アルラウネ
僕の家は、山を切り拓いて作られた住宅街にある。
だから、やたらめったら坂が多いし、お店だって少ない。
かろうじてスーパーや喫茶店、駄菓子屋はあるけれど、コンビニなんてもちろんない。
市街地に出るにも、車で三十分近くかかるし、バスだって一時間に一、二本だ。
「ド」はつかないまでも、田舎と言い切って語弊はないだろう。
それでも、田舎は田舎なりにいいところはある。一つは、市街地と比べて騒々しくないところ。そして、もう一つは、自然が豊富なことだ。
夏真っ盛りの今頃、野山を歩くと、むせかえるような森の匂いがする。木のような、湿った土のような、自然の匂い。
花の匂いなど、まったくしない。夏の野山は緑の季節だ。どこか爽やかな感じはするけれど、甘い匂いなど微塵もしない。
そのはずなんだけど……。
「何だろう、この甘い匂いは……?」
メープルシロップのような匂いがする。そんな馬鹿な。ここはカナダでもなければ、パン屋の近くでもない。近所の名もなき山に過ぎない。甘い匂いが、するはずもない。
でも、確かに感じる。甘い、甘い匂いがする。鼻がとろけそうな、いい匂いがする。
「どこだろう……」
ふらふらと、匂いに誘われるがままに歩を進める。
こっちからか? いや、あっちからだ。
踏み固められた道を逸れ、獣道でもない山道を行く。夏の日差しでシャンと育った枝葉が、腕や頬にピシピシと当たる。
それでも僕は、かまわず歩いていく。匂いの濃い方へ。甘い香りが誘う方へ。
「うふふ。いらっしゃい。ここまで、いらっしゃい」
ぼんやりとし始めた頭に、声が響く。まるで、花の蜜を音にしたような、甘い、甘い声。
僕は、夢遊病にかかったように、ふらふらと歩いていく。
「そう、ここ。ほら、ここよ」
気がつけば、僕は森の中の開けた場所にいた。短い草しか生えていない、円形の空間。その中央に、巨大な花があった。
「いい子。ほら、もう少し近くに来て」
閉じていた花が開く。ピンク色の大輪の花が、僕を迎えるようにくぱぁ、と開く。甘い匂いが、更に濃くなる。
「こ、こ。ここに、飛び込んで? ほら……」
「あ、あああ……」
迷いはしなかった。僕は、大きな花に倒れこむ。迷う理由など、どこにもなかった。
だって……。
「クロアゲハ、ゲットだぜー」
「ええええええええええええ!?」
予想通り、甘い匂いに誘われて、蝶々が集まっていたのだから。
倒れこむように花に近づき、大きなクロアゲハを難なくゲットした僕。いやあ、これで妹に自慢できるぞ。
「さて、かーえろっと」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
「え?」
振り返れば、大きな花の中から、ニンゲンが現れた。いや、緑色の肌に、体に咲いた花。この人は、ニンゲンじゃなくて……。
「やあ、アルラウネさんでしたか」
そう、花の魔物、アルラウネだ。
花の精霊とも呼ばれていて、美しいことで有名な種族だ。話には聞いたことがあったけれど、まさかここまで綺麗な人だとは。
「綺麗ですねえ」
「あ、あら、そう?」
率直な言葉に、ポッと頬を染めるアルラウネさん。
「ええ、とっても綺麗ですよ」
「そ、そんなこと……あるわよねえ~? だって私、アルラウネだもの」
ふふん! と胸を張るアルラウネさん。側頭部についているつぼみが、ぱあーっと開いた。どうやら、機嫌がいいようだ。
「そう、私は、この森一番の美人なの。そんな私とお話できるだなんて、あなた、光栄なのよ?」
「あっ、こら、暴れないで。ああ~、逃げないで~」
「聞きなさいよっ!」
僕の隙を見事に突いて、クロアゲハが逃げ出した。むう、なかなかできる蝶々だ。
「こ、こら、あんた、聞きなさい!」
アルラウネさんが、手をぶんぶんと振っている。はて、何か用だろうか?
