第一小節 Coincidence 上
さて、暑いとは何だろうか。辞書的に説明すれば、苦に思うほど気温が高い事を言う。今は夏なのだから各所でその単語を聞くであろうし、実際俺も頻繁に口にしているのだが、しかし今の俺はそんな言葉とは無縁なのであった。何故なら、エアコンの真下で涼んでいるからである。
「そんなに見せたくないなら1人で見に来いよ……。これかなり恥ずかしいんだからな」
ああ、女の買い物とはどうしてこんなに長いのだろうか。いや確かに良い物が見付からなければ買わない方が良いし、それが必須の物であるなら見つかるまで探した方が良いのはそうである。家事全般を熟してきた身として、その様な事は重々承知しているのだ。……いやはやにしてもやっぱり長い。
ちなみに、俺達が今来ているのは四海諸島最大の商業地区、尾見島にある、割と大規模な若者向けデパートの"女性用水着売り場"である。
「んー、じゃあ仕方ないわね。見せるからもう少し付き合って」
さも渋々と譲歩している様に言うが、俺の本意とはかなり異なる転がり方だ。
「そう言う意味じゃなかったんだけどな」
まあ見たくないと言えば嘘になるのも確かな訳で、俺はスタスタと警戒な音を立てながら雪のいる試着室に向かう。
「こういうのはどう?」
しかし俺が目指した場所に着いた須臾に、覚悟する暇すら与えぬよう、突として雪は試着室のカーテンを開けた。
瞬間目に入るのは肌色、白、肌色、そして肌色。彼女が身に纏う白色の水着はほとんど然るべき部分しか隠しておらず、他は完全に曝け出されている。その裸にも近い格好は健全な男子たる俺の目には、何というか強烈な毒であった。
「馬鹿お前突然出て来るなよ、驚くだろう……。にしても流石に過激過ぎるんじゃないか、着てる意味があるのか分からないぞ、それ」
この少女の名は不知火雪。少し説明を添えるなら、俺の相部屋相手である。
「馬鹿とは失礼しちゃうわね。って、あんたどこ見てるのよ……」
「いや、胸とかくびれとか足とか?」
俺がそう言うと、短く切られた赤髪を持つ彼女は、凜として俺の目前に立ちそこそこ大きな声で言う。……とんでもない事を。
「きゃー、セクハラよー。あたしの身体を舐め回す様に見てくるの」
「お前は俺を犯罪者に仕立て上げるつもりか!?」
全く意味が分からなかった。互いに冗談なのは承知の上だが、もしも本当に警備員や店員が来たらどうするつもりなのか。大事には至らないだろうけど、ちょっとした騒ぎになるに違いない。
「安心しなさい……。骨は拾ってあげるわ」
「何故殺された!?」
「気分よ気分、気まぐれなんだから。っと、話を戻すのだけれど、これ……、どうかしら? おかしくない? 感想を貰えると嬉しいのだけど」
言って雪は片目を閉じながら見せつける様に右腕を上げ脇を曝し、腰を少し右側に突き出して左手を左太ももの付け根付近に置く。それは所謂セクシーポーズであり、どうした事か、事前練習の有無を疑える程に決まっていた。
と言うか、台詞と行動が一致していない気がするのは俺だけなのだろうか。どこかぎこちなくて少々面白く見える。
「ああ、それな。似合ってるかと言われればそうなんだが、さっきも言った通りちょっと露出度高すぎると思うぞ。その格好であんまり外を彷徨いて欲しくないな」
「直視できない? ……他の男には見せたくない?」
思わず俺は目を逸らして適当な事を言い、少女は追撃するかの様に更に姿勢を変える。今度のポーズは腰に両手を当て前屈みになり、こちらを見上げるという物だった。
「まあ……、そんな感じだな。ところでちょっと話が変わるんだが、お前着やせするタイプか?」
それによって強調されるのは胸であり、布と肌との間の狭い隙間が目を引く。別に色欲魔でもなければキザ野郎という訳でもないが、俺はいつの間にかそう口走っていた。ついでに少女はウインクしてみせ、率直な感想を述べればやはり可愛い、というのが一番強いだろう。
「すいませーん。誰かいませんかー、セクハ――」
「悪かった!! 俺が悪かったから!! これは本気でやばいッ!!」
声を上げて雪を制止。今後一切興味本位で考え無しの発言は事は控える事にする。ふと気付いたが、周囲から見れば俺達2人はバカップルその物なのではないだろうか。まあ断じてバカップルではないけどな。いや……、カップルでもないんだが。
しかしいつもやり直しが利く訳では無く、後ろからは足音。
「お客様、どうかなさいましたか?」
振り向けばそこには、眼鏡を掛けた女性店員がキョトンとした顔で直立していた。
案の定である。大声を出したのは失敗だったか。だがあの場で強引に雪の口を塞ぐのは好手とは言えなかっただろうし、選択はきっと間違っていないはずである。
強いて言えばその前にあんな事を言ったのが間違いだったかも知れないけれど。
「いえ、特には何も。ちょっと揉めていただけなので」
揉めていた、と言うのには少々語弊があるかも知れない。でもまあ、穏便な解決を望むなら、これが最善手と考え俺はそう言った。
店員は続ける。
「僭越ながら、もしかしてカップルのお客様でしょうか? よろしければお手伝いさせて頂きますが」
「いえ、別にそ――」
「はい、そうなんですよ。どうしてもこれ着ろって彼が言うから着てみたんですけど、やっぱりああ言う目的が……」
ああ……、ああ。一体どうしてこの様な精神的打撃を受けねばならないのか。雪に冷たい目で見られるのはいつもの事だし、もう慣れてしまったが、如何せん見知らぬ人間に引かれるのは辛い物がある。しかし今更取り消す訳にもいかないだろう。結果余計に話が拗れる事は目に見えているのだ。
「いえいえ羨ましいですよ、近頃そんな男性は少ないですからね……。まあ……、そもそも私は男性とお付き合いした事なんて無いんですけど……」
一応フォローを入れてくれたらしい。と言うか後半部分の呟きは客に言う事ではないと思うのだが。
「それで、彼氏さん的には彼女にどの様な格好をお好みですか? …………はあ、私も彼氏欲しいなあ、合コンとか行ってみようかな……。やめとこ、どうせ相手にされないし……」
はっきりと言葉にしよう、俺は今恐怖している。仮にも水着売り場なのだから本物のバカップルも多々来るであろうに。よくクビにならなかったなこの人。
「もっとおちつ……、じゃなくて、自分達で選ぶので大丈夫ですよ。お騒がせしてしまってすみません」
ところで、俺は今店員のいる方向、つまり店の入り口の方に目を向けているのだけども、そこに全身ピンク色の非常に目立つ影があるのが見える。全身とは衣類の事だけを指している訳では無く、髪まで桃色。それは段々近付いてきて……。