かれたかのように、次から次へと言葉を放つ。
体が、心がとても暖かったのだ。もはや、感動は誰にも止められなくて。
しかし、彼の言葉は少年から熱を奪い取る。
『貴様ノ言ウ通リダ』
「……え?」
それはずいぶんあっさりとしたものだった。
あまりにも呆気ないから、少年も立った勢いを削がれてしまう。
『世界ガ偽物ダトシテモ。ソコニ己ノ幸福ガアルノナラバ、ソレハ本物ト何モ変ワラナイ』
「……」
少年は言葉を失う。
自分の価値観を否定されたかと思えば、舌の根も乾かぬ内に肯定される。
『ダガ、ソレデモ貴様ノ描イタ世界ハ下ラナイ』
そして、また否定。
「ど、どうして……?」
『ソレハ偽物ダカラダ』
「……」
彼の言っていることが少年には理解できなかった。
「ど、どういう……」
『我ハ知ッテイルゾ。貴様ノ内ニ眠ル感情ヲ』
しかし、彼は少年のことなど気にせず自分勝手に話を進める。
『貴様ハ、何故殺シタ?』
その言葉に反応して、何もない空間上にあのときの瞬間が映し出された。
「……え?」
それは神社での出来事。少年が二人を助けるために、炎で下級悪魔を撃ち抜いた場面。
「だ、だってあれは……二人が化け物に襲われそうだったから……」
『仕方ガナイ、カ?』
「……」
自分が言うはずだった言葉を先に言われてしまい、少年は口ごもる。
しかし、納得した訳ではない。あのときは二人を下級悪魔から守るために必死だった。それに、『撃テ』と声が言ったから。だから。
『貴様ハ、何故殺シタ?』
すると、今度は二人が下級悪魔に殺されたあとの場面が映し出されて。
「だって、二人が殺されたから……。倒さなくちゃ、僕も殺されちゃうから……」
少年は下級悪魔達に向かって炎を撃っていた。ただ、でたらめに。だが、でたらめに撃っているはずなのに、それはことごとく下級悪魔を射抜いている。
『仕方ガナイ、カ?』
声は笑っている。
「何が言いたいの……?」
声は少年の問いには答えない。
『貴様ハ、何故殺サセタ?』
今度はミアが下級悪魔達を処刑していくシーン。
「……ミアが……勝手に」
弁明する少年に声は言う。
『貴様ハ、止メラレル立場ニアッタ。シカシ、止メナカッタ』
「……」
少年の頭の中に勝手に蘇ってくる記憶。確かに、彼は止めなかった。それに、最後は自分の意思でも。
『貴様ハ何故殺ス?』
声は続ける。
『貴様ハ、敢エテ非情ナ言葉ヲ避ケテモイタナ?』
「……え?」
少年は訊き返した。記憶の中に、思い当たる節はない。
『貴様ハ敵ニ対シテ「殺ス」デハナク、イツモ「倒ス」ト言ウ。何故ダ?』
「はぁ? そ、そんなの別に理由なんかないよ! 僕の勝手でしょ!?」
けれど、声は続ける。
『貴様ハ、メイドガソレヲ「処刑」ト呼ンダトキ、「倒ス」トイウ言葉ニ置キ換エタ。ソレハ何故ダ?』
「だから、理由なんて……!」
『理由ガナイノナラ、タダソノ言葉ヲ繰リ返セバイイ。ダガ、貴様ハ執拗ニ「処刑」ヤ「殺ス」トイッタ言葉ヲ避ケタ。使ウノヲ拒ンダ』
「……」
けれど、声は訊ねる。
『何故ダ?』
「これまで貴様はそれを微塵も外に出さなかった。いや、外だけではない。内側の自分すらを騙して」
「自分の感情に気付きたくなかったから」
「貴様が心を強く揺さぶられるのは、いつだって自分のためだ」
「世界を救う? 友達を助ける? 他人のため?」
「そうだね。たぶんさ、分かってるんだ」
「ありきたりな人生を望むのは、それが簡単だから」
「僕はただ、奪われたくないだけ」
「どうしても気にくわないだけなんだ。自分の所有物を勝手に他人に奪われるのが」
「僕の友達も、僕の住んでいる町も、僕が生まれた世界も。全て僕のものだ。勝手に傷付けることは許さない」
「ははは。いい憤怒だ」
「それで? どうやったらあの生意気なデカブツを倒せるの?」
「簡単だ」
「我が名を呼べ」
我は偉大なる神の敵対者。絶対の破壊者。全ての魔族を統べる者。我が名は――」
「『サタン』」




