第十六小節 Break
「やっと帰って来たなあ」
バス、電車、新幹線、船に継ぐ船。飛行機を除くメジャーな乗り物にこれでもかと言う程乗って、神庭学園のある東雲島に帰ってきた頃には既に昼四時を過ぎていた。
ちなみに東雲島のほとんどの土地は神庭学園が所有しており、この島は即ち学園島と言ったところである。森林に山、川に海等々、東雲島には色々揃っている為、訓練にはうってつけだったのだろう。しかし環境保護の名目で服屋の進出すら許さないのはどうかと思うが。
「おうよ。俺は早く自分の布団で寝たいぜ」
「昨日散々寝てたのにまだ寝るのか……」
確かに、俺も眠気はある。少しばかり治してはもらったが傷は残っているし、疲労も中々どうして凄まじい物だ。本音を言えばそこの木陰で寝てしまいたい程までに今の俺は眠かった。
「寝る子は育つ、ってな」
かく言う響はしかし全く眠そうでは無く、どちらかと言えば普段よりキリリとした表情である。飽くまで普段と比べて、だが。
「お前このくらいが丁度良いとか言ってなかったっけ」
「ああ、そういや確かに言ってたわ。これ以上背が伸びても鬱陶しいしな」
「……アホね」
何気ないやり取りをしている間にも、そよ風が髪をふわふわと揺らす。見上げれば穏やかな空、人知れず包み込む木漏れ日、傍には躍る森林。安穏なる大自然は、今日も人々に安らぎを分け与えているのだ。
「ああ、そうだ雪――」
今日の晩飯について尋ねようとして、丁度俺が振り向いた時。
「へっ!?」
猛烈な勢いで一陣の"風"が吹き抜けた。
「……今のは……、な――」
「みみみみみみミミみ見たッ!? ねえ見たの!? 今見えた!?」
顔を赤らめているのは雪である。どれほど焦っていたのかは知らないが、彼女は今、脱げてしまいそうな程滅茶苦茶にスカートを引っ張っていた。
「ん、ああ。まあなんだ、良いチョイスだと思うぞ、似合ってる」
俺の発言に呼応し、またしても彼女は頬を紅潮させる。いくら雪と言えど無理もないだろう。少々非道かも知れないが、その結果得られるこの様な反応は見ていて楽しい。
「あ、え、にあ……、ああああああああああ!!」
「…………あんまり遠くまで行くなよ」
そう呟いて俺は、何故か森に全力で駆け込んで行く少女を見送った。
「これはあれだな、俗に言う鬼畜って奴だ。ところでお前ちょっとキャラ変わったんじゃねえか?」
言いながら、右手に大きめの袋を下げている響はそれ持ち上げて背に回し、手を肩に掛けて愉快そうにする。
なるほど、言われてみれば確かにそうかも知れない。過去の自分の事、特に言動等はあまりよく覚えていない故、どのように変わったのかは良くは分からないけれども。
「どうだろうな。確かに何か吹っ切れた様な気分ではあるが」
まあ正直、こちらに来てからはいつもの自分を見失っていたと思うのも事実である。個人の価値観なんて物は真っ先に否定されたし、ここでは十数年かけて身に着けた常識すら通じなかったのだ。例えどれ程順応性が高い人間だったとしても困惑は必至、仕方の無い事であろう。まあ、雪は良い意味で一本調子の様だが。
――いや、俺が自分という物を見失ったのはあの時かも知れない。もっとずっと大きな転機が、ここに来る以前にあった。
「ところで、男児というのはやはり先程の様な変わり事を好むのか?」
少し回想にふけっていた俺を見てか、唐突に、柄にも無いことをしれっとした様子で流花は言う。
「ああ、悪い気はしないな。……ちなみに言っておくんだが、俺は見ていないぞ。あいつが恥ずかしがって逃げ出す様な物は」
ここで流花は何かを言わんとする。しかしその寸前に割合大きな声で話に入ってくる響に遮られ、口を開けぬ内に何か得心したらしく再び黙った。
「まさかそこまで鬼畜だとは思わなかったよ!!」
流花がいったいどのような事を口にしようとしていたかは察しが付いたが、ならばしかしどうしたのだろうか。まあ気にせずとも重大な問題は無いであろう。
なので俺はそのまま響に返す。
「いやこれは日頃の恨みというかだな……。それにしても帰ってくるのが遅――」
して、今まで会話の内容とは全くこれっぽっちも関係が無いのだが、言ってもここは森なのである。つまり人道から少し外れるだけで野生動物がわんさかいる訳で。それは猫だったり猪だったり、まあ多種多様だが、1つだけ断言できるのは並べて危険であると言う事のみ。
「――食べられるううううう!!」
「クッマァァァアアアアア!!」
目に涙を浮かべながら走って戻ってきた雪は、案の定森の熊さんを引き連れていた。
「お、おい、裕城。俺は今猛烈に混乱しているんだが……。説明してくれ、あれは何だ? まるで熊が喋ってるじゃないかぁぁぁああ!?」
そう、確かに熊が喋っている。しかしそんな事は日常茶飯事、この島の熊のいくらかは、なんと人語を解すのだ。俺よりもはるかに長くここに居る響がどうして知らないのかは謎であるが、事実は事実なのである。
