Ⅰ.魔王覚醒
首の根元から二つに分かれるカラスを模した頭。黄金がひしめく体。
広間の中央にマモンが立っていた。
『我ハ欲ス』
マモンは感情のない声でそう呟きながら徐々にミアの方へと進んでいく。
『我ハ欲ス』
絶望的な状況だった。
既に少年はマモンの力に屈服し、床に腕だけで転がっている。
「そ、そんな……」
「アカンか……」
「め、メイド長……」
「……」
檻の中に閉じ込められた他のメイド達も、その光景を成す術もなく見ているだけ。
『我ハ欲ス』
しかし、マモンは残酷に歩を進めた。
その巨体がミアの目の前まで来るのに、そう時間はかからない。
『我ハ欲ス』
そして、ついにそのときはやってきた。
避けられぬ修羅。マモンがその腕をゆっくりとミアに伸ばす。
『我ハ欲ス』
しかし、その手が頬に触れる寸前ミアは一歩うしろに下がった。
『……』
マモンは無機質な瞳で、だが不思議そうにこちらを見つめてくる。
すると、ミアは落ち着いた声で。ほんの僅かに頬笑み、丁寧にお辞儀をしながら。
「魔王様はまだ敗北されておりませんので」
そう告げた。
『……』
マモンは二つの首を器用に傾げる。
それは何の感情も備えていなさそうな外見と比べると、おかしくなるほど奇妙で。
そうしてマモンはのそりとうしろを振り返る。誰かに肩を叩かれたような、何かに呼びかけられたような。そのような動きで。
『……』
そこには少年が立っていた。いや、正確にはそれまでの彼ではない。いうならば炎の塊。ごうごうと燃えあがる人の形をした何か。だが、確かにそれは彼だということが分かる。何故なら、その右腕だけは生身で、輝かしい光を放つ刺青が刻まれていたから。
「『頭が高い』」
少年の第一声はそれだった。
深く混沌とした響きと、少年の高い声が調和する。
『……グァッ』
その言葉が空気を伝うと同時に、マモンが地面にうつぶせに倒れた。いや、叩きつけられたといってもいい。目には見えない何か、大きな力に押しつぶされて。
『……グググ』
マモンはその力を跳ねのけようと、無理矢理体を起こそうとした。四つん這いになり、腕と脚を床に突きたて懸命に。
だが。
「『頭が高い』」
少年が告げると、更に巨大な力がマモンにのしかかる。
それに耐えきれず、マモンの体は再び地面に激突した。
『……グァッ』
その光景を見て、メイド達は。
「あ、あのマモンが……」
「魔王はんの力が覚醒したんか!」
「魔王陛下……!」
「ふふふ」
驚きと歓喜の声を漏らす。
そして、ミアも。
「お帰りなさいませ、魔王様」
どこか嬉しそうに頭を下げた。
だが。
『ゲァガア!』
そのとき押しつぶされていたマモンが耳障りな雄叫びを上げる。
すると、両のあぎとが開かれ、内から雷を纏う白紫の光が。
『ブオンッ!』
周りの空気を巻き込みながらそれは膨張する。そして、少年の体を丸ごと全て包みこんだ。
「魔王様っ!」
「魔王はん……!」
「陛下!」
「……」
メイド達は息を呑む。
しかし、その中でミアは。
「静まりなさい」
そう、彼女らを制した。
『グオオオオ!』
重圧から解放されたマモンが怒号と共に立ち上がる。次いで、また光を放つ。何度も、何度も。次第に、部屋は舞い上がる煙で包まれていき。
『……黄金の理想卿』
マモンが唱えると、周囲に金製の剣が。槍が、斧が、杖が、弓が。鎧が、盾が。銃が、砲台が。あまねく空に出現して。
『グオオオオ!』
雄叫びに合わせて、踊り狂った。
その一撃、一撃は強靭な石造りの壁を、床をことごとく抉り。振り払う度に、立っていられないほどの衝撃波が生まれる。
『グオオオオ!』
だが、マモンの攻撃は終わらない。何もない場所から、まるで湯水のように剣が、槍が現れる。
また、その場に響き渡る金属同士がひしゃげ、重なり合う音。
『グオオオオ!』
更に、金は生まれ続ける。
歪すぎて武器かどうかさえ分からない物体。奇妙な形をしたオブジェ、巨大な真球。それだけにとどまらない。
金でできた騎士、民衆、貴族、王。あるいは獣、鳥、魚、怪物達がまるで自ら意志を持つかのように土煙の中へ突進していく。
