Ⅰ.蠅王の目
暖かい春の訪れを知らせる風。まだ、誰しもが冬の余韻を忘れられぬ中、その僅かな変化を最初に感じとったのは道端に生える植物達だ。
青々と真っ直ぐ伸びた茎の先。そのふっくらとしたつぼみの中では、もう開花の準備が始まっている。次いで、石の影に隠れていた虫達がむくりと体を起き上がらせた。そして、眠たげに眼をこすりながら、こり固まった腕の節々をほぐしていく。周りには既に羽を広げ、飛び立っている仲間もいて。
木々に留まった鳥達が、じっとそちらを見つめている。そしてたまに、駆けるように空を泳いでは。口に獲物をくえて、巣に戻っていった。
ふと、地面に目を向けると、そこには忙しそうにひしめきあう人間の姿がある。彼らはときに笑い、ときにうつむき、ときに話し、ときに黙りながらアスファルトの上を歩いた。それは一見ばらばらで、全く違う動きをしているが。身にまとう衣服の質が少しずつ、波紋のように広がりながら変わってきていることが分かる。彼らもまた他の生きものと同じように生きているのだ。同じように季節が巡るのを感じ始めているのだ。
そんな陽気な春の午後。
「あははは」
賑やかな小学生の声がする。
「タッチ! 次はお前が鬼な!」
「えー!」
「早く、10秒数えてー!」
彼らはどうやら互いを追いかけて遊んでいるらしい。鬼を終えた者は走り出し、鬼はそのあとを追う。そして、ついには捕まえて、また鬼の役割が移り変わる。そんなことの繰り返し。
「いくよー! いーち、にーい……」
鬼が立ち止まって数を数える。その間に他の少年達はできる限り、散らばって。
「さーん、しーい……」
慣れ親しんだ公園が闘いの場と化していく。
「ごーお、ろーく……」
少年はうずうずと足を震わせた。
「しーち、はーち……」
そして、そっと体に力を込める。狩りへと向かう獣のように身構える。
「きゅーう……」
口の中が渇いていた。心臓が動悸し、汗が頬を伝う。
少年はスタート前に、静かに目を閉じた。体全体でその合図を聞き取るために。
「じゅう!」
言い終わると同時に瞼を開けた。
既に最初の獲物は決まっていて。少年は火薬で弾丸を飛ばすように、一気に足を踏み出していく。
そのときだった。
「お、おい。あれ、何だ?」
動揺するような声が耳に届く。
「UFOだ! すげー!」
次いで、他の友達の声も追いついた。
「え? どうしたの?」
少年は困惑して立ち止まる。立ち止まって、彼らの様子を観察する。すると、彼らの熱を帯びた視線が、高く広がる空へと伸びているのが分かって。
「UFO?」
ばっと、身を翻した。
「……」
しかし、そこには何もない。ただ、青い空があるだけで。
呆然とする少年に、興奮気味に友達が駆け寄ってくる。
「あれだよ、あれ! あの雲の所!」
彼は人差し指を伸ばしていた。
その先を丁寧に辿ると、確かにふわふわと浮かぶ小さな黒い点が見えてくる。
「何あれ? 飛行機かな?」
「馬鹿! 飛行機だったら真っ直ぐ飛ぶだろ! でも、あれは変な動きしてるじゃんか!」
「UFOだよ、UFO! 僕達、すっごい発見しちゃったんだよ!」
急激に加熱していく空気。まるでお祭りのように騒ぐ友達。
「……」
だが、少年の目には彼らと違う形でそれが映った。
「……違う」
黒い点、けれど揺れている。いや、揺らいでいる。煙のように、泡のように。その身を捻転させながら、ぐにゃりと形を変える点。それは機械でも、生物でもない。何か、もっと別の何か。
どうして、そう思うかは分からない。どうして、そう感じるかは分からない。しかし、体が酷く熱を持ち始める。あの点を見ていると、どういう訳か燃えるような熱が体の奥底から湧きあがってきた。
「……あれは、UFOなんかじゃない」
そして確信に近い想いが心を叩く。突如現れた未知の存在に対する、未曾有の危険信号。本能が、自身の胸が少年に告げる。耳元で囁く。
「……あれは」
あれはよくないものだ、と。
「すげーよな! あ、ちょっと動いた!」
「本当だ! 動いた!」
しかし、その声は高まる熱気に掻き消され、彼らの耳まで届かない。
『逃ゲロ』
少年は誰かの声を聞いた気がした。洞穴の奥から響くような声を。
そして。
「あ!」
「え……?」
その言葉を裏打ちするかのように景色が変わる。黒点を中心として空が縦に割れたのだ。比喩ではなく、ガラスにひびが入ったときのようにぴしり、と。
「……っ!」
反射的に少年は二人の手を掴んだ。掴んで、思い切り走り始める。
「え! ちょ、おい!」
「な、何!?」
急に腕を引かれた二人は驚いて抗議の声を上げた。
「いいから、来て!」
しかし、少年は止まらない。強引に彼らをそこから連れ出そうとする。
「おい! どうしたんだよ!」
「ちょっと、待ってよ!」
彼らは足を踏ん張って抵抗した。
そうされれると、元々小柄な少年では二人をびくとも動かすことができない。
「ここにいたらダメなんだ! どうしてか分からないけど、そんな気がするんだ!」
少年は叫んだ。自分でもどうしてここまで必死になるのかは分からなかった。だが、どうしてもそうなのだと何かが告げる。
そして。
「……来る」
空に入ったひびがゆっくりと開いた。
「え?」
「は……?」
そこには腐り落ちた林檎のように赤黒い瞳孔があった。死人のように血走った結膜があった。それは。
「目……?」
眼だった。空に開いた巨大な眼。
「なんだよ……あれ」
そして眼は、それ自体に意志があるかのようにぎょろぎょろとひびの中を動き回ると、一度優雅な動作で瞬きをした。
すると、今まで明るい青色だった周りの空がぐにゃぐにゃとねじ曲がり、酸化した血液のように汚らしい色へと変貌していく。
「……逃げよう」
少年は言った。
「…………」
「……」
不安そうな顔を向ける二人。走り去る少年のあとを、迷い子のように追っていく。