Ⅱ.見知らぬ声
そこから少年は息を切らして、懸命に走った。脚が疲労で千切れそうになっても、心臓が重く張り裂けそうでも。ただ、ひたすらに。何か大きな力に引きずられるかのように。
自分がどこに向かっているかも分からない。まるで、夢の中のように目的なく進む。けれど、それでも今はそうすることが正しいように思えた。そうすることしかできないように思えた。
「……はぁっ……はぁっ」
だから、少年は走る。
太陽は赤黒い色に呑み込まれ、周りには夕闇のような景色が広がった。雲は互いの体を擦り寄せ合い、ごろごろと不吉な旋律を奏でている。まるで、異世界に迷い込んでしまったようだ。世界が壊れ、自分の知らない場所へと変貌していく。
「……はぁっ……はぁっ」
だから、少年は走った。当てもなく、頼りもなく。そうしていなければ、今にも悪夢に囚われてしまいそうで。だから。
「ちょ、ちょっと待て!!!」
そのとき背後から声がした。友達の声だ。
はっとして振り返ると、彼は少年よりもかなり後方でへたり込んでいた。
「……だ、大丈夫?」
少年が駆け寄ると彼は、不服そうに声を荒げる。
「大丈夫なわけねえだろ! ……はぁ、はぁ。ちょっとは俺達のこと考えて走れよ! ……はぁ、はぁ」
そして、彼よりも更に遅れていた友達も半べそをかきながら追いついてきた。
「ひ、ひどいよぉ……先に行っちゃうなんて……」
「ご、ごめん」
少年は慌てて謝る。
友達は近くの電柱に自身の体重を預けながら、額に浮き出た汗をぬぐった。
「……はぁ、はぁ。別にいいけどよ。……はぁ、はぁ。どうしてこんな所に来たんだよ?」
「……」
彼の言葉に促されて、少年は辺りを見回す。
「ここは……」
一面に広がる緑と野球場ほどの大きな敷地。どうやらそこは小高い丘のようだった。開け放たれた立地のおかげか、地域の子ども達の間で人気が高く、普段は絶好の遊びスポットとなっている。
「ここなら……」
だが、人気の理由は敷地の大きさだけではない。更に、数年前に自治体が設置した、とある施設がこの場所の魅力を高めている。
「町の全体が見渡せる」
「お、おい……というか、あの空の目は何なんだよ?」
そうして魅入られたかのように、施設の方へと向かっていった。今の少年には周囲の音がまるで無意味に響いていて。
「…………」
「……」
またもや置いていかれた彼らは互いに顔を見合わせた。
「つ、ついていこう……か?」
「お、おう」
二人は戸惑いながらもあとに続いていく。
「……上るのか?」
施設は簡易な展望台だった。出入り口に扉はなく、上までいく手段は地道に階段を上るしかない。
「……うん」
少年は頷いて、先に一歩を踏み出した。
残る二人も上り始める。
そして、その頂上に着いたとき、三人は皆一様に言葉を失った。
「……っ!」
空が濁り、大地が啼く。光が闇に浸食され、全てが瓦解する。それはとても受け入れ難く彼らの心に突き刺さり、酷く、酷く掻き乱した。
「ど、どういうことだよ……」
「え? え!?」
町に穴が空いている。大きな大きな黒い穴。そこには何もなくて、存在しなくて。以前たくさんの建物が建っていた場所で、ただ怪物が口を開けたように広がっていた。
「あ、あそこ。さっき俺達がいた公園じゃあ……?」
「全部……、全部無くなってるよぉ……」
そのとき、空に浮かぶ巨大な目から何か涙のようなどろりとした液体が零れ落ちる。また、それが町に触れ、薄い膜のように包み込み、そして最後に音もなく爆ぜた。
「…………」
「……」
すると次の瞬間、確かにそこにあった建物達が消え、大地が抉られ、穴となる。何もない。どこまでも深い穴となる。
そこまで見て、大柄な彼が少年に掴みかかった。
「おい、説明しろよ! 何だあれ!」
「だ、ダメだよ! 喧嘩はダメ!」
