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Ⅱ.少年が望んだ世界

 薄暗く、肌寒い空気が流れる午後。


「気を付け、礼」


 教室に授業の始まりを告げる挨拶が響いた。

 空にはどよんとした雲が広がっていて。

 地面には灰色の絵具で描いたような影が落ちている。


「お願いします」


 酷く曖昧な日だった。

 頭は冴えているのに、心がどこか重くて。 

 その場が沈んでいるような。自己が埋まっているような。

 体は自由に動かせるのに、ほんのわずかに気だるさが伴う。

 まるで、目に見えない透明な糸がまとわりつくように。

 意識できないほどかすかに。動きづらい。


「……は……をします」


 黒板に教師が、その時間のめあてを貼った。

 事前に用意されていたものだ。画用紙にマジックで文字が書かれ、裏には磁石がついている。


「……で……の」


 教師は、誰でも理解できるような簡単な言葉を選んで使っているようだった。

 声もはっきりと聞き取りやすく、言葉同士の合間には適度な余裕があって。


「……を……やりながら」


 だが、少年の耳には、それらが不思議と淡く聞こえてくる。


「……をして……で」


 教師に問題はなかった。もちろん、少年にも。

 けれど、どういう訳か耳に言葉が残らない。


「まず……して、それから……」


 聞こえないのではなく。聞こえているが、その印象が薄い。

 何か、それに集中していられないような、ぼやけた感覚。睡眠不足の頭を合意運に働かせようとしているときの。


「次に……できた人は……」


 まるで、少年と教師との間に一枚のガラスが横切っているような心象。そこにいると何もかもが、かすんでしまって。


「最後に……」


 しかし、周りのクラスメイトは静かにそれを聞いている。およそ、そこに戸惑いは見い出せない。

 教師の動作の一つ一つを、視線が追っている。教師の言葉に時折頷いている。皆、一様に。


「……がある人?」

「はい!」


 問いかけに、数人が手を挙げた。大きな声で、真っ直ぐ手を伸ばしている。


「じゃあ、……!」


 教師はそれを順に当てていった。

 そこには何か基準のようなものがあるのかもしれないが、少年には分からない。


「……とき、……はどうするんですか?」


 クラスメイトは訊かなくても分かるような質問をする。普通なら暗黙の了解という仕組みで伝わるような。だから。


「……は……ください」


 やれやれと頭を振りながら教師が笑う。

 すると、他のクラスメイトも笑った。質問をした彼も、また。


「他に……人?」


 手が挙がる。教師が当てる。それが数回繰り返される。


「では……ください」


 そして、質問が落ち着くと、教師は開始を宣言した。

 周りはさっそく鉛筆を握り、机の上の紙に黙々と何かを書き始める。


「……」


 だが、少年は何をしていいのか分からず、ただ他の人間と同じように鉛筆を取り出して、机に向かった。


「……」


 目の前には白い紙。何も書かれていない純粋な。


「えっと」


 戸惑いながら、少年はとりあえず自分の名前を書く。


「……あれ?」


 しかし、その動作は途中で壊れた機械のように止まって。


「僕の名前って、何だっけ?」


 頭に靄がかかったようだった。どういう訳か、それが全く思い出せない。浮かばない。あたかも、古い映画フィルムのように、全体像がぼやけてしまってる。


「……」


 少年は困り果てた。

 何もできることが、することがない。

 教師に質問しようにも、彼は自分の机で何か急がしそうに作業をしている。

 周りに訊ねようにも、他のクラスメイトは夢中になって鉛筆を動かしていて。


「……」


 それを邪魔するのはためらわれた。


「……」


 だから。ぼんやりと、ただぼんやりと少年は空を見つめる。

 何もない場所、何も生まれない場所。

 まるで、使い古したビデオテープのような。何度も何度も上書きする内に映像は精度を失い、形さえおぼつかない世界へと落ちていく。

 頭の隅に残った古い記憶。それは思い返すには時間が経ち過ぎていて。躍動感も、感動も。出会いも、経験も、何もかも全てが。


「……」


 色あせた日々。いつの間にか、彼はそこにいる。いつからか、それが当たり前で。いや、初めからそうであったかもしれない。そんな風に彼は感じる。

 どういう訳か。そうなっていて。

 どういう訳か。それが苦痛ではなくて。


「……ふぅ」


 ただし、楽しくもない。

 だから、少年は握っていた鉛筆を机の上に静かに置いた。

 

