ドラゴン
みんなはドラゴンって知ってるかな?
最強生物。絶対的強者。あらゆる生態系の頂点。
天を裂き、海を割り、地を砕く。
剣も魔法も、通じない。毒でも細菌でも倒せない。
そもそも、お風呂代わりに溶岩に突っ込むような生き物だ。多分、核兵器を使われても、髪の毛一本、失わないだろう。
会ったら逃げろと、人は言う。気まぐれに殺されてしまうぞと。
決して近づくなと、人は言う。好奇心は猫をも殺すぞと。
ドラゴンというのは、それほど、恐ろしい生き物だというのだ。魔王やヴァンパイア、古き魔物と同じく、関わってはいけないものの類だと。
でも、僕はそうは思わない。
だって……。
「ドラ子さん、優しいですもんねえ?」
「そんなことない」
僕の知り合いのドラゴンは、とってもいい人だからだ。
少し無口だけど、穏やかで、優しくて、面倒見がいい。
僕が知ってるドラゴンは、そういう生き物だ。
「ユウト。角砂糖は二つでいいか」
「ほら、やっぱり優しい」
「……そんなことない」
ドラ子さん家のソファーで寝転がっていると、自動的にコーヒーが出てくる。しかも、砂糖まで入れてくれるサービスつき。これを優しさといわず、何という。
「やあ、いっつも家ではお母さんや妹にこき使われているからなあ。何かをしてもらうのは、とても新鮮でありがたいなあ」
「そう」
両手を合わせて拝んでみると、ふいっと顔を逸らすドラ子さん。照れているのだろう。頬が少し赤い。
「ドラ子さん。ほっぺたが赤いですよ」
つんつんと、頬をつついてみる。
「やめて」
わたわたと、ドラ子さんが慌て始めた。何だかとってもキュート。クールな女の子が慌てる姿って、いいよね。
「ドーラ子さん」
だから、もっともっと堪能したくて、彼女のほっぺをぷにぷにしていたのだけど……。
「やめて。やめ、やぁ……やっ!」
「あ~れ~」
嫌がるドラ子さんが、僕の手を少し強めに払いのけた。
それだけで、僕はきりもみ回転をしながらドラ子さんちの窓から飛び出し、はるか彼方へと飛んでいく。
しまった。調子に乗りすぎちゃったなあ。
彼女はドラゴン。いくら優しいからって、地上最強生物の名は、伊達ではないのだ。
僕とドラ子さんが出会ったのは、一ヶ月前。
森を歩いていた僕は、泉で水浴びをしている少女に出会ったんだ。
美しい少女だった。
身長はそんなに高くはないけれど、均整がとれているため、とてもスレンダーだ。その体に、濡れた紅い髪がしっとりと張りついて、白い肌が際立っていた。
見とれていると、時おり、ぱしゃり、ぱしゃりと、水面を叩く音が聞こえた。
水しぶきをあげていたのは、彼女の翼と尻尾だ。紅くて、しなやかな、翼と尻尾。彼女には、ドラゴンのような身体的特徴があった。
いや、ドラゴンのような、じゃないな。彼女はドラゴンなんだ。
泉にたたずむ少女がもつ存在感は、それだけで、彼女が伝説的な生き物なのだということを、僕に理解させた。
僕の目の前に、ドラゴンがいる。次元が違うとまでいわれる生き物が、すぐそばにいる。
ならば、僕がすべきことは一つだ。
「サインをください」
僕は、ドラゴンに、色紙とサインペンを差し出した。
「………………」
じろり。僕を見て、色紙を見て、また僕を見る裸体のドラゴンさん。
彼女は、しばらくそうしていたかと思うと、すっと踵を返し、去っていった。
しまった。ミーハー根性丸出しだった。名前を名乗らずに、いきなりサインをくださいはないだろう。
失礼なことをしちゃったなあ。これは、お詫びをしなければならないだろう。
「と、いうわけで、やってきました、ドラゴンさんち」
家に帰り、スーパーで菓子詰めを購入し、また森に来た僕。ドラゴンさんが去っていった方向にずんずん進んでいくと、やがて、小さなログハウスが見えてきた。
森の拓けた場所にある、丸太組みの小さなお家。その家の庭先に、白いワンピースを着た少女が立っていた。
いた。ドラゴンさんだ。ドラゴンさんは、洗濯物を取り込んでいる。
チャンスだ。このまま近づいて、お詫びの品を渡そう。
十メートル。五メートル。三メートル。
今だっ!
