スライム
ボールスの街には、様々なお店がある。
日用雑貨から食料品まで取り扱うケット・シー商会。ドリアードの花屋さん。アイスゴーレムのジェラート&ドリンクショップに、ドワーフの鍛冶屋さん。
サキュバスの娼館に、サハギンの海鮮居酒屋さん。ハーピーの郵便屋さんに、ワーシープの衣料品店。
珍しいものでは、ゴーストのお化け屋敷なんてものもある。
多種多様な、街のお店。
その中に、一つだけ、僕には理解できないものがあった。
「スライム屋、って何なんだろう……?」
町の外れのスラム街に、その店はあった。
スライム屋。
粗末な木製看板には、そうとしか書かれていない。店にはこれまたおんぼろなドアが一つあるだけで、中をのぞき見ることすらできはしない。
「入ってみるしか、ないのかなあ」
屋、というからにはお店なのだろう。
なら、入っても問題ないはず。
「おじゃましま~す」
だから、僕は思い切ってスライム屋に入ってみたんだけど……店の中には、何もなかった。
いや、正確にいえば、「テーブル以外には何もなかった」だ。
6畳ほどの小さな店内の真ん中に、丸いテーブルがぽつんと一つ。
そして、その上に載せられた、値札つきの小さな丸瓶。
他には何もない。スライム屋には、それだけしかなかった。
「これがスライムなのかなあ」
瓶をひょいと持ち上げてみる。中に入っているのは透明感のある水色の液体で、軽くふると、とろり、とろりとわずかに揺れた。
うん、子どものころに、子ども会のイベントでつくったスライムとそっくりだ。
懐かしいなあ……うちの妹は、赤い色をつけたスライムが好きだったっけ。ほっておくと、いつまでもぺたぺたぺたぺた触っているほどに。
「うん、安いし、お土産に買って帰ろう」
しょせんは糊とホウ砂の混ぜものだ。そんなに高いわけもなく、丸瓶にかけられた値札には、「銅貨一枚」と書かれている。
これなら悩むこともない。僕は妹へのお土産に、スライム入りの丸瓶を購入した。
「お代はここに置いとけばいいのかな?」
店内中央のテーブルに、銅貨を一枚置いておく。
なにせ、ここにはレジもないんだ。たぶん、露店販売のようなものだろう。
そう判断した僕は、丸瓶をサイドバッグに入れて、スライム屋を後にする。
「まいどあり」
「えっ?」
店を出て、ほんの少しだけ進んだら、後ろから声が聞こえた。
もしかして、店主さんがいたのだろうか。
そう思って振り返ってみるも……。
店主どころか、スライム屋自体が、きれいさっぱり消え失せていた。
「あれ?」
店があった場所には、塗りがはげ、レンガが剥き出しになっているスラム街の外壁があるばかり。
どこにも扉はないし、よくよく考えてみると、外壁をくりぬいてお店なんて作れるはずはない。
でも、僕は少し前まで、スライム屋にいたわけで……。
「う~ん、不思議なことも、あるもんだ」
世界は不思議に満ちている。
考えてもわからないことなんて、たくさん、たくさんある。
でも、確かなことも、もちろん存在している。
「例えば、この小瓶とか、ね」
そう、僕がスライム屋で、この丸瓶を買ったのは、確かなことだ。
財布の中からは銅貨が一枚、消えているし、僕の手の中にはスライム入りの瓶がある。
この場合、それが一番、大事なことだ。
妹へのお土産を、確かに買えた。それさえ確かなら、お店がゴーストのように消えてしまっても、別にかまわない。
「あ、でも、お母さんもスライムを欲しがったら、どうしよう」
お母さんもスライムが好きだからなあ……。妹と取り合いになっても、お店が消えてしまったから買い足しもできない。
「肉球ボールでもあげようかなあ」
自分用の肉球ボールをポケットから取り出し、ぷにぷにと握る。ああ、やはり肉球ボールはいいものだ。
うん、お母さんにはこっちをあげよう。それで、スライムは諦めてもらおう。
右手で肉球ボール、左手でスライム入りの小瓶を手遊びしつつ、僕は夕暮れのスラム街を歩く。
お土産を受け取った家族の笑顔を頭に描いて、土の地面をざくざくと歩く。
途中、立ち寄った市場で、晩御飯の材料や、竜巻号用のお土産を買いながら、僕はのんびり、家へと帰った。