次いで条件反射的に、臆病そうな彼が二人の間に割って入る。それは彼らの間では日常的によくある光景。だが、今の状況下ではあまりに見るに耐えなくて。誰もが不安に震えていた。突然のことに混乱して、自分自身を失ってしまっている。
そして、それは少年とて、例外ではなく。
「……分からない。分からないんだ。ただ、僕は逃げなきゃって思って、逃げてただけで……」
声が弱々しく震えていた。
「……そ、そうだ! 携帯電話!」
そのとき、臆病そうな彼が言う。また、ズボンのうしろポケットから自身の携帯電話を取り出して、顔の前まで持ってきた。
「そうか! お前、携帯持ってんじゃん! それで、警察に連絡して……いや、救急車!?」
「ち、違うよ! これでママに電話して……! って……何これ、きんきゅうそくほぉ?」
携帯電話の画面の上部に見慣れぬ漢字が流れている。
臆病そうな彼は思わず親指で、決定キーを押していた。
「おい、何してんだよ! 早く誰かに電話して助けてもらえよ!」
「い、いや、でもこれ……僕らの町のことが書かれてあるんだ。難しい漢字が多くて全部は読めないけど……でも、少しなら。えっと……災害……原因不明……非難……町の外へ……」
「もういいから、貸せよ!」
業を煮やしたのか、そこで大柄な彼が横からずいと手を出した。
「あ! ま、待ってよ」
「えっと、俺の家の番号は……」
そして携帯電話を奪い取り、不慣れな手つきで番号を押していく。それが終わると、続けてダイヤルボタンに手をかけた。
「……なんだ? 全然かからねぇ」
しかし、受話器の部分からは「ツーツー」と無機質な音が鳴るだけで一向に繋がる様子はない。リダイヤルをかけても結果は同じ。
そんな様子を見て、少年が口を開く。
「たぶん、電話が使えなくなってるんだと思う。皆が一斉に誰かに電話して、きっと回線がパンクしてるんだ」
「は? なんだよ、使えねえな!」
それを聞いて、大柄な彼は忌々しげに携帯を持ち主に返した。
「そ、そんなこと僕に言われても……」
「お前に言ってるんじゃなくて、馬鹿な携帯電話に言ってんの!」
「……」
携帯電話を巡るやり取りが終わったあと、三人はまた展望台の外へと視線を移す。
「それで、結局これからどうするんだよ?」
「さっき、携帯電話に避難って書いてあったから。とりあえず逃げなきゃ……」
「逃げるってどこに?」
「町の外へって書いてあったから……町の外かなぁ?」
「げぇ! それだとかなり遠いぜ! お金も持ってないから、バスにも乗れないし」
「……たぶん、バスは動いてないと思う」
「ああ、そうか」
「い、行くなら早くしようよ!」
仮にも行動の目処が付いたからだろうか。今の彼らは、先ほどよりもほんの少し落ち着きを取り戻していた。
「そうだな。どうせ、ここにいたってしょうがねえし」
「……うん」
しかし、そんな彼らを牽制するようにまた、空に開いた赤黒い眼がゆっくりと瞬きを始める。すると、今まで零れ落ちていた嘘のように涙が止まり、代わりに瞳の部分が夜目の如く膨張して制止した。そして次の瞬間、そこから小さくカラスのような黒い物体がが次々と飛び出してきて。
『ギャリギャギャギャ!!!』
ここにまで届くほどの大きさで、一斉に不快な鳴き声を上げ始めた。
「ば、化け物だ……」
「あんなの見たことないよ……」
空を泳ぐ影を視線で丁寧に追うと、大まかな形が分かってくる。その素早い動きは鳥のようで、でも違う。その直立の姿勢は人間のようで、でも違う。人間と同じ体に羽が生え、頭部には角が伸びている。そして、全身を覆う皮膚は紫御殿の葉のように毒々しい。
「……」
それを見ながら少年はとても形容しがたい感情に襲われていた。何かを思いださせるような、どこか懐かしいような。
すると、胸が熱くなる。鼓動が増し、体中が燃えていて。
『ココハ危ナイ』
「……行こう」
しかし、少年は二人に告げる。自身の中で生まれた感覚を否定するように。
そして彼らは戸惑いながらも展望台を降りていった。