「……」


 外は相変わらず暗い。

 雲が、何かを阻むように層を成している。

 窪んだような景色。

 少年は随分と太陽を目にしていない気がした。


「……」


 心が渇く。いや、色が。色が消える。

 時間が経つにつれ、どんどん透過していく。そこには最初から何もなかったと言わんばかりに。

 だが、それも当たり前で。むしろ、それこそ望んでいることで。

 自分が世界の一部になる感覚。取るに足らない部品になる感覚。個を失い、何か大きな存在の構成物になるような。無機質なものに変わっていくような。

 少年は手放そうとする。自分の意志を。少年は忘れようとする。自身の情操を。

 ただ、ぐにゃりと淀むような流れを受けいれて。どこまでも、どこまでも沈んでいく。自己という形を溶かしながら。

 そのときだった。


「……ん?」


 少年は思わず声を上げる。


「あれは……」


 まるで何年も声を出していなくて、今久しぶりに喉を震わせたような。

 少年の視線は教室の窓ガラスを超え、校庭の中央に注がれる。


「……」


 そこには一人のどこか物憂げな少年が立っていた。何もせず、ただぽつんと一人で。

 服装は取り立てて変わった所のない私服。

 体側服ではないから、体育の時間という訳ではなさそうだ。また、周りに人影がないため、他の授業ということも考えにくい。


「……」


 少年は魅入られたかのように、その光景をじっと見つめた。

 物憂げな彼の顔はうつむいていてよく分からない。

 だが、根拠なく、彼もまたこちらを見ているような気がして。


「……」


 目が離せなくなる。

 いったいあの物憂げな彼は何をしているのだろうか。そもそも何者なのだろうか。少年の頭が回転を始める。

 先ほどまでは、まるで薄い膜が張ったように濁っていたのに。何か強い引力のようなもので、体を強引に引き上げられるような。

 少年は食い入るように物憂げな彼を見続けた。

 すると、彼は顔をゆっくりと、動いているのが分からないほどじりじりと持ち上げて。

 それを少年は。


「おい!」


 声が聞こえた。押しの強そうな声。


「え?」


 少年は驚いて呼びかけられた方へ首を回す。


「大丈夫かよ? もう、授業終わってるぞ?」


 大柄な彼はそう告げた。

 ふと壁にかかった時計を見ると、針は思った以上に進んでいて。

 気付かない内に、周りは帰りの支度を始めていた。


「ご、ごめん。大丈夫」


 少年は動揺しながら謝る。

 何も書くことができなかった白紙も、机の上から消えていて。


「いーけどよー」


 大柄な彼は口をすぼめながらそう言った。


「あ、そうだ! お前、これから暇?」


 そして、続けてそうも言う。

 きらきらと輝く目。いつものように、何か驚くべき提案をしてくるに違いない。

 少年は胸をわずかにざわつかせながら訊き返した。


「暇だよ。どうしたの?」

「森の奥に池があるの知ってるだろ? 隣のクラスの奴に聞いたんだけど、あそこででっかい魚を見たんだって! それも俺達の体よりももっと大きいような。それって絶対主だよな? 池の主!」


 興奮しながら大柄な彼が発する。


「それを見に行くの?」

「おうよ! あ、お前も来るよな?」


 呼びかけられた臆病そうな彼はびくりと体を震わせながら。


「えぇ……? そ、そんなに大きな魚だったら僕ら食べられちゃったりしないかなぁ……」


 不安そうな顔をこちらに向けてきた。


「いくら池の主でも、所詮は魚だぜ? 水に落ちなきゃ、平気だよ」


 大柄な彼は豪快にそう解説する。

 けれど、臆病そうな彼はそれでも渋り。

 二人はしばらく押し問答を続けていた。


「……」


 そんな彼らを尻目に、少年はふとまた校庭に視線を落とす。

 外は埃を被ったように薄暗く、無情緒で。

 あの物憂げな彼は、いつの間にか姿を消していた。

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