「おかしいなあ。喜んでくれると思ったんだけどなあ」
日も暮れ、夜も更け、時刻は深夜二十三時。
ベッドに転がった僕は、先ほどの出来事を思い出していた。
「子どもじゃないんだから、スライムなんかいらない」
妹は、スライム入りの瓶を受け取ろうともしなかった。
こちらをちらりと見たかと思うと、すぐに雑誌に目を戻して、小瓶を見ようともしなかった。
「ああっ! ぷにぷに……! なんてぷにぷに……! お兄ちゃんがこんなのを隠し持っていたなんて……!」
対照的に、お母さんは大いに喜んでくれた。
肉球ボールをぷにぷにぷにぷに触りまくって、なぜか頬を上気させていた。
竜巻号だって、そうだ。
わんちゃん用のゴルムスの干し肉を渡してあげたら、しっぽをぶんぶんとふりたくって、いそいそとケージに持って帰っていた。
きっと、誰も見ていないところでこっそり食べるのだろう。竜巻号は、がっつく姿を見せないわんこだからね。
うん、お母さんと竜巻号は、喜んでくれたんだ。
でも、妹だけは、全然喜んでくれなかった。昔はあんなに喜んでくれたスライムを、見向きもしてくれなかった。
「ハナちゃんも、もう子どもじゃないってことなのかなあ……」
妹も、来年は中学生だ。無邪気なままではいられないのだろう。
考えてみれば、ハナちゃんだって成長しているんだ。
小さい頃は、泣き虫で、お兄ちゃんっ子だったけれど、近ごろは強くなったし、甘えてくることもなくなった。
普通に考えれば、それはいいことだ。自立に向けてのステップアップ。喜ばしいことじゃないか。
それは分かるんだけど……妹の成長が、嬉しい半面、ちょっとだけ寂しかった。
「いけない、いけない。僕の方こそ、妹離れしなくっちゃ」
手の中でいじっていたスライム入りの小瓶をサイドボードの上に置き、壁のスイッチを押して、部屋の明かりを消す。
そして、布団の中に潜り込んで、目を閉じる。
明日はピケットさんのお店でアルバイトだ。そろそろ寝ないと、明日の仕事に響くかもしれない。
幸い、寝つきはいい方だ。暗闇の中、目を閉じていると、すぐさま眠気が襲ってくる。僕は夢の世界へと、旅立っていく――――。
眠ってしまう直前、サイドボードの方から物音が聞こえた気がしたけれど、確かめるのも億劫だったので、僕はそのまま、眠ってしまった。
「ぱぱ……おきて、ぱぱ……」
「う、んん……」
「おきて……ねえ、おきて……」
誰かが僕を、呼んでいる。
僕の体を揺さぶって、僕を目覚めさせようとしている。
いったい、誰だ? もしかして、お母さん?
「うう~ん……お母さん、トイレにいけなくなるから、夜にホラー映画を見ちゃいけませんって言ったでしょ……」
「ちがうよ……ぱぱのままじゃないよ……」
「あれ? ちがうの?」
まさかの否定に、びっくり。おかしいなあ、うちでは僕を夜中に起こすのは、お母さんしかいないはずなのに。
驚いた拍子に、睡魔がどこかへ飛んでいってしまった。
ぱちりと目を開け、上半身を起こしてみる。
すると、僕の両足の間に腰を下ろした、一人の少女と目があった。
「おはよう、ぱぱ」
「うん、おはよう」
フレンドリーな挨拶につられてしまったが、見たこともないぞ、こんな子は。
妹でもないし、お母さんでもないし、ご近所さんでもない。
かといって、ボールスの町にも、こんな知り合いはいなかったし……まさか、泥棒さん?
「ハートはあげませんよ」
「はーと?」
どうやらちがったらしい。少女は不思議そうに首をかしげている。
しかし、見れば見るほどに変わった女の子だなあ。
体は水色で半透明だし、下半身はドロドロに溶けてまとまっているし、妙にたぷんたぷんしているし。
「おまけに服を着ていない。きゃっ、エロス」
「ふくなんてきないよ。だって、スライムだもん」
えっへん、と胸を張る少女。その弾みで、二つのふくらみが、ぷるる~んと揺れる。
なるほど、この子はスライムだったのか。道理で、たぷんたぷんしていると思った。
「そのスライムちゃんが、どうして僕の部屋にいるのかな?」
スライムであることはわかったけれど、僕の部屋にいる理由がわからない。
また、お父さんが、友だちの娘さんを連れてきたのかな?
