第一小節 Again
――ここは、どこだ? 俺は何故こんな所に寝ている?
目覚めて、一番最初に思った事がそれである。
そこは微塵たりとも見覚えのない森であった。空は蒼く澄んでいて、木々の間を吹き抜けるそよ風が心地良い森。
そんな自然の中で耳に入るのは、生い茂る緑が風に揺られ立てる音と……、その場所には不似合いな爆発音であった。
鼓膜に響くその音に驚愕して、すぐさま俺は上体を起こす。すると、目の前には見知らぬ制服を身に着けた少女が立っていた。身長は160、髪は燃え盛る炎の如き赤色のショート。その後ろ姿は凜としていて、つい格好いいと思った事を良く覚えている。ただ、ある1点を除いて見れば至って普通の学生なのだが……、しかしその両手には二挺の拳銃が握られていたのだ。
あんな常識外の格好をしている人間を、俺は物語の世界でしか見た事が無かった。
これはきっと夢だ。ああ、そうに違いない……。
今思えば何と阿呆な考えだった事か。仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、けれどもやはり愚かな逃避だったであろう。
そして少女は俺に話し掛ける。
「あっ、気がついたのね。良かった」
一点の曇りも無い、にこやかな表情。普通の女の子の顔である。
「あ、ああ……。突然なんだが……、質問してもいいか?」
俺の身に何が起こったのか。この少女は何者なのか。その他諸々、この時の俺は何1つとして把握出来ていなかった。今、己がいるのは、夢であるのか、それとも現であるのか。そんな事すらも、だ。
しかし、今の俺でも分からない事は多々あるし、分かったつもりで本当は何も分かっていない事もあるだろう。
「いいわよ。あたしに答えられるか分からないけど」
「じゃ、じゃあ訊くぞ、これは……、夢なのか?」
――夢なんかじゃないわよ。
きっぱりと、どこか冷めた声で少女はそう答える。
「夢じゃ、ない?」
ああ、それはきっと最初から分かっていただろう。ただ信じたくなかっただけで、ただ何か救いが欲しかっただけで、本当に夢だと思っていた訳ではない。
「そうよ。これは夢じゃないわ。なんなら証明してあげましょうか?」
言うと少女は俺の頬をつまんでぐいっと引っ張る。
不意の事で、俺は思わず「いでで……」と声を上げてしまったが、実際にはそこまでの痛みを感じた記憶は無かった。
「どう? これで分かったかしら? これは夢じゃないわ、現実よ」
何も思いきりつねらなくとも良いではないか。
少し過去の俺は、またしても阿呆な事を思考する。それはやはり逃げ。内容は確か、これはドッキリ企画の撮影か何かだろうか、という様な物だった。
「あなた今、これは何かの撮影かなー、とか思ったでしょ。違うわよ」
「なっ、お前は俺の心を読めるとでも言うのか!?」
あんな状況下において思い付く愚かな発想など、幾らでもあるはずなのだが、この少女はそれを言い当ててみせた。
「ええ、もちろん読めるわ。あんたみたいなマヌケそうな顔してる奴の考えてる事なんてお見通しよ」
アホなの? 死ぬの? と言わんばかりの視線を向けられる。
「まだ逢って間も無いのに凄い言われ様だな」
これは今でも変わらない。むしろ、今思えばまだ遠慮していた様にも感じられるから恐ろしい。
「そんな事どうでもいいわ。もし、あたし達が何かまともな理由があってこんなとこにいるなら、せめて連絡の1つぐらいあるでしょ普通。でもそんな物、唯の1つも無かったわ。どこの誰がやったのかなんて知らないけど、あたしみたいなか弱い女の子を3日間もこんな物騒な所に放置するなんてまったくどうかしてるわよ」
直前の態度とは打って変わって、イライラした口調で少女が話す。
とりあえず、この時起こっていた事を列挙してみよう。今の俺が分かる範囲で。
あの時、俺の身に起こっていた事は夢等の類の物ではなく現実であり、俺は俺の知らぬ間に森の中に倒れていた。そこは俺がこの後居座る事になる神庭学園の近くの森。雪の言葉から察するに、彼女は俺の身を守ってくれていたのだろう。だがしかし、俺は拳銃を持った少女と森の中で2人きりであった。敵意も悪意も無いと思っていたけれども、客観的に捉えれば危機的状況である。
そんな状況の中、不毛であろう思考を止め、少女の言う事を現実として俺は受け止めた。
「そうか……、ありがとう。そういえば自己紹介がまだだったな。俺は風峰裕城だ。お前は?」
「ふぅん、裕城……、か。覚えたわ。あたしは不知火雪よ。よろしく。雪ってよんでくれて構わないから」
