第七小節 Cloud 下
銀世界を超えた、歪んだ世界。極めて純度の高い透明な氷は、しかし僅かな光を跳ね返し、そして光を捻じ曲げる。故に歪んだ世界。
カランと固体がぶつかる音。パリンと氷が砕ける音。
足下の氷は質が悪い。大きく動けば滑る。敵の剣を避ければ、氷に当たってそれが砕ける。さっき不知火雪という少女が溶かした所もまた凍り付いているし、踏んだり蹴ったりだ。
「八方塞がりっぽいんだけど。圏外よ、携帯が」
――無から有は生まれない。
"視覚的に無の空間"には何か生まれる事もあるが、本来完全に無の空間から何かが生まれるなんてあり得ない。魔力なり何なりがそこにあるから何かが生まれる。最も、この世界を真に創った神様ならば、そんな法等無視するだろう。でも神様ってのはそんなに暇じゃない。
「融解とか昇華は無理か?」
相手は言うなれば水の塊。文字通り水を司る水属性の魔法は、それ自体の創造から移動操作、状態変化等、多岐に渡る事象を起こす事が可能である。現状ここには2人水の魔法を操れる者が居て、それは雪と響だ。
ちなみに俺と流花は風属性。まあ、今それらは役立たずと言っても過言では無い。
「駄目だな。何度やっても。描いても消されちまうんだよ」
言われて試しに描いてみる。氷の上にチョークは乗らないので、剣の先端で削って画図。しかし、描き終える前にそれは修繕された。
「そう言えばあれは? あれあれ、降って来た奴」
「あの氷の槍か」
一本槍流花。彼女は一族の因縁で槍マニアのちょっとした変人である。
氷剣の27閃。避けて砕いて掻い潜りながら、合間を見て口を開く。頬と右下腹部を実に鮮やかに切られたが、この程度は我慢の及ぶ範疇だ。それほど痛くはない。
「いやそっちじゃなくて、その後に降って来た方だと思うぞ」
見回しても周辺はスケートリンクが如く真っ平ら。墜ちたと思った場所には突起物は愚か、砕けた槍も、氷の塊の様な物もありはしない。溶けて一部となったか……、或いは。
「いや、ここだろう」
迫り来る氷の傀儡を踏み台として、流花が宙に舞う。そのまま計3つの氷剣を切り落とし、厳かな漆黒の槍がその矛先を以てして、凍て付く大地を貫いた。
鋼の刃は、深く深く突き刺さり、その一尺程が氷の中に消える。
「……止まった? そんな馬鹿な」
流花は一層深く、そう深く、貫くつもりだった。なのに止まった。
傍らで氷の剣が、氷の騎士が"独りでに"砕けて散って、増えて合わさり3つの巨大な剣となる。
黒の長髪を振り乱し、一蹴りで後方に跳躍。一本槍流花の刺突は、物理的にも技術的にも磨き抜かれた至高の一撃だ。狙えばその刃と同じ鋼鉄であろうとも、総て貫いて来たらしいし、俺が見ていた限り余さず残さず皆一様に穿っていた。これは一体何事か。
空に始めの氷塊が飛び上がる。それを芯として氷剣が回り、塊と共に上昇して、――やがて源泉に突き立った。
「何だアレ。やけに演出が凝ってるな」
「そうだな。俺はこういうの、結構好きかも知れないぜ」
かもって何だよかもって。自分の好き嫌いくらい分かるだろうに。
剣が圧力で変形し、いが栗状に成ったかと思うと今度は密集して球に。そこから手が生え腕が生え、騎士よりも更に人間を模した巨人が形成される。
――俺達は何と戦っているのか。
ただの水の塊が、果たして自ら動く物か。ああ、そんな事ある訳が無い。あって堪るか。だからこれは誰かが糸を引いていて、だからこれは誰かの遊戯。
「面白いじゃない。あれがコアで、的って事ね」
「多分そうなんだろうな」
あの神の仕業か、それとも龍神様とやらの仕業か。前者は暇人というか暇神だし、訳の分からない事ばかり言う奴なら十二分にあり得る。龍神様とやらも実は愉快な性格だった、みたいな事も無くは無いであろう。どちらにせよこの話は雪としか出来ないしな。
眼前に優に10tを超えるであろう巨人が地に降り立つ。
先程までの温く冷たい剣撃とは違い、巨躯から繰り出されるは高速の氷拳。すっかり舐めきっていた俺と響は避けきれず、大質量の物体と衝突する。
「ぁ……、ぐ…………」
咄嗟のバックステップと捩った身体で、最大限威力を受け流した。結果、氷の大地に水切り石の如く身を叩き付けられながら、2回転して滑って停止。
右半身が異様に痛む。先程切られた箇所からは血が流れ出していた。骨折とかは良く分からんが、一応まだ体は動くらしい。
「おい君、大丈夫か!? 立てるか? いや、喋れるか!?」