「ああ、そういえば、為替と株の値動きについて、話していた途中でしたね」
「かすりもしていない! かすりもしていないわよ、ちょっと!」
あれ? もしかして、蕪の方だったっけ? まあいいや。
「あんたは、私に魅了されていたの! それで、私を褒め称えていたの! そこまではいい?」
「ああ、そういえばそうでした」
確かに、アルラウネさんは綺麗だな、と思っていたなあ。
「じゃあ、話は早いわ。はい、ここに飛び込んできて」
「はい?」
アルラウネさんが、大輪の花の中心で、両手を広げている。やあ、綺麗な人があんなポーズをすると、ドキドキするなあ。
何だか、とっても絵になる姿だ。
「ここは記念に、撮っておこう」
「まぶしいっ!?」
パシャリ。デジカメのフラッシュを焚いたら、アルラウネさんがのけぞった。
「なにするのよっ!? まぶしいじゃないの!」
「すみません。フラッシュ機能は切っておくべきでした」
「フラッシュ機能~? なにそれ」
ああ、アルラウネさんはデジカメを知らないのか。なら、見せた方が早いかな。
「これですよ、これ。この機械についている機能です」
「これは……あら、これ、私?」
「ええ、そうですよ」
デジカメで写したアルラウネさんの姿を見せてみる。すると、彼女は頬をほころばせて、デジカメの画面をつつつ、と撫でた。
「あら~……これは、写し鏡の魔法かしら? よく撮れているじゃな~い……うふふ」
「そうですね。とっても美人さんだと思いますよ」
「もう、口ばっかりうまいんだから。でも、本当に、私って美人よね~」
うっとりと、自分自身の姿に見惚れるアルラウネさん。ギリシアの青年、ナルシスは、水面に映った自分の姿に夢中になったというけれど、まさにそんな感じだ。
アルラウネさんは、デジカメの角度を変えたりしながら、ただただ、自分の姿に酔いしれている。
「じゃあ、僕はこのあたりで。デジカメは、また今度、取りに来ますね」
「ああ、はいはい。また今度ね~」
こちらに顔も向けず、ひらひらと手を振るアルラウネさん。ああ、用事があるようだったけれど、そんなこともなかったのか。
じゃあ、帰ろっと。
「って、待ちなさいよ! そうじゃない! そうじゃないでしょ!?」
「はい?」
やっぱり何かあったのか。
「だから~、私は、あんたの精気をよこしなさいって言ってんの。ほら、変なことしないで、ここに飛び込んできなさい」
かもーん。両手を広げるアルラウネさん。
「ええ? でも、そんな、恥ずかしいですよ。初対面の人に抱きつくなんて」
「はあ~? 男は、こういうのが好きなんでしょう? 姉さまに聞いたわよ」
「いいえ、男はかっこいいものが好きなんですよ。タコとか」
「なんでタコ……?」
かっこいいじゃないか。タコ。
「そもそも、精気なんてどうしようというのです。サキュバスでもあるまいに」
あんなものを欲しがるのは、てっきり淫魔ばかりと思っていたんだけれど。
「あんた、物を知らないわねえ。アルラウネも、精気を吸って成長するのよ」
「ああ……つまりは、草サキュバス」
「ちがうわよっ!」
「ええ? じゃあ、花サキュバス?」
「アルラウネにケンカ売ってんの!?」
なるほど。どうやら、アルラウネとサキュバスは、全然関係ないらしい。大事なところしか隠していない、やたら露出度が高い格好だから、親戚か何かかと思った。
「いい? 私たちアルラウネは、草花の魔物の中でも、別格の存在なの。その美しさは万人を魅了し、馥郁とした花の香は、生きとし生ける者の鼻腔を蕩かすわ。乳と尻を振りたくって男を誘うような、下卑た淫魔とは違うの」
「そうでしたか」
そうか、そんなに違うのかあ。
「じゃあ、ご飯とかは、どうしているんですか?」
「え? そりゃあ、生き物の精気を吸っているのよ」
そうか。そうか……。
「サキュバスと一緒ですねえ」
「あっ!? ち、違うのよ! 違うの!」
何が違うというのだろう。
「わた、私、ほら、光合成もできるの! むしろ、そっちがメイン!」
「わかっていますよ。花サキュバスさん」
「違うの! 違うんだってば~!」
生温かい目でアルラウネさんを見守る僕。
大丈夫。わかっていますよ。あなたが草属性のサキュバスだということは。
「火や鳥、氷や虫に弱い淫魔なんですよね?」
「だから、違うの~!」
それから、アルラウネさんとのドタバタは、小一時間ほど続いた。
「つまりは、一人前になるために、男性の精気を吸わなければいけなかったんですね」
「そういうことなの」
何だかんだあって、アルラウネさんの事情を理解した僕。
彼女は、一人前のアルラウネとして認められるために、動物ではなく、ニンゲンや他種族の精気を吸収しなければならなかったんだ。
なるほどなあ。ワーウルフちゃんたちと同じで、大人になるための通過儀礼のようなものなのだろう。魔物の多くには、そういった試験があると、旅の人から聞いたことがある。
さて、事情はわかった。でも、一つだけ、解せないことがある。
「何で僕なんですか?」
そう。この森には、色んな種族の人たちが暮らしているんだ。男の人も、たくさんいる。
なのに、何故、僕みたいなひょろっとした奴を選んだのか。それがどうにも、気になった。
「それは~……」
アルラウネちゃんは、答え辛そうだ。何か、言うに言えない事情があるのだろうか。
「人間でなければいけない理由があったとか」
「そういうわけじゃ……」
う~ん、何だろう? 僕を選んだ理由は何だ?
