アラクネ
晩御飯の買い物の帰り、僕は夕暮れの町を一人、歩いていた。
やあ、夕日に照らされると、見慣れた町もずいぶんと違って見えるなあ。
陰影や色彩次第で絵画は大きく印象を変えるが、そんな感じだ。見えていなかったものが見えてきたり、存在感を増したり。
夕日は、日頃意識していないものを浮き上がらせる。
僕の目の前に建つツリーハウスも、その一つだ。ぐねぐねと曲がりくねった奇妙な木の上に、家が建っている。
こんなもの、住宅街にあったんだなあ。でも、日照権とか、その辺りは大丈夫なのかな?
気になって、周囲を見回す。すると、そこには木しかなくて……あれ?
どうやら、買い物帰りに、森に迷い込んでしまったようだ。
ああ、またか。ボーっと歩いていると、よくあることだ。
さて、どこをどう歩いてきたのやら。どっちに行けば帰れるのやら。
ちょうどいい。ツリーハウスに住んでいる人に聞いてみよう。
灯りは点いているし、きっと誰かいるだろう。木に立てかけられた梯子を登り、誰かさんのお家にこんばんは。
「こんばんは、佐久間優人です」
「きゃああああ!? な、なにっ!?」
ツリーハウスの主であろう少女が、びょいーんと跳ねた。むう、何という跳躍力。
「な、な、なにっ? ニンゲン? え? え?」
「いいえ、佐久間優人です」
「ケイン……?」
いぶかしげな顔で、僕を見つめる銀色の髪の少女。体をすくめ、「八本の脚」で後ずさる。……八本?
おや、よく見れば、この子はアラクネじゃないか。上半身は人間で、下半身は蜘蛛そのもの。間違いない。アラクネだ。
じゃあ、ここはアラクネの巣ってことか。なるほど、ツリーハウスの要所は、強靭でしなやかなアラクネの糸で補強してある、と。考えているなあ。
おっと。糸が手に付着してしまった。ベタベタするなあ……あれ? 取れないぞ?
あれ? 脚にもからみついた。取ろうとしているうちに、胴体にも張り付かせてしまった。参ったなあ。身動き取れなくなったぞ。絶体絶命の危機だ。
「へるぷみー」
「あなたがなにをしたいのか、全然わからない!」
奇遇だなあ。僕にもよくわからない。
「なるほどね。森を歩いてたら迷っちゃったんだ」
「そうなりますね」
アラクネさんに糸を取ってもらって、無事、生還を果たした僕。
今は、テーブルを挟んで、アラクネさんと一緒にハーブティーを飲んでいる。
「しかし、中から見ると、意外と広いですねえ。それに、ワンルームなのに多機能だ」
「友だちのワーカーアントちゃんたちに作ってもらったからね。彼女たちは機能的な家作りに長けているから」
「なるほど、道理で……しかし、滑り台まで完備とは思いませんでした」
壁に隠されたレバーを引くと、壁面が変形して外へと続く滑り台となる。
せっかくなので、童心に帰って楽しんでみる。風を切って滑り降りる、このスピード感!
「なにそれ!? 私、知らなかった!! 三年も住んでるのに、全然知らなかった!?」
木の上から、アラクネさんの悲痛な叫び声が聞こえる。それはもったいないなあ。ワーカーアントの人たちも、教えてあげればよかったのに。
「さて、本題ですが……」
「え、ええ、やっとね」
七回ほどツリーハウスから滑り降りた後、滑り台を元に戻して、また、アラクネさんと向かい合う。
なぜか、アラクネさんは疲れた顔をしている。早いところ、話を終わらせよう。
「お聞きしたいことがあるんです」
「うん、帰り道だね? ええと、ここから街へは……」
「いえ、アラクネさんって、一人身ですか?」
「そっち!? あえてそれを聞くの!?」
「ええ……アラクネさんに彼氏がいるのか、いないのかを考えていたら、夜も眠れなくて……」
「私たち会ったばっかりだよね!? 会ったばっかりだよね!?」
そういえばそうだった。
「君と話していると疲れるなあ……あ~、私には恋人なんていないよ。これで満足?」
「あ、お茶のおかわりもらっていいですか?」
「聞、き、な、さ、い!」