「大丈夫だ。喋れるし立てる。ちょいと痛いけどな」
お約束通り敵さんは待ってくれている様だが、いつまでも止まっているとは思えない。故に立ち上がって剣を握り直す。
轟く銃声、吹き荒れる銃弾。二挺の銃器から立て続けに弾が飛び出し、それらは巨人を抉り抜いていた。けれども欠けた部分は見る見るうちに修復されていく。
「埒があかないな」
率直に言ってそうだった。俺達がやっているのは、プールに溜まった水をやたらと斬って殴っている事と変わりない。要するに無駄。
ダメージから復帰した響が巨大な斧を振り下ろす。超重量級のその一撃も、やはり圧倒的修復速度の前では用を為さなかった。
いや、割りとそうでもなかったのかも知れない。
「そうそう、これ忘れてたわこれ。ああでも魔法使えないとだめなんだったっけ?」
放り投げられた四角いトランクをいつの間にか背負って少女が氷上を駆け抜ける。その中に仕舞ってあるのは特大のアンチマテリアルライフルだ。
「1発くらいはマナクリスタルで使えただろう」
折りたたんで収納された約2.7mの銃器は、到底人間には扱い切れない量の火薬を用いて弾丸を放つ。使用者の安全の為、魔法を要する由縁はそれだ。水か土の魔法で銃器を覆って反動を相殺する必要があのデカ物にはあるのである。そして、あの銃にはもう1つの短所があった。
「オーケー。ちょっと頑張ってみるから出来るだけアレの動き止めてよねっ」
組み立て作業だ。あの銃器は使用可能状態に持ち込むまでにそこそこの手間が掛かってしまう。狙撃銃なのだし、当たり前と言われればそれまでかも知れないけれど。
「了解! っな、うお!」
威勢よく突っ込んだは良い。しかしどうやら間抜けにも滑って転けてしまったらしかった。
「危ない!」
ああ、全くその通りである。実に危ない。氷塊が俺目掛けて急降下して来る。
咄嗟の事だった。剣尖を上にして氷の床にその尻を置き、倒れぬよう手を添える。発砲音もしていただろう。
……1、2、3、4…………、5秒。氷塊は墜ちて来ない。目を開け、見ると刃の突き刺さっている部分からぱっくりとそれが裂けていた。
「何してんのよ! 早く逃げなさい!」
呆気にとられて停止した思考が、その声で呼び戻される。
「あ、ああ」
軋む身を無理に捻ってその場を脱ける。剣は相変わらず無傷であった。
響は制止した巨人に斧を振り下ろして、何やら苛立っている。
「何だってんだよ、これは!」
一振り、また一振り。魔法を用いていないので全力とはいかないが、それでもかなりの威力はあるはずの斧。傷1つ付けられぬまま、それが何度も何度も弾かれていた。
……何かがおかしい。ついさっき、あの斧は巨人の脚部を大なり小なり砕いていたはずである。
そして後ろで声が上がった。
「用意できた! よくわかんないけど都合良く止まってくれてるみたいだしパパっとやっちゃうわよ!」
「待て――」
俺の声は届かない。
弾薬に内包された大量の火薬が炸裂し、大気が揺れる。この銃器は狙撃銃の様な形状を採っているのだが、けれどもそれは狙撃の為ではない。強度や弾道、反動の相殺が目的である。これは木であれ石であれ鉄であれ、対象物を木端微塵に吹き飛ばすために設計された、純粋に破壊に特化した銃器なのだ。だからその発砲音は凄まじかった。
目視はもちろん不可能。人は鋼鉄の塊が為した物事を見て弾丸がどう飛んだのかを見定める。
そんな弾丸の描いた軌道には驚くしかなかった。
「な、何で!? 何で無傷なのよ!?」
静止した巨人はその表面すら微動だにさせなかった。跳弾したらしく、代わりに地面の氷が円形に吹き飛んでいる。
すかさず流花が言う。
「やはりか。これは推測でしかないのだが、あの巨人、停止してからの自己再生中は攻撃が通らないのではないか?」
「俺もそう考えている。流石にあれはおかしいだろう」
氷というのはかなりの強度がある物だから、壊すのはそう簡単にいかない。けれども鉄板にすら風穴を空ける衝撃に耐えられる様な強度でもなかろう。ならばきっと、流花の言っていることは正しい。
俺の剣を切っ掛けに砕けた腕を完治させ、氷の巨人が再度動き始める。
「なるほど……。そうね、1つ試したい事があるからもっかいぶっ壊してきて」
「軽々しく言ってくれるなよな。まあいいけどさ」