それはまさに理想卿。たった一つの目的のために、生物、無生物を問わず、ありとあらゆる存在が自己を守ることすら忘れて戦いに馳せ参じる。至高の衝動、黄金の理想卿。
そしてマモンは両手を天に掲げた。
『グオオオオ!』
すると虹色の光を伴って巨大な物体が誕生する。その大きさたるや、マモンの体の比ではなく。屋敷の屋根を突き破り、雲を貫かんと聳え立っていて。規模が大きすぎて全体像は分からないが、どうやらそれは槌であるようだった。
『……我ハ欲ス。アリトアラユルモノヲ』
槌がその場に完全に顕現する。
それと同時にマモンは自身の翼を羽ばたかせ、天井に空いた穴から屋敷の外へ飛び出した。
すると浅黒い魔界を金色の光が照らす。
眼前には少年達のいる屋敷の全影。
『望ム我ノ、望ムガママニ』
マモンは体をしならせるようにして槌を最大限まで振りかぶった。
そして、これ以上ないほど力をため込み、弾けるように。
『グオオオオ!』
振り下ろす。
『バキャバキャガリャッ!』
次いで、悲鳴のような声を上げる屋敷。
屋根が、壁が。全てのものがマモンの槌によって押しつぶされていった。
『ガリャ、ガラガラガラッ!』
その勢いは止まらない。
屋敷は抵抗もできず、破壊されて。あとには瓦礫と土埃だけが。
『ゲハッ、ゲハハハハ!』
マモンはそれを見て笑う。勝ち誇ったように、全てを終えたように。
だが。
『……ガァ?』
体が全く動かなくなっていることにマモンは気がつく。それはあたかも、見えない糸で空間に縫いつけられたかのような。頭から指先に至るまで、どれだけ力を込めても微動だにできない。
『ゴオオオッ!!!』
土埃の中から、強大な炎が生まれる。うねるような、唸るような。地の底にひしめく溶岩のように、どろどろと巡る熱。
すると、一瞬にして黄金の槌が脆く蒸発した。次いで、靄のような煙が晴れ、そこには無傷の少年とメイド達の姿が。
『ガ……ガガッ!』
いつの間にか、宙に浮くマモンの背後に大規模な魔法陣が描かれている。それはマモンの体をしっかりと空に固定し、縛りつけた。
『グガァッ! グガァッ!』
唯一自由な口で、マモンが叫ぶ。
だが、何も起こらない。そこにはより強い存在に捕えられてしまった、脆弱な一羽の鳥だけが。
「『我は全てのものに平等だ』」
声がした。仄暗い地の底から響くような、それでいて幼い子どものような声。
「『差別せず、区別せず、我の憤怒はそこにある一切の存在に降り注ぐ。』」
それは全てを掌握するかの如き圧力で、その場を蹂躙した。
「『偉大なる神の祝福のように』」
そして、身動きの取れないマモンへ向けて空間を蒸発させるような狂おしい熱が放たれる。
『キュゴオオオオ!!!』
マモンに避けることはできない。その膨大な熱量を、無防備なその身で全て味わう。
『ガグェエエエ! ゴゲェエエ!!!』
生きものが出せるとは思えない絶叫。
金でできたマモンの体が、軋み、崩壊し始める。
『ギャグァエエエ! ギエエエ!!!』
まるで地獄だった。
炎が、皮膚を、肉を、体を、全身を焼く。熱は一つの場所に留まらない。あたかも、狡猾な侵略者のように。それはどんな壁をもすり抜け、伝い、組織を破壊しながら進む。熱が通った場所は、その構造を根源的に壊滅させられ。ずぐずぐと崩れれ落ちるだけ。もはや、どんなに優れた処置を施そうとも、元の形には戻らない。
『グェ……ガッ、ゲペェ……』
炎はマモンの体を好き勝手に損壊してから消えた。
蒸気を上げるそこには、金色とは、似ても似つかない色に焼けただれたマモンの姿が。
「圧倒的すぎる……」
「ほ、ほんまやな」
「さすが陛下!」
「中々やるのお」
檻の中でメイド達は目を丸くした。中には、畏怖さえ感じている者もいて。
彼女らの視線は炎と化した少年に集中する。
しかし、そのとき。
『貴様……ガ』
声帯を潰された鳥のような聞き取りづらい声が響いた。
「『……』」
空を見上げる少年。
すると、マモンは息を切らせながら。だが、欲望を誘う深みを備えた声で。
『貴様ガ……望ムモノは……何ダ?』
そう訊ねる。
マモンの右首が、宝石のような眼を怪しく光らせていた。
「『我の望むもの?』」
少年は訊き返す。