むう。アラクネさんが指の先から出した糸でぐるぐる巻きにされた。
小指ですら、ピクリとも動かせないぞ。絶体絶命の危機だ。
「へるぷみー」
「しばらくそこで頭を冷やしていなさい!!」
ああ、アラクネさんがそっぽを向いてしまった。お冠だなあ。二杯目はそっと出せばよかった。
「しかし、君も変なニンゲンだよねえ。私を見ても怖がらないなんて」
アラクネさんは、僕が落としたスーパーの袋を拾い上げながら、呆れたような、安堵したような息を吐く。
「アラクネさんを怖がる人がいるんですか?」
「まあ、こんな形だからね。ちっちゃい女の子とか、蜘蛛が苦手でしょう? 街を歩いていると悲鳴をあげられるの」
うん、と伸びをして、窓の外、遠くを見つめるアラクネさん。その先に、街があるのだろう。彼女の目は、どこか寂しげだった。
「でも、男の子には人気でしょう? それでいいじゃないですか」
「あっはは、なんでよ。男の子も、怖がって近づいてこないよ」
「え……そんな。八本脚とか、タコっぽくてかっこいいのに」
「なんでよっ!? ねえ、見て! 私、蜘蛛! タコじゃなくて蜘蛛!」
それは、見ればわかる。
「かっこいいものが、男の子は大好きなんだけどなあ……」
「なにか間違ってる気がする……」
アラクネさんがげんなりしている。蜘蛛の下半身とか、気苦労が多そうだからなあ。お風呂での手入れとか。
「ちなみに、僕はいつまでこのままなんです?」
床に糸がくっついて、転がることもできそうにない。
「はあ~、しばらくそうしていなさいって言ったでしょう? 流されるままにお茶まで淹れてあげたけど、考えてみると、こんな森の奥までニンゲンが来るなんて変だわ。少し調べさせてもらうわよ」
「はあ、どうぞ」
僕なんかを調べても、面白くも何ともないと思うんだけどなあ。
「んんっ? なにこれ。お肉や野菜が、透明な袋に入ってる」
ああ、調べるってそっちからね。アラクネさんは、僕が持っていたスーパーの袋を漁りはじめた。
「果物も入ってる。それに、これは、海魚の切り身? ねえ、貴方、どこでこんなの手に入れたの? 街は遠いし、海はもっと遠い。でも、どれも新鮮だわ。不思議。ほんとに、どこで手に入れたの?」
アラクネさんが、ブリの切り身パックを片手に、首をひねっている。
そんなに不思議なことかなあ。ここからスーパーまで、歩いていける距離だよ?
「ええと、森を抜けたところに販売所がありまして」
「嘘。森を抜けたら、平原しかないわ。森の中には魔物の家や集落はあるけれど、こんなものを売ってる市はない」
「いや、本当なんですよ。現に、僕はそこから歩いてきましたし」
「それも嘘。今の時期、森にはゴルムスがうようよしているのよ。武器も持たないニンゲンが、歩いて抜けることなんてできないわ」
ゴルムス……ああ、あのワイルド鹿。
「おいしかったですよ?」
「食べたのっ!?」
アラクネさんが、ショックを受けた顔をしている。あれ? 食べちゃ駄目だったの? 絶滅危惧種だったとか?
「すみません、ワーウルフさんたちにすすめられたので、つい、食べちゃいました。おかわりもしました、すみません」
「あ、ああ、ワーウルフたちに助けてもらったのね。あの種族はニンゲン大好きな子が多いものね。彼女たちの助けがあったのなら、森も歩けるわよね」
……ああ、ワーウルフたちは狩猟権を持っていたのか! よかった、彼女たちがいてくれて。またプリッツをあげにいこう。
「さて、話を戻すわ。ありえないはずの食材を持っていて、わざわざ、この時期の森に入る。そして、私の家に忍び込んだ。どうして?」
「晩ご飯の買い物に出た帰りに、迷っちゃったからです」
「嘘はいいから」
本当なのになあ。
「話を続ければ続けるほど怪しくなるわね……ねえ、ほんとになにをしに来たの?」
アラクネさんの赤い瞳が妖しく輝く。あわわ、警戒色や! 助けてナウシカ!
ええい、ままよ! かくなるうえは……!