「サインをください」
僕はドラゴンさんに、色紙とサインペンを差し出した。
「………………」
じろり。僕を見て、色紙を見て、また僕を見るワンピース姿のドラゴンさん。
彼女は、しばらくそうしていたかと思うと、すっと踵を返し、家の中に入っていった。
しまった。ミーハー根性を捨て切れなかった。げにおそろしきは、ドラゴンのカリスマよ。
「申し訳ありません。今のは違うんです。ほんのささいな手違いでして」
ログハウスの玄関先で、平謝りする。さすがに、二回連続サインをくださいは駄目だろう。ここは、謝るしか。
僕は、ただただ、地面に額をこすりつける。
そして、一分、二分が経過し……三分が経とうというところで、玄関の扉が開いた。
顔を上げると、赤毛の少女が、目の前で、僕を見下ろしていた。
彼女は、金色の瞳で僕をじっと見つめ、薄い唇を開いた。
「わかっているの? 私は、ドラゴン」
「僕はニンゲンです」
「……」
会話が成立したと思ったら、いきなり黙られた。キャッチボール失敗? 馬鹿な。送球には定評がある僕だぞ。
「だから、私はドラゴンなの」
「ええ。僕はニンゲンです」
「……」
あれ? 自己紹介じゃないの? ツーときたらカーじゃないの?
どうにも、ドラゴンさんが黙り込む理由がわからず、首をひねる僕。
「これが最後。いい? 私は、ドラゴンなの」
ドラゴンさんが、やけにドラゴンであることを主張するなあ。どれだけドラゴンをアピールしたいんだろう。
……いや、待て。もしや、ここにヒントがあるのやも。
「僕も、小さい頃は友だちから『ライジング・ドラゴン』と呼ばれていました」
由来は、正座に不慣れな柔道仲間たちの足を、嬉々としてつついて回ったことから。ビリビリと痺れる友人たちは、僕のことをライジング・ドラゴンと呼んで恐れたっけ。
さあ、これでどうだ!
「………………」
駄目らしい。先ほどよりも、沈黙が長い。あれ? ドラゴン仲間に認定してくれないの?
「すみません。ドラゴンさんは、何が言いたいのですか?」
もう、ここまできたら単刀直入に聞くしかない。ずばりと、核心をついてみた。
「だから、私はドラゴンだと……」
「ええ、知っていますが、それが何か?」
「……ドラゴンなんだ、私は」
「だから、知っていますよ。ドラゴンさんはドラゴンさんなんですよね?」
駄目だ。彼女がいわんとしていることが、さっぱりわからない。もしかして、ドラゴンって何かの隠語? そうとまで思い始めたところで……。
「だからっ! 私は、ドラゴンなんだ!」
「お、おお……!?」
ドラゴンさんが、ドラゴンになった。
ニンゲンのような形ではなく、おとぎ話の竜そのものに転じたドラゴンさん。見上げるほどの巨体は、間近で見ると、ものすごい迫力がある。
『見ろっ! これが私の本性だ!! 恐ろしいだろう!!』
ドラゴンさんが、ガオー! と吠えた。鼓膜だけじゃなくて、全身がビリビリと震える。
ああ、これがドラゴンさんの本性か。ドラゴンさんの、真の姿か。
なんて、なんて……。
なんて――――かっこいいんだろう!