マモンはそれを待っていたかのように、掠れた声を躍らせて。
『我ハ……与エル。アリト……アラユルモノヲ。望ム……者ノ……望ムガ、ママニ』
その瞬間。
「魔王様……!」
それまでずっと落ち着き払っていたミアが叫んだ。
少年が振り返ると、彼女は誰にも分からないほどほんの少し、眉を寄せているのが見える。
だから、彼は。
「大丈夫だよ」
優しく言った。柔らかい少年の声だった。
そして。
「『黄金の君主、マモンよ。我の望むものを貴様に教えよう』」
マモンへ向き直る。
『ゲハッ……ゲハハ』
枯れた喉で、笑うマモン。その表情は相変わらず無機質だったが、どこか飢えているような。自身の欲に喰らわれているような。
そんなマモンに彼は。
「『貴様の死だ』」
そう告げる。
『……グエ?』
言葉の意味が理解できなかったのか、マモンは語尾を上げたような声で鳴く。
少年はそれを意に介せず、左手を宙にかざした。
すると、目の前に光の点が舞い、新たな魔法陣が出現する。
「『我は何も欲しない』」
生身の右腕を腰の辺りに引き絞る。
「『我は何も求めない』」
左足を前に踏み込み、体を開く。
「『ただ、我は貴様という存在を打倒する。我の抱く憤怒をもって』」
そして、捻転する体、うしろ脚で生んだ勢いをそのままに。少年は魔法陣の中心目がけて力強く右拳を突き出した。
『ゴォオオオン!!!』
次いで、鐘を叩くような音が響き渡る。
震える魔法陣、その揺れが最高潮に達したとき。
『ゴグガァアアアアアア!!!』
嵐のような音と共に空間が歪み。膨大でかつ強靭、多大でかつ頑強な炎が。いや、炎という言葉すら生ぬるい。純粋な熱量の塊が撃ち出される。
「『統べる者の暴虐』」
熱は龍の形をしていた。龍はその巨大な顎を開き、眼前の敵を肉の一片まで破壊し尽くす。
『ゲガアアアッ!!!』
そしてマモンこの世界から消失した。体を覆う金も、翼も、対なる頭も全てを無に帰して。そこには何も残らない。ただ、役目を終えた空間が広がるだけ。
「『……』」
全てが終わった。少年はそう感じて、目を閉じる。
しかし。
「『我は全てのものに平等だ』」
まだ、終わりではなかった。
――え? ど、どういうこと?
少年は戸惑う。体が言うことを聞かない。思考はしっかりしているのに、腕が。どういう訳か右腕が上がって。
「『差別せず、区別せず、我の憤怒はそこにある一切の存在に降り注ぐ』」
それはミアに向けられていた。
――な、何で!? ダメだよ! 止めて!
叫ぶ少年。しかし、声は頃の中で響くだけで、外に伝わらない。
自分の意志が、まるでどこかで切断されたように体に届かない。
――に、逃げて! ミア!
残酷にも、今何が起きようとしているのかは瞬時に理解できた。
だから必死で止めようとする。けれど、少年の想いは空を切る。
彼は笑っていた。いや、体が。舞い上がる炎のが。残忍に、傲慢に頬を引き吊らせていて。
――止め、止めてえええ!!!
だが、それは宣告される。
「『偉大なる神の祝福のように』」
熱が。下級悪魔を葬り去ったときとは比にならないほどの魔力が掌に収束した。
「メイド長!」
「に、逃げるんや……!」
「ダメです! 逃げて!」
「……」
メイド達が口々に叫ぶ。
しかし、ミアは。
「魔王様がお望みならば」
そう言って目を閉じた。
もはや右腕には、相手を死に至らしめるには十分過ぎるほどの力が巡っていて。
――ダメえええ!!!
そして。
『……プシュン』
熱は放たれる前に砕け、煙になった。
「『……む?』」
少年は。いや、正確には少年の体の形を模す炎が疑問の声を上げる。
――え?
その事態には少年も呆然として、何が起きたのか全く理解できず。
すると。
「魔力切れのようです、魔王様」
ミアが上品にお辞儀をしながら告げた。
「『フハハハ、そうか残念だ。まぁ、中々に楽しい愉悦であった』」
そうして炎は笑う。次いで、空気に紛れるように崩れ始め。
――あれ……?
同時に少年の思考もどんどんと溶けていく。
――頭……が。
視界がぼやけ、光が失われて。
――あ……う……。
そして意識を失う直前、少年の視界にこちらへ駆け寄るミアの姿が映った。