「その通りだ、説明の必要なんて無いだろう。とりあえず走れ」
俺は先頭を駆ける流花の後を追う。その次に雪。そして過剰な反応……、いやこれが普通なのであろうか、ともかく響が遅れ、最後尾を疾走していた。
「待つクマァァァアア!!」
「食べないでええええ。美味しくないからぁぁぁあああ」
ちらりと振り返れば、響まで涙を浮かべている。その原因は果然熊なのだが、にも関わらず二足で走行する姿は、傍から見ればパンチの効いた冗談でしか無かった。カメラがあれば是非写真に納めたい場面である。まあこんな事は他人事だから言えるのだろうけども。
そしてこの時、熊の口からは衝撃の一言が発せられる。
「伝言があるクマよおおおおおおおおお」
よく聞いてみれば、覚えのある声色。そう言えばあの顔も幾度となく見た気がする。くまの友人がいるというのは何とも複雑な心境だがこいつは……。
「……何? お前、まさか次郎か?」
小刻みに足踏みをして急停止、雪は俺の横を駆け抜け、慌てふためいていた響は背中に激突して来た。大の男が必死にぶつかって来たのだから、これはやはり痛い。
そしてくまも足を止め、返答。
「そうクマよ? 誰だと思っていたクマか?」
くま次郎といういかにも適当な名前を付けられたくまは、まるで久しぶりに会った友人の如く話す。
「悪い、あまりの恐怖に全く気付かなかった。……そう言えば何であんな所から出てきたんだ?」
けれどもここで忘れてはならないのが、相手がくまだと言う事。確かに俺とこいつは友人関係にあるが、しかし相手はくまなのだ。俺が割合一般的な人間である以上、どうしても違和感を覚えてしまう。本来なら響の言う様にポップでもキュートでもないアニマルがジャパニーズを達者に用いている事にそれを感じるべきなのかも知れないが……。
「ああ、それクマね。それはサプライズな感じで伝言よろしくって言われたからクマよ。どうだったクマ? 楽しめたクマか?」
だがやはり、いくら知能があっても感性までは人間と等しくないらしい。
「いやサプライズ過ぎて怖かったわ!! 熊に追いかけられて楽しげな奴はよっぽどの変態だ!!」
「裕城のテンションが高い!?」
ちなみに、俺に続いて叫んだのは雪である。テンションが高いというのは間違いだが、おかしなテンションである事は明白だろう。先日の激動による、俺の興奮は未だに収まらず、余熱として残っていた。
「そうクマかー……。中々難しいクマね、えんたーていんめんとは、クマ」
「今無理矢理語尾付けただろ」
「そ、そんな事ないクマよ。くまはいつも通り平常運転なのだ」
「語尾すらなくなった!?」
そんな少々愉快なやり取りの後、本題に入るクマ、と表情でくまは述べる。くまなのに表情筋まで精密に動かすとは、そもそも本来のそれと身体の構造が違うのだろうか。
「それじゃあ、伝言を伝えるクマ」
「しゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃかしゃん」
それに対して、待ってましたと言わんばかりにエア太鼓をしながら響が効果音を挟む。
「やたらと長いな……」
「というかそれ太鼓の音じゃないわよね」
全く以てその通りである。こんな仕様もない台詞でいったい何文字消費するつもりだ。
「いい加減そろそろ言うクマ……。言われたまま伝えるクマよ。えー、こほん。明日、じゃない明後日から3日間、訓練合宿と称して一夏の思い出を作りに行く。旅行先はっ――」
「旅行先はっ!?」
恐らく本当に言われたままの事をくまは口にし、雪は目を輝かせて反応する。まあ、今は夏なのだ、聞かずとも答えは分かっているだろう。こう言った確信が事実に変わる瞬間は結構嬉しい物である。嬉々として当然。それが期待していた物ならば尚更だ。
「なんとっ!!」
「なんとっ!?」
「旅行先はっ!!」
「旅行先はっ!?」
……お前らは某金額当てグルメバラエティ番組の司会者か……。
然して、幾らかの間を置き、身体をも使って大げさにくまは告げた。
「和風ビーチリゾートクマっ!! 水着と浴衣を忘れるんじゃないぞ!!」
なんととは言うけれど、やはり思った通りである。あの流行事の好きなリーダーの事だから、この選択肢をとらない訳が無い。というか間に挟まれた語尾のクマはどこから来たのだろうか。それはあのリーダーでも流石に言わないだろうに。
「いえええええええええええええい!!」
「これは女子の水着を拝むチャンス!!」
くまの発言に被せるように、雪が騒ぎ、響が本能的と言うか変態的な発言をする。……響の目付きが多少禍々しく感じられるのは気のせいだろうか。
「ほう……、それは楽しみだな」
そして騒ぐ2人を他所にして、一本槍流花は粛々とそう呟いた――。
とりあえずここで第一楽章終了となります。
まだ続きますので、今後もどうぞよろしくお願いいたします。