「おぼえてないの? ぱぱがわたしをつれてきたんだよ?」
「ああ、やっぱりそうか。お父さん、帰ってきたんだ。お父さんは、もう部屋に戻った?」
まだリビングにいるようなら、おかえりの一つでも言おう。そう思って、ベッドから降りようとすると、スライムちゃんが僕のそでを引っ張った。
「ぱぱは、ぱぱだよ。あなたが、わたしのぱぱ」
「お、おお?」
ぐいと引き寄せられ、僕はスライムちゃんの体に倒れ込んで……お、おおお?
何だ、これは。僕の体が、スライムちゃんの中に沈み込んでいくぞ。
頭が、腕が、体が、半透明のゼリーに、じわり、じわりと包まれていく。柔らかな粘液が、僕の全てを抱きしめてくる。
不思議と、息苦しくはない。呼吸はできるし、暑苦しいなんてこともない。
まるで、ウォーターベッドの中に、埋め込まれたような気分だ。
「あなたがわたしを外のせかいにつれ出してくれた。だから、あなたはわたしのぱぱ。わたしはぱぱのむすめなの」
鼓膜まで浸す粘液から、声が聞こえてくる。スライムちゃんは、お腹の中の僕を見て、微笑んでいる。
「ぱぱは、むすめといっしょにいるの。ぱぱは、むすめにやさしくしてくれるの」
ずるり、ずるりと、僕の下半身までも、スライムちゃんに飲み込まれていく。
スライムちゃんは、ただただ、無邪気に微笑んでいる。
「そして、ぱぱはむすめに、ごはんをくれるの」
僕の体の全てがスライムちゃんに呑みこまれたとき、彼女はお腹を鳴らした。
ぐ~、と、大きく、大きく、お腹の虫が鳴いた。
それをごまかすように、彼女は恥ずかしげに笑った。
「おなかすいたなあ、ぱぱ」
にっこりと、ただただ無邪気に、彼女は笑った。
「じゃあ、プリッツでもあげようかな」
だから、僕は秘蔵のプリッツをあげることにした。
スライムちゃんの体からちゅるんと抜け出して、机の引き出しを開ける。
「な、なんで!? なんでとけないの? なんでぬけ出せるの?」
後ろから、スライムちゃんの焦った声が聞こえる。そんなに急かさないでも、今、あげますよ。
「はい、どうぞ。お好み焼き味のプリッツだよ」
「ぷ、ぷりっつ?」
「そう、プリッツ。おいしいよ」
たぶん、プリッツを見るのは初めてなのだろう。戸惑うスライムちゃんにプリッツをもたせ、まず僕が口にしてみる。
ポリポリと口を動かして、スライムちゃんも食べてみなよ、と目でうながしてあげる。
すると、スライムちゃんは、ためらいながらもプリッツを口にした。
「んむ……ん~! お、おいしいっ!?」
そして、目を輝かせて、ポリポリ、さくさくとプリッツを食べ始めた。
「ああ~! おいしい! これ、おいしいよ、ぱぱ!」
「そう。よかったね」
そのままスライムちゃんは床に座り込んで、プリッツを食べ続ける。
僕はベッドに座って、にこにこしながら、彼女を見守る。
昔は妹も、こんな感じで純粋無垢だったなあ……。
時おり哀愁を感じながらも、僕はスライムちゃんの頭をなでなでする。
彼女は昔の妹を思わせる笑顔で、プリッツをさくさくかじる。
なでなで、さくさく。時間がただ、過ぎていく……。
どれぐらいそうしていただろうか。気がつけば、僕は眠ってしまっていて、スライムちゃんは姿を消していた。
あれは夢だったのだろうか。妹の成長への寂しさが見せた、泡沫の夢。
朝日を浴びながら、そんなことをぼんやりと考える。
サイドボードに置いていたスライム入りの小瓶が、きらりと光ったような気がした。