恐らくあれには2つの様式があり、大規模な損壊をトリガーにして戦闘モードから修復モードに移行するのであろう。つまりもう1度、どこでもいいからもう1度、奴に大打撃を与えてやれば雪の要望は完遂できるわけだ。しかし1人でやるのには無理がある。
「君、柊、私は正面から攻める。2人は側面に回ってくれ」
「あいよ」
響は左、俺は右。抜刀してとりあえず敵の脚部を殴る。予想通り削れたのはわずかだが、まあ想定通りなので構いはしない。
次に巨人がカクカクしたぎこちない動きで拳を繰り出す。生物ではなく無機物なのに、関節やら脚の動かし方は人間そっくりで気色悪かった。その拳は真っ直ぐ流花へと向かう。
地面の氷が砕け散った。流花がそう易々と当たるはずは無く、また、砕けたそばから見る見る氷が修復されるのも先程と変わりない。
「埒が明かないな」
2度目にこの台詞を言ったのは流花。故に少女は全身全霊を以てして刺突を繰り出す。槍は高速で前進し、当然の様に9、10mの巨躯にそこそこ深い穴を空けていた。
その通りだ。埒が明くわけが無かろう。ついさっきの剣による破壊は紛れ……、いや紛れだったのだろうか? 構いはしない。とにかく色々な要因が重なって大規模破壊につながったのだろうと考える。そう簡単に壊せはしないわけなのだ。つまりほとんど一撃で破壊する事が必要なのである。
弾丸一閃。信号弾を流花の空けた穴に向けて放った。そして炸裂。氷に食い込んだ信号弾が内包する空気と各種化学物質が、激しく反応をし、高熱を発する。
「おい響!」
叫んで剣を穴に投げ刺す。これは少しでも効率的に奴を砕くためのステップ。とれだけ斧を振り回そうと、側を削って終わりだが、相手の防御力を下げてしまえば話は変わるのである。
「おうよ! 任せとけ!」
燃焼は高熱を伴う物だ。砕けないなら溶かせば良い。
伸縮自在と言っても過言では無いほど響の斧は伸ばせる。確か最長5mと言っていたか、普通そんなに長くては人類誰も扱えないだろう。しかし魔法使いならそれが出来る。それは雪の用いるあの銃と良く似た手法で、斧の先端部をやはり凍らせ、その氷を魔法によって操るという物だ。あの斧にもさして容量は大きくないがマナクリスタルが取り付けられていた。
一振りで柄が伸びる。斧の刃が青に輝き、刃の周辺が刹那の内に凍り付く。ここまででわずか3秒。信号弾の燃焼時間は30秒だから問題は無い。
そして巨人の背後から一閃。極限の集中から放たれる渾身の一撃。
想い描いて剣をこの手に戻し、巨人の突きを回避しながら俺はその光景を眺めていた。
目的通り、巨人は二分されて地に倒れる。
「やるじゃない。それじゃあ流花! もっかいあれを頼むわ」
「ああ」という了承の合図と共に、上半身と下半身が分かたれた巨人を台にして、一本槍流花が再び宙に舞う。描かれるは星の文様。続けて、着地と同時にその5つの頂点を結ぶ円が描かれた。
空間を鮮やかに煌めかせ、立体的な魔方陣を不知火雪が創造する。見れば、それは雪の真横と巨人の真横にそれぞれ1つずつ出来ていた。
なるほどそうか。確かにそれは名案だ。削ると直されてしまうのなら、突起を用いて成せば良いのである。
「2人とも下がって。今からそこは沈むから」
言われて飛び退く。そのタイミングを見計らって須臾の後、多量の氷が巨人の上半身を起こし、方やその周囲の地が沈んでいっていた。ある程度沈んでから、銃器が再度氷付けになり、そして沈んだ場所を他と高さが合うようにもう一度氷が覆う。
最終的にに巨人の半身は埋没し、どういう事か氷の巨躯は動き出す。腕を振るい、己が損傷を意に介さず、拳を以て氷を砕く。しかしどうやらこの地は誰が壊そうと勝手に修復されるらしく、砕いたとこから直っていって、巨人はそこから抜け出せない。
「これで終わりよ!」
重いトリガーが押し込まれ、鋼の塊が空を滑る。駆け抜けて3線。丁度人の心臓と同じ場所にある巨人の核目掛けてそれは飛んだ。
まず一撃。巨人の表面を吹き飛ばし、コアに当たって落下する。続けて2発目。これは少し外れて巨人の肩を吹き飛ばした。
――そして3つ目。速く、重く、そして硬い鋼の弾が、巨人の心臓に直撃した。遂に氷の源泉が巨躯の外に弾き出される。
「やったか?」
響が言って辺りを見回す。巨人は既に動きを止めており、どうやらこの氷の地を囲っていた氷の壁も、崩れ始めているようだった。
「ああ、多分もう大丈夫だな……」
目眩がする。意識は一応あるが、身体が重い。これは一体どうした物か…………。