「サインをください」
僕はドラゴンさんに、色紙とサインペンを差し出した。
「………………」
ドラゴンさんは、何故かしゅるしゅるとしぼむように元の姿に戻って、両手両膝を地につけてうなだれた。
「やあ、あれからもう一ヶ月ですか。早いものですね」
「そうでもない」
ドラ子さんのほっぺたをぷにぷにし過ぎたせいでぶっ飛ばされた僕は、飛んできたドラ子さんに連れ戻され、今、治療を受けていた。
「でも、ドラ子さん。僕は怪我らしい怪我なんてしていないから、包帯なんて巻かなくて大丈夫ですよ」
「念のため」
「はあ、それならば」
大人しく治療を受けることにする。柔道の真髄、前回り受身のおかげで、傷一つ負っていないというのに、ドラ子さんは僕に包帯を巻きつける。
まったく、ドラ子さんは心配性だなあ。
まあ、でも、ドラ子さんはドラゴンなんだ。しかも、優しいドラゴンだ。
自分の力で他人を傷つけたくないと、普段から孤独に暮らしているような人だ。
ものの弾みで誰かをぶっ飛ばしてしまったなら、人一倍心配してしまうのも、しょうがないことだといえる。
「治療はできた。じゃあ、もう今日は帰れ」
「え? まだお昼ですよ」
「いいから、帰れ」
すっと僕から離れ、背中を向けて、椅子の上で膝を抱えるドラ子さん。
まったく、ドラ子さんときたら。ものの弾みで力を使い、物を壊したり、人を傷つけたりすると、すぐに落ち込むんだから。
「大丈夫ですよ、ドラ子さん。僕は怪我していません」
「いいから、帰れ」
ドラ子さんは、僕と目を合わせてくれない。困ったなあ。この調子だと、ドラ子さん、僕が帰った後に一人で泣いちゃうぞ。
う~ん、どうしたものか。
「じゃあ、ドラ子さん。僕、プリッツを食べたら帰りますね。それまでは、ここにいさせてください」
「……一箱だけだ。それを食べたら、すぐに帰れ」
「ええ、わかりました。一箱食べたら、帰ります」
僕は、テーブルを挟んだ向かい側の席に座る。ドラ子さんは、ぷいっとそっぽを向く。
いつも通りの光景だ。この一ヶ月で、何度も繰り返された光景。
ドラ子さんと知り合ってから、僕は押しかけのような形で、彼女の家に遊びに来るようになった。
サインが欲しかったからじゃない。何故か、ドラ子さんを放っておけなかったからだ。
ドラ子さんは、口癖のように僕に「帰れ」と言う。ドラゴンに関する噂を知らないのか、お前も死んでしまうぞ、と。
でも、僕を追い返そうとするドラ子さんは、決まって、いつも寂しそうで……。だから、どうしても気になって、僕はドラ子さんの家に遊びに来るようになったんだ。
ドラゴンの怖さは、話には聞いていた。誰もが口を揃えて、恐ろしい存在だと言っていた。
でも、そんなことはない。ちょっと力が強いだけで、心はみんなと一緒だ。生まれついての暴君だなんて、そんなことはないんだ。
この一ヶ月で、僕は、そのことを知った。
「ドラ子さん、今日は明太子味ですよ。一緒に食べませんか?」
「いい」
「近所のスーパーでは人気商品で、いっつも品薄なんですよ。珍しいプリッツなんですよ。一本だけでも、どうですか?」
「……じゃあ、一本だけ」
ドラ子さんと一緒に、プリッツを食べる。約束は、「プリッツを一箱食べたら帰る」だ。すぐには切らさないように、ゆっくり、ゆっくりと食べよう。
「そういえば、お昼でしたね。今日はバジルと干し肉のパスタでいいですか?」
「そんなことはしなくていい。私が作る」
「じゃあ、一緒に作りましょう」
「……うん」
ようやく、目を合わせてくれたドラ子さん。彼女は椅子から立ち上がり、一足先にキッチンへ向かった。
僕はにっこりと微笑んで、その後に続いた。
「お兄ちゃん、ご飯」
「お兄ちゃん、ご飯~」
家に帰るなり、つるぺったんな妹と、ぼいんぼいんのお母さんに、そう言われた。
おのれ、Tシャツパンツ人め。はしたないことこの上ない。
「そんなにお腹すいているなら、自分で作ればいいのに」
お米を研ぎながら、僕はリビングのソファーにぐでーと寝転がる二人に、提案してみる。
「私、料理の才能ないから」
見事にハモった。う~ん、さすが親子。
「僕、ドラ子さんちの子になろうかな。ドラ子さん、お茶は淹れてくれるし」
「だ、誰、ドラ子さんって? ほら、お兄ちゃんがメス猫に取られるよ! 色仕掛けで引き止めて! ハナちゃん!」
「お母さんがすればいいでしょ」
やいのやいのと、子猫のようにじゃれあう二人。
やあ、今日も我が家は平和だなあ。