「ワーゴリラの男性の方が、精気に溢れていそうですよ? ほら、すっごくエネルギッシュな感じじゃないですか」
「それがイヤなのよっ!」
「え?」
「あ……」
しまった、というように、口を押さえるアルラウネちゃん。これは、もしや……。
「もしかして、男性らしい男性が苦手だとか」
「う……そ、そうよ。悪い?」
「いいえ、そんなことは」
僕は昔から細っこいだの、男らしくないだの言われてきたからなあ。そういった意味では、男嫌いのアルラウネさんにとって、格好の獲物だろう。
「でも、子どももいるじゃないですか」
「子どもから精気を吸ったらかわいそうでしょ」
「なるほど」
このアルラウネさん、どうやらいい人らしい。だからといって、精気を吸われるのは困るが。
「この森の連中は、あんたぐらいの歳になると、やたらマッチョになるか、やたらワイルドになるか、二つに一つなのよ。そんな奴らに、私の体を触らせるなんてできないし、だからといって、子ども相手はかわいそうだし……そこで、あんたを見かけて、ちょうどいいな~って思ったの」
「そうでしたか」
確かに、ワーゴリラの男性は、全員ボディービルダー並みの筋肉だものね。慣れない人には、怖いだろう。
「さ、わかったでしょ? あんたは、ちょうどいいの。大人しく、精気を吸わせなさい」
「う~ん……」
人助けと思えば……いやいや、精気を吸われると、とっても疲れるんだ。もう、ぐったりとして、しばらくは歩けなくなるくらい。今日はまだまだ歩き足りないし、それはちょっと困るなあ。
さて、どうしたものか。
「そうだ、代わりに、プリッツはどうでしょう?」
「プリッツぅ~? なにそれ」
百聞は一見に如かず。早速、懐からプリッツ(はちみつホットケーキ味)を取り出して、アルラウネさんに差し出してみる。
「これは、焼き菓子? おいしそうな匂い。でも、精気の代わりになるわけないでしょ?」
「まあ、やってみなければわかりませんよ」
ヨーロッパではウィスキーとかを命の水というほどだ。人々を依存させてやまないプリッツも、考えようによっては命の棒だ。きっと、精気の代わりになるはず。
「まあ、食べるだけ食べてあげるけど……」
すいっと、アルラウネさんがプリッツを一本、つまみあげる。
そして、それをさくりと噛み砕いて……。
「あ、ああ、これは!?」
なんと。アルラウネさんの体の花が、満開に咲き誇り始めた。
「お、おいしい! それに、精気が溢れてくる! なんなのこれ! なんなのこれ~!?」
すいっ、さくさく。すいっ、さくさく。
止まることなくプリッツを食べ始めるアルラウネさん。よかった。どうやら気に入ってくれたみたいだ。
プリッツを箱ごと渡し、僕はうんうんとうなづく。
「や、止められない! 少し物足りない感じが、とっても後を引く!」
今度は、サラダ味でも持っていってあげよう。そう決めた僕は、その場を後にした。
「ハナちゃん、ハナちゃん。今日はとっても綺麗な花を見つけたよ」
「なにそれダジャレ?」
家に帰った僕は、デジカメを操作して、今日出会ったアルラウネさんの写真を妹に見せようとした。
「ほら、これこれ。この写真だよ」
「ふ~ん……で?」
「で、じゃないよ。とっても綺麗な人だろう?」
「はあ? 花でしょ、これ」
「そうだよ、花だよ。アルラウネっていってね、花の……あれ?」
確かに僕は、アルラウネさんを撮ったはず。でも、デジカメの画面には、大きな花しか映ってなくて……。
「それが綺麗な人とか、どんだけ飢えてるの、お兄ちゃん」
ふ~む、不思議なこともあるものだなあ。
「それはそうと、シャッターチャンス」
「お兄ちゃん!」
せっかくデジカメを手にしていたので、妹のTシャツパンツ姿を激写しておいた。
拡大プリントアウトして、戒めのためにリビングに飾ろう。そう思ったんだけど、デジカメは妹の蹴りで微塵に砕けたので、実現できなかった。