アインザッツ
緊張していた。でも、それは過剰なものではなく、程よく心地よく感じられた。幾度となく経験を積みそう感じられるようになったのだ。
去年の国際的に有名なコンクールで優勝することができ、23歳になった今年、世界の注目すべきソリストたち、と名を打ったヨーロッパツアーに参加することができたのだ。
このツアーに参加しているのは主に20歳代の時代を担う若者たちで構成されていて、名だたる同時代のコンクールで優勝を勝ち取った人たちである。
その中に、山崎拓斗、僕の名も連なっている。他の参加者たちは、家柄もよく恵まれた環境で育ってきた新鋭たちである、そんな中にこの僕が混ざっているのは全くの毛色違いではあるが、この運を何とか掴み取り、この競争の激しい音楽界に自分の名を刻みこむことを心から願っていた。
今まで苦労を掛けた両親のためにも、自分のこれからの人生のためにも、ここでの失敗など考えることができない。
しかしながら、これまで幾度となく出場してきたコンクールとは桁外れのこの劇場で、いつも通り、いやそれ以上の演奏をしなければならない。プレッシャーと緊張に心も体も縛り付けられているようである。
プログラムは、進み僕は舞台袖で前者の演奏するバイオリンの音色を聴いていた。しかし、そこから覗き見る劇場の雰囲気に完全に飲まれてその音色は僕の脳までは響いてこなかった。
曲が終焉に近づくと、自分の鼓動が耳鳴りのように響き、心臓の鼓動で体が揺れていた。
こんな状態で演奏することなど、無理だ。どうしよう・・・。と途方に暮れ始めていたその時、バイオリンの音色を書き消すドォゥーン、爆音が鳴り響きバタバタと足音を立てて武装した男たちが劇場の中へとなだれ込んできた。
バイオリンの音色は消え、悲鳴と怒号と銃声が劇場内に響いた。
おもむろに立ち上がり、悲鳴を上げながら出口へと走り出した夫人、紳士など容赦なくその場で撃ち殺された。阿鼻叫喚、絶叫、悲哀、重苦しく切ない音色が響いている。
僕は、ただ立ちすくみその音色を聴いていた。
いきなり肘のあたりを掴まれ、力づくに引っ張られた。恐怖に身が縮み、倒れこむ。大きな手で口をふさがれ、厳めしい顔が僕を覗き込む。
その顔には見覚えがある、警備員の男で、緊張する僕に見かねて気楽に行けと声をかけてくれたあの男である。
「静かに・・・わかるか?」
僕は何とか聞き取れた。大きく首を縦に振る。
彼は、僕を舞台裏の物陰につれてゆき、耳元でゆっくりとはっきりした発音で言った。
「ここでじっとしているんだ、わかったな。」
僕は、彼の真っ直ぐな瞳を見つめて頷いた。そして、ゆっくりと移動する彼の背中に言った。
「気を付けて」
彼は、背中越しに右手を振って確かな足取りで消えてしまった。
僕は、不安と恐怖に身を縮めていた。両足をしっかりと両手で抱きしめて、眼を瞑り両ひざに顔を埋めた。
すると、徐々に色んな音が耳に響く。泣き叫ぶ声、それを叱責するような男たちの怒号、すすり泣き、ざわめき、男たちの足音、布ずれの音、だんだんと小さな音まで聞こえ始め、ざわめきの声まではっきりと聞き分けられるようになる。
あの警備員の男は・・・、耳を澄ます。いた。彼の足音が聞こえる。ゆっくりと、慎重にしっかりとした足取りであるが、恐怖で歩幅がバラバラでぎこちない。
まだ、さほど遠くまで行ってはいないようだ。そうだと分かると、少しばかり安心した。
ふと、視線を上げる。舞台裏の薄暗がりで目を瞑っていたせいか真っ暗がりにいるようで目が慣れるまで少し時間がかかった。
しかし、そんなことよりも警備員の男に近づいてくる軍靴のような足音。
気づくと僕は走り出していた。あの警備員のいるだろうと思える場所へ。
急に明るい場所に出て眩しさに目がくらんだがそんなの関係ない。壁にぶつかりながら全力で走った。
あの角を曲がれば、そこにいるはずだ。
角を曲がると、思った通り彼の背中が見えた。
しかし、その背中越しに2人の軍服姿の男が見えた。
パンパーン、銃声が2発、警備員の男が僕のほうに向かって弾けるように飛んできた。
僕は動けなかった。ただ立ち尽くしていた。そして、そんな僕の足元に彼が握っていたワルサーPPKか滑ってきて、僕の右足に当たって止まった。
目の前の軍服姿の2人は、僕のほうに銃口を向けて構えている。
思わず僕は足元のワルサーを拾って、今来たばかりの角に姿を隠す。
銃声が鳴り響き、コンクリート片が飛び散る。
思わず頭を抱えてしゃがみ込む。
「逃げるんだー」
警備員の声が響き、何度も蹴りつける音が響き、ゴンと鈍い音がする。
ゆっくりと覗き込むと、軍服姿の男たちの足元に血だらけで倒れこんだ警備員が見えた。
「まだ、生きてる。」
彼は激しく息をしていた。大きな胸が上下していた。助けないと・・・。
瞳を閉じた。彼らの足音、衣擦れの音、身につけた金具がこすれる音、瞳の奥の暗闇に鮮明に情景が浮かび上がる。
曲がり角から銃を握った右手だけを出して、正確にそして確実に2回引き金を引いた。
銃声が響く。右手には今まで感じたことのない衝撃が走った。
瞳の奥のスクリーンの中の軍服姿の2人は、ゆっくりとスローモーションのように後ろに倒れた。
それと同時に、ドサッ、バタッ、と人が倒れる音がした。
こわごわと曲がり角から顔だけのぞかせると、2人の軍服姿の男が眉間を打ち抜かれて倒れている。
膝に力が入らない僕は、崩れ落ちながらも這うようにして警備員の元に駆け寄った。
彼は、右肩と左わき腹を打ち抜かれひどく顔面を蹴られているようだが、命に別状はないようである。
荒い息をしている彼を抱きかかえ、手早く脇腹をハンカチで抑え彼のベルトできつく締め、カマーバンドで右肩を縛った。
町医者である父の姿を見ていたせいか、意外に冷静に対処できてしまった。
「ありがとう。君は私の命の恩人だな。 ウッ・・ 私はブランドン、君は?」
「うっ・・ひっひっ、はぁー・・・タクト・・」
「そうか、タクト、そろそろ泣き止めよ。私なら大丈夫だ。君のおかげでね」
そう言われて、初めて自分がどうしようもないくらい涙を流しているのに気が付いた。
「さぁ、ここにいては危険だ、逃げよう。」
「大丈夫かい?」
拓斗が肩を貸して何とかブランドンは立ち上がった。
「傷口が痛むが、大したことはない、大丈夫だ。」
二人はより添いながら歩き出す。
「あっ、これ。」
と、ワルサーをブランドンに差し出す。すると、彼は首を横に振り
「私は見ての通りこのざまだ、きっと君が持っていたほうが役に立つ。」
僕は、彼の暖かな瞳を見て、小さく頷いた。
この後、どうしましょう・・・
ご意見、ご希望、誹謗中傷なんでもいいからよろしくお願いします。