ハーピー
セールをしていた街の電器屋で、風船が配られていた。
何となく受け取り、そのまま、歩いて家まで帰る。
市街地から僕の家までは、徒歩二時間だ。でも、まあ、大した距離じゃない。十分、歩いて帰れる。
むしろ、帰り道を変えて楽しむ余裕すらあるぐらいだ。
問題ないない。全然大丈夫。どの道も、何度も通ったよ。
と、思っていたんだけど……。
「さすがに、虹の上を歩くのは、初めてだなあ」
帰り道をどこで間違えたんだろう。ふと気がつくと、僕は虹の上を歩いていた。
七色に輝く、大きな、大きな、アーチ状の橋。
思ったよりも幅が広いな。それに、結構硬い。
虹の橋に座り込んで、コンコンと地面を叩いてみる。すると、そこから波紋が広がって……おお、虹が揺らめいている。幻想的な光景だ。
やあ、また道に迷ったのかと思ったけれど、これはいいかもしれない。
どこをどう歩けば帰れるのかはわからないけれど、とりあえず、向こう岸まで行ってみよう。
そう決めて、僕は天空にかかった虹の上を歩き出したんだけど……。
「ね、ねえ? キミ、何で虹の上を歩けるの?」
十メートルも進まないうちに、隣から、ものすごく心配そうな声をかけられた。
横を見ると、両腕の代わりに翼を生やした女の子がいた。
翼や太ももに生えた羽毛は空のような薄青色なのに、髪と瞳は大地のような土色だ。その対比が、とても印象的な子だった。
「こんにちは、ハーピーさん」
「え? あ、はい、こんにちは……?」
ハーピー。
翼人とも、鳥人とも呼ばれる、空の民だ。両腕両脚が鳥のような彼女らは、見かけ通り、空を自在に飛ぶことができる。
そんな彼女らと、同じ高さを「歩いて」いる。これは、なかなかできる経験じゃないぞ。帰ったら、妹に自慢しよう。
「ね、ねえ、だから、なんで虹の上を歩けるの?」
ハーピーさんが、また、心配そうな声をかけてくる。んん? 彼女は何が言いたいんだ?
「え? もしかして、虹って歩けないんですか?」
「そりゃあ、そうだよ! 歩けるわけないじゃん!」
「でも、僕、歩いてますよ?」
「え? あ、うん、そうだ、ね……?」
納得していただけたようだ。よかった、よかった。
「では、僕は家に帰る途中なので。さようなら、ハーピーさん」
「あ、うん、じゃあ……」
翼をもつ人が羽ばたき続けるのは、いかにも疲れそうだ。
だから、空の上で長話はいけないな、と思い、僕はハーピーさんに別れを告げた。
そして、また虹の上を歩きだす。
やあ、空気は澄んでいるし、景色は綺麗だし、まるで登山に来たみたいだ。
思いもよらない場所に迷い込んでしまったけれど、これはいいなあ。
定番の散歩コースに決めても、いいかもしれない。
そう思っていた矢先に……。
パーン!
手に持っていた風船が、割れた。
「あれ?」
前方には、もの凄い速度で遠ざかっていく渡り鳥の群れが。
ああ、彼らが僕を追い越して、その際に、くちばしか爪が当たったのか。
電器屋さんでもらった風船は、糸と残骸だけになってしまった。
妹にあげようと思っていたんだけど……まあ、いいか。ハナちゃんには、代わりにプリッツでもあげよう。
気を取り直し、僕はまた、前に向かって一歩踏み出す。
そして、虹の橋から落ちた。
「……あれ?」
いや、違うな。落ちたというよりは、すり抜けたという感じだ。
虹の橋をすり抜けて、僕は今、地上へ向かって真っ逆さまに落下している。
はて、さっきまでは問題なく歩けていたんだけどなあ。もしかして、風船が割れてしまったからだろうか。
「あ~れ~」
余計なことを考えている時間は、あまりなさそうだ。みるみるうちに、地面が近づいてきている。
さて、いったいどうしたものか。ハーピーさんが追いかけてきてくれているけれど、間に合いそうにないや。
激突まで、残り五秒ぐらいかな。
四、三、二、一……。
「前回り受け身!」
くるん。すたん。
柔道の基本、前回り受け身で、事なきを得た僕。
うん、今のはうまくきまったぞ。土がついたぐらいで、どこにも怪我はない。
「やあ、人間、やればできるものだなあ」
「キミ、絶対、ニンゲンじゃないでしょ……!」
会心の前回り受け身に、片手でガッツポーズをきめる僕。
遅れて降りてきたハーピーさんは、冷や汗をびっしょりとかきながら、へたりこんでいた。
「本当にキミ、ニンゲンなの? 実はゴーストとかじゃないの?」
「違いますよ。でも、前回り受け身に失敗していたら、危うくゴーストになるところでしたね。あはは」
「怖がってすらいない……やっぱりニンゲンじゃないんだ」
何故かげっそりとした顔のハーピーさんと並んで、僕は街道を歩く。
目指すは、ボールスの町。そこからなら、家までの帰り道がわかるからね。晩御飯までには、何とか帰っておきたい。
「でも、いいんですか? 道案内をしてくれるのは嬉しいんですけど、ハーピーさん、仕事中でしょう?」
隣を歩くハーピーさんに、そっと尋ねる。
そう、彼女は、郵便配達の途中なんだ。
自慢の羽で、町から町へ、家から家へと手紙を運ぶ、空の郵便屋さん。
少し話を聞けば、先ほども彼女は、仕事のために飛んでいたらしい。
そんな仕事中の人に付きっきりで案内してもらうのは、ちょっとだけ、気が引ける。
だから、僕は遠回しに、かまうことはないですよ、と伝える。
「いいの、いいの。今日の配達はあと一つしかないからね。それも、この道の途中にある小屋が宛先だから、大した手間じゃないよ」
「でも、ハーピーさんって、空を飛べますよね? わざわざ歩いたら、その分、帰るのが遅くなるんじゃ……わっ!?」
こしょこしょこしょ。
空色の羽で、僕の鼻先をくすぐるハーピーさん。たまらず、くしゃん、くしゃんとくしゃみをすると、彼女はからからと笑って、僕から離れる。
「あははっ、子どもがあんまり遠慮しないの。ここは素直に、お姉さんに甘えときなさい」
晴れ空のような笑顔で胸を張る、ハーピーお姉さん。やあ、これは頼もしいなあ。
って、んん? お姉さんだって?