「友だちに、なりにきました」
お父さんはこう言いました。初対面の奴とは、とりあえずダチになっとけ! そうすりゃあ、たいていなんとかならぁな! ガーッハッハッハッハッ! と。
困ったときのお父さん頼み。アイ、ウォントゥー、フレンド。
「え……」
あれ? 駄目っぽい。お父さん、駄目っぽいよ。
アラクネさん、唖然としております。
「え、え……」
かしゃーん。ふらついたアラクネさんが、机の上のティーカップを落として割ってしまった。かなり駄目っぽい。
ああ、お父さん。貴方はまた適当なことを言いましたね。もう、単身赴任から帰ってこなくていいです。バイバイ、ダディ。
「それ、ほんと……?」
「え?」
「友だちになってくれるって、ほんと……?」
「ええ、まあ」
おや? アラクネさんがもじもじし始めたぞ。おしっこ?
「わ、私ね? ニンゲンのお友だち、欲しかったの」
「はあ、そうですか」
両手の人差し指と、前脚の先端を、体の前でちょんちょんと突っつき合わせている。
「ほ、ほんとに友だちになってくれるんだよね? 私、アラクネだよ? 蜘蛛女だよ? 怖くないの?」
「まんじゅうなら怖いです」
「ま、まんじゅう?」
熱いお茶ならもっと怖い。
「とにかく、友だちになりたいんだよね? それは間違いないんだよね?」
「はい」
「え、えへへ……」
なんと、あれほど僕を疑っていたアラクネさんが、糸を解いてくれた。
お父さん。貴方の友だち理論は正しかったようです。サンキュー、ダディ。
「ニンゲンのお友だち……えへへ」
はにかんだアラクネさんが前脚で、ちょん、と僕をつついてくる。
ちょん。ちょん。
アラクネさんのつっつきは、まだまだ続く。
「そんなに催促しなくても、お菓子ぐらいあげますよ」
「お菓子をねだったわけじゃないよ!?」
ふう~、しょうがない人だ。お菓子が欲しいなら、そういえばいいのに……。
「はい、プリッツです。どうぞ」
スーパーの袋からプリッツ(サラダ味)を取り出して、封を切って中身を差し出す。アラクネさんは、興味深そうにパッケージを見てから、プリッツを一本、取り出した。
「かいだことない匂い。おいしいの?」
「物足りないしょっぱさと堅さです」
「おいしくなさそうだね!?」
ほめ言葉なのに。
「う~ん、でも、揚げパスタに似てるから、食べれないことはないはず……えいっ!」
おっ、アラクネさんがプリッツを食べたぞ。ふむふむ~、なんて言いながら、もぐもぐと口を動かしている。
「確かに、物足りないね。でも……」
もう一本、プリッツを取り出したアラクネさん。そのまま、ポリポリとプリッツをかじる。
気に入ってくれたようだ。安心して、僕も同じ袋からプリッツを取り出し、食べる。
「~♪」
ニコニコと笑いながら、二人でプリッツをかじる。しばしの間、部屋にはポリポリ、ポリポリという音だけが響く。
「なんだか、いいね、これ。友だちっぽいね」
「これはサラダ味ですよ……?」
「雰囲気のことだよ!?」
味の感想かと思った。
その後、妹やお母さんが待っていること、一人でも心配要らないことを告げ、お暇することとなった。
「また遊びに来てね」
アラクネさんは、少し寂しそうだったけれど、僕も家に帰らなくちゃいけないからね。意識して、スパッと帰らなきゃ。
「はい、また後日、必ず遊びに来ますね。では、さようなら」
壁を二度叩くと、床の一部がパカッと開いて、そのまま僕は落下する。
「まだ私の知らない機能が!?」
ツリーハウスからは驚きの声が上がっていた。ああ、玄関から出るべきだったかな。急ぐあまり、礼を失してしまった。
まあ、でも、早くしなくちゃ妹が飢えた野獣と化すんだ。許して欲しい。
すっかり日が暮れている。早く帰らなきゃ。
気持ち早足で、てってこ、てってこ歩く。
すると、前方に見慣れた灯りが見えてきた。我が家だ。
「お兄ちゃん。何してたの? 散歩はいいけど、買い物の途中に寄り道するのは止めてって言ってるでしょ?」
玄関の扉を開けたら、妹が腕を組み、仁王立ちをしていました。我が家兼、モンスターハウスだ。
「ハナちゃん。家の中でも服は着なさいって言ってるでしょ?」
仁王立ちのせいで、Tシャツでパンツを隠しきれていない。
「それとこれとは話は別!」
「いいや、おんなじだね!」
互いに譲れぬ一線。ここで退けば、妹はTシャツすら着用しなくなるかもしれない。
天下分け目の大勝負。これは、負けられない……!
「おなかすいた~、早くして~……」
リビングから、お母さんの声援が聞こえた気がした。