第十五小節 Context 六音目
「終わった……、か?」
視界の大半は赤と黒に染まり、正確な状況は把握出来ない。しかしこのまま落ちる訳には行かないだろう、いつも通りに俺は風圧を利用して着地の衝撃を減殺。
その後は静かだった。龍は完全に沈黙し、あるとすれば雨音のみ。視野が段々と回復して来た時分、冷えた頭に耳を通して痛みがもたらされる。
「ちょっ!? 大丈夫っ!? 待ってて、持ち合わせはあんまり無いけど手当てするから」
訂正しよう、やかましい。全然全くこれっぽっちも静かじゃ無い。しかしでも……、やはりこれは嬉しい物だ。
「動かないで!! 今すぐ手当てするからっ!!」
「大丈夫だって。ほとんど返り血だからな。傷は多分深くない……、ってあれは」
視界の中央に、どこからともなくあの男が現れる。彼はそう、小林と名乗る男だ。いつもの部屋着でこんなところに、こんなタイミングで彼は現れたのである。
「ッチ……!!」
駆け寄ろうとするが身体が軋み、叶わない。故の舌打ち。しかし、
――ヒュン。
一本の氷槍が代わりに彼を襲う。今にも融けそうな氷の槍、それが空中で何の前触れも無く砕け散ったかと思えば、途端流花と響が倒れ伏し、新規の気配を感じた龍は覚醒していた。
「ばーれちゃったかー。まあ仕方ないね。流石にちょっと無理があったよ」
そう口惜しげに呟いて、老人は眩いばかりの光に身を投じる。
「久しぶり。元気にしてたかい、とは言えなさそうだ。今治すよ」
そして彼が光中から現れた時には、その外見を見覚えあるあの少年の姿に変えていた。俺達が前にしているのは、ああ、正しく神に違いなかろう。洞窟であったあの怪物は、今再び、俺達の前にのこのこと現れたのである。
そんな彼の双眸は俺達の姿を隅の方に置き、伺い知れぬ瞳の色で、赤に染まりし青き龍を心とする様に据えられていた。
「――やめろ」
そこで龍は、拒絶の意志を言葉に乗せる。
このままでは幕引きは近い、明日まで保つかすら分からない。けれども水龍は神の申し出を断った。何となれば……。
「お前は、お、前、は、我、が、旧、友、な、の、で、あ、ろ、う? ならばそんな事をするな。それに元よりこの命、最早そう長くは無かろうて。これだけ生きていれば己の死期程度目安は付く」
「……そっか。そうだね、それもそうだ。ところで、僕は君に謝らなきゃいけない事があるんだけど。……ごめん、僕は君を騙してた」
重苦しい空気が俺達一般人の口を封じる。神などと名乗るこいつが、誰かに謝罪する等到底考えられぬ行為であるのに、それをこいつは行ったから、だから俺達は口を利けない。
「この姿、覚えてるかな」
「ああ、もちろんだとも。随分懐かしい形だ……。して、それがどうかしたか?」
龍の声は掠れていた。無理もない、既に奴の身体は限界に近いのである。龍の急所など知らないし、どの程度の傷がかの種族を死に至らしめるのかは分からないが、生物である以上あの傷にはそうそう耐えられまい。故に龍は、けれども龍は、静かだった。
小林は続ける。
「うん、だっておかしいでしょ? 人は何年も同じ姿を保てないのに、僕は今確かにあの時のままここにいる。いや、むしろあの時より若返っているんだよ?」
龍が動じぬのは意識すら最早まともでは無いからなのか、知る術はない。恐らく俺の思う常人なれば、昔のままの姿をしている知人を、その人だと思う事は無いであろう。
しかし、この龍は文字通り常人では無いのだ。
「そうだな。だが、敢えて気にする事も無いだろう? 何しろお前は演技が下手だからな」
「え……? それじゃあ君は……、まさか……」
そんな龍を前にして、他の考えを読む事を何の苦も無しに為す神は、確かに動じていた。それは常識に沿って考えれば奇妙な情景。これがほのぼのとした日常のワンフレームであれば、俺は余りのギャップにくすりと笑っていたに違いない。
――そして、龍は告げる。
「うむ。私は騙されて等いないぞ、気に病まずとも良い。……そういう意味では私こそお前を騙していたと言えるのかも知れんな」
「っ、それって……、つまり…………。ふ、あは、あはははははははは!!」
「はははははははははは!!」
少年は無邪気に、老いぼれは愉快そうに、ひた笑った。
「はぁ……、はぁ……。なんだそっか、君にもバレちゃってたんだね。やっぱり下手なのかなあ、僕の演技は……。まあでも、それなら1つ、最期に1つだけ、僕から君に贈りたい物があるんだ。受け取って貰えるかな」
これといって返事は無く、龍はただ瞼を下ろすのみ。けれども、それこそが了解を表す。本来この2人の間には言葉さえ要らぬのであろう、俺はそう感じた。
――スッ。
神が右手を振り上げたかと思えば、言うに難い音が鳴り、同時に光が空へと昇る。それは、例えるなら木漏れ日とでも言うべきか。日溜まりの香りのする柱が、今日は大地から伸びていた。
「ごめん、君達には悪い事をしちゃったね。色々な事が僕の予測とは違っていたみたいだよ」
首だけこちらに向けて、突としておかしな事を神は言う。
「……もうそんな事は良いんだが」
「どうして自分でやらなかったの? あんたの力があれば簡単だったでしょうに」
「ちょ……、それ俺の台詞」
広域化して行く光に触れた瞬間、身体が軽くなるのが分かった。否、正確には痛みが失せた、と言うのが正しいに違いない。さっきまであった猛烈な熱さと疼きは、最早すっかり消え失せている。
「何、簡単な事さ。所詮僕は赤子に過ぎない、って話だよ。そう、ただ怖かっただけなんだ。実際切っ掛けが無いと謝る事さえ出来ない様な奴だしね」
この少年が何を言わんとしているかは、此度も俺にはさっぱり分からなかった。それもそうだろう、人同士でさえ相手の意が汲めぬのに、俺がこの神の考えを解する事等出来るはずが無い。それはきっと道理であり、だから語らいは楽しいのだとも俺は思う。
「どうしようもない野郎だな」
「ああ、全く以てその通りさ。返す言葉が見つからないよ」
彼処でしばしの無言。この間にも、澄める大気は水を揺らし、鳥はさえずり宙を舞い、やがて輝きは空を覆う。然して神は言った。
「ところで、お詫びと言っちゃ難なんだけど、君達も見ていかないかい?」
――その刹那、視界は白く塗り潰されて、
「――あの日の、そしていつもの空をさ」
針は逆さに回り始めた――。