「失礼ですが、お歳は?」
「歳? 16だよ」
「なんだ、やっぱり同い年じゃないですか」
「うそっ!?」
「本当です」
「うそぉ……!?」
ハーピーさんは、愕然としている。そんなに意外だったんだろうか。
確かに僕は童顔だけど、同い年の子に子ども扱いされたのは初めてだなあ。
働いている人は、学生が幼く見えるそうだけど、ハーピーさんもそうなんだろうか。
でも、僕は本当に16歳だ。
「その証拠に、犬笛も持っています」
「犬笛?」
ポケットから、小さな笛を取り出してみせた。銀色にピカピカと輝く、シンプルな犬笛だ。
「これを鳴らすと、我が家の愛犬が来てくれるんです」
「それはすごいと思うけれど……それじゃ、16歳の証明には、ならないよ?」
「そうなんですか!?」
竜巻号が、「16歳のお祝いです」ってくれたものだから、てっきり16歳の証しか何かだと思っていたんだけど……そうか、違うのか。
「しかし、せっかくなので、使ってみます」
「なんで!?」
「あおーん!」
「ひいっ!? ほんとに犬が来た!」
なだらかな丘の向こうから、弾むようにこげ茶の塊が走ってくる。我が家の愛犬、竜巻号だ。
竜巻号は、名前に恥じない速さで走ってきたかと思うと、僕の足元でちょこんとお座りをする。
息も乱れていないし、へろへろと舌を出してもいない。いつも通り、凛々しい豆柴ちゃんだ。
「おお、よしよし。いつもかわいいね、お前は」
よくできたわんこを、ひとしきり撫で撫でする。
すると、竜巻号は、「用がないなら、帰ります」とばかりに、一度だけしっぽを振って、去っていった。
「しまった。竜巻号に、僕が16歳だってことを証言してもらえばよかった」
「キミが16歳とか、そうじゃないとか、もう、どうでもよくなってきた……」
何故かハーピーさんはげっそりしているし、人生ままならないものだなあ。
「見えたよ。あそこだ」
「ああ、あれが」
墜落地点から歩き続けて、二十分くらい経っただろうか。
僕たちは、街道から少し離れたところにある、森の入口に来ていた。
まだ秋の到来を感じさせない緑の木々の奥から、煙が立ち昇っているのが見える。
「この手紙は、この森で炭焼き職人をしている、グリットニーさん宛てのものなんだ」
ハーピーさんは、肩に下げた赤いバッグから、一通の手紙を取り出した。
分類的には絵葉書になるのだろうか。封筒にも入れられていない手紙には、けっしてうまくはない絵が描かれ、みみずがのたくったような字が記されていた。
「子どもからの手紙、ですか?」
「ううん、お孫さんから。グリットニーさんは、お爺ちゃんなの」
「なるほど」
鳥のような脚で軽快に歩くハーピーさんの後を追い、僕も森へと入っていく。
きっと、できあがった炭を台車に載せて、街道経由で町へと持っていっているのだろう。炭焼き小屋への道には、一対の轍が刻まれていた。
「グリットニーさーん! おーい! 手紙を持って来たよー!」
しばらく歩くと、開けた場所に出た。
大きな炭焼き窯に、木材置き場。そして、丸太で組まれた家が、森の中にぽっかりと開いた広場に並んで建っている。
そして、広場の中央にある切り株に腰を下ろし、炭焼き窯をじっと見つめているのは、年老いたオーガだ。
彼は、ハーピーさんの声に振り返ると、厳しい顔をくしゃりと歪めた。
「おう、おう、すまないな。また、孫からの手紙を、持ってきてくれたか」
白髪の鬼は、しわがれた声でハーピーさんを出迎える。
そしてハーピーさんは、歌うように弾んだ声で、彼に手紙を手渡した。
「はーい、郵便でーす♪ お孫さん、ちょっとだけ絵がうまくなってますよ?」
「はは、世辞はいいよ。あいつは、俺に似て、絵がヘタクソなんだ。なのに、いっつも描いてきやがって……ふふふ」
顔のしわを更に増やして、老オーガはにこにこと笑う。
大きな手で、小さな手紙を受け取り、本当に嬉しそうに笑う。
ハーピーさんも、つられるように笑っていた。
「さて、せっかく来てくれたんだ。茶でも淹れようか」
手紙を懐に入れ、どっこらせ、と切り株から腰を上げる老オーガ。それを、ハーピーさんが慌てて止める。
「ごめん、グリットニーさん。わたし、この子