普通の女子は、初見の男子に下の名前を呼ばせたりするのだろうか。こちらからすると、接しやすいので全く問題は無いのだが俺の思い浮かべる女性というのとはギャップがあった。まあ、俺の様な平々凡々な高校生が会話した女性の数などたかが知れている。勝手におかしな普通を思い込むのは愚行であるだろう。
「よろしく、雪。ところで……、その両手に持っている物はなんだ?」
彼女はその白い手で鈍く輝く拳銃のグリップを握りしめていた。それはリアル過ぎて現実味が無く、こちらの世界に来る前の俺ならば、ただの玩具だと思っていた事に違いない。
「これ? これは見てのとおり拳銃よ。そんな事も分からないの? あんた阿呆なの?」
キョトンとした顔で、さも当然の様に彼女は俺を罵倒する。
それもそうだろう。誰がどう見てもあれは本物だったのだから。
「……普通の女子はそんな物騒な物を持ってないからな」
「これはここに来た時、近くに落ちてたから持ってるだけよ。護身用ね。ほら、これはきっとあなたの分。抵抗はあると思うけど、持ってないと死んじゃうわよ」
言って少女は俺に剣を手渡した。
この時得た武器は今でも持っているし、主力として用いている。全長92cm、刃渡り67cm。刀身は両刃刀となっており、その幅は広く、4.2cm。装飾の類は無いが、刀身には文字の様な数種の記号が刻まれている。鞘は革製のシンプルな物でベルトに取り付ける事と襷掛けをする事が可能だ。また、刀身と同様に、やはり鞘にも装飾は無い。言ってしまえばゲームの序盤に出てくるロングソードの様な物である。
「何だこれ。滅茶苦茶軽いな」
何故こんな物があるのか。何故こんな物を持たなければならないのか。思う事は多々あったが、けれどもそれを尋ねようという考えは剣を手にした時にどこかへ行ってしまった。理由は分からないが、その剣を持つと安心感があったのだ。まるでずっと昔から使っている物を持つ様なそんな感覚。例えるなら愛用している包丁を握った時の様なあの感覚である。
「……そう? あたしにはかなり重かったんだけど」
それは、野球に使用するあの金属バットよりも軽く感じられた。だがしかし、実際のところこの剣は5kgを優に超している。
差が生じるのはなぜか? 答えはこの武具に、現実ではとても考えられぬ特殊能力が付加されているからである。体重計で適当に計測しただけなのでまだ何とも言えないが、俺が手に持っている時に限り重量が約10分の1となる様だ。原理も何も分かりはしないが、この能力は非常に便利で重宝している。恐ろしいのはその能力に、何か代償とか副作用の様な物があった場合だが、分からない事を気にしても仕方が無いし、その時はその時だ。
「それで、だ。どうしてこれがないと死ぬんだ?」
唐突に危険物を押し付けられ、死ぬなどと言われても常人の脳では理解すらままならない。
「それは――」
言葉を遮る様に生い茂る緑、その一部である茂みが音を立てて揺れた。
「何っ!?」
雪はおそらく反射的に拳銃を抜き、構えの体勢。後の須臾、再び茂みが揺れて、何か得体の知れぬ物がこちらに向かって飛び出して来る。サイズは小型動物程度で、形は狐の様だった。……そして、色は黒い。黒く、黒く、どこまでも黒い、例えるなら闇。光すら吸い込む暗黒だ。今でもその黒さは良く覚えている。
「あの黒くてちっさいのは何だ? 生き物なのか?」
おかしな質問だ。自ずから動いているのだからこれは生き物であろうに。考えればすぐにでも分かる事である。
だが、俺は断定する事は出来ず、雪もまた断言しなかった。
「そんなのあたしが知るわけないでしょ。あたしが知ってるのは、あれがあたし達にとって邪魔な者って事だけ」
そう言いながら雪は"黒い何か"に銃口を向け、引き金を引く。瞬間2度の銃声があったが、依然として未知の小動物はこちらに猛スピードで駆けて来ていた。雪が放った2発の弾丸は外れたのである。
「きゃっ!」
急接近してきた"黒い何か"が雪に向かって飛び掛かる。刹那――、俺は無意識の内に雪と"黒い何か"の間に割って入り、鞘に収められたままの剣を全力で振り下ろしていた。そこには何の意識も伴われず、要約すれば危機感に対する反射。けれどもそれはしっかりと対象物を捉え、鈍い音とともに数メートル先までそれを吹き飛ばしていた。
「大丈夫か?」
「ええ。あなたのおかげでね。ありがとう。案外やるじゃない」
その傍で、猛獣は立て直そうとする。
けれども、ユキはその隙を見逃しはしない。同時に扱う銃器の数を1つに減らす事により、しっかりと狙いを定められた計2発の弾丸が、マズルファイアと共に放出される。内1発は地に突き刺さり、もう1発は標的の胴体部分をかすめた。
――そう、確かに当たったはずだった。
だが、銃弾がその体を抉ろうとも、漆黒の動体は体液一滴すら流さない。そこから推測出来たのは、あれが生物ではないという事。
"黒い何か"は立ち上がると同時に再びこちらに向かって来た。動きからは無駄という無駄が省かれ、速度は異様に速い。どうやら俺も標的と認識されたらしく、狙われたのは俺だった。直線的で、単純なモーション。それは俺の頭部目掛けて跳躍する。
大きな動きで回避。避けるのはそう難しい事では無かった。飛来する球から逃れるのと何ら変わりはしない。こちらもやはり単純な動作。
慣性の法則に従って"黒い何か"は地へと降りる。そして着地点に1発、その一歩先にもう1発、弾丸が向かった。それらは適確にそのポイントを打ち抜くが、わずかに遅く、惜しくも奴には当たらない。結果はただ地表が抉られただけだった。
「ちっ!!」
空になった弾倉が銃から抜け落ち、ポーチから取り出した弾倉が新たに装着される。
次のターゲットは彼女だった。敵はやはりシンプルな軌跡を描いて宙に跳び上がる。雪はそれを飛び込み前転に似た形で回避。的を失った小動物は宙に取り残され、そこに一閃。刀剣を鞘に留めるための金具を外し、そのまま剣を振るう事で、繊維の塊が空を滑るかの様にして進む。結果、それは正面から衝突し、速度を失った。
この時、俺は分かっていた。この化物が必ず頭部を狙う事を。そして次は俺が狙われる事も。
故に俺は距離を取る。全力を尽くして距離を取ったのだ。続き、縦斬りの構え。
思惑通り奴は駆ける。その姿はまるでプログラミングされた機械の如き物であった。愚かしい程ひたすらに、恐ろしい程ひたむきに、ただただ"敵"と見なした者の絶対の急所を睨んで疾走する。この時の俺からしても、それを真っ当な動物の行動だと思う事は出来なかった。
して、やがて時は来る。恐怖心と緊張感に苛まれながらも俺は剣を振り下ろした。ありったけの力を込めて、ただ振り下ろした。既に空中に在る奴には避ける術など無い。
刃に裂かれ、為す術も無く"黒い何か"は地に転がる。そこに容赦の無い集中砲火があった。総じて8閃。弾倉の中身が無くなるまで、少女がトリガーを引いたのである。
音速を超えた金属が得体の知れぬ何かを連々と貫き、途端、その場に倒れたまま息絶えるはずの真黒な小動物の輪郭がふやけ、ぼやけ、消失した。その後は全て一瞬の内。決壊したダムの如くその黒さを辺りに散らし、微塵の残滓も無しに霧散してしまう。
――ま、る、で、そ、こ、に、は、初、め、か、ら、何、も、居、な、か、っ、た、か、の、様、に。
「……消えた?」
消えた、とそう表現するのが最も適していた。ついその前まで俺達を狙っていた何かは、先も言った通り跡形も残さずその場から無くなったのである。
「どうやらそうみたいね」
「……冷静なんだな、お前は」
一気に緊張が解けてしまっていた。ひとまず危険が去ったのだから、当然と言えば当然だろう。
「こういうのは2回目なのよ。いちいち驚いてなんていたらキリが無いじゃない? 初めての時はそりゃ驚いたわ。……でも、これで分かったでしょ? ここから生きて抜け出すには力が必須なのよ。それともう1つ。あんたも随分と落ち着いている様に見えるわよ」
傍からみるとそうなのだろうか。しかし、例えそうだったとしても内心では焦りを感じていた。それは間違いない。もし俺の表情が普段と大差無かったのだとしたら、それは動揺のし過ぎで恐怖や驚きを感じる余裕が無かったのだろう。
「……残念だがそうみたいだな」
「でね、そこで1つ相談なんだけど、あたしと組まない?」
「組む? どういう事だ?」
少女の表情にはまだ少しだけ緊張から来ているであろう固さが残っていた。
「単純な話よ。2人で一緒に行動したほうが生存率が上がるでしょ? それに一人は寂しいもの。まあ、ここから脱出するまでのパートナーだと思って」
この森から脱出するまでとしていた関係は、その後も続き、早々切れない物に成る事をあの時の俺が知る由は無い。でも、この選択は間違いではなかったと思っている。
「ふむ。そうだな。そうしよう」
「じゃあ改めてよろしく、裕城」
差し出された右手を握り、俺は言葉を返した。
「ああ。よろしく、雪」
――この出会いこそが全ての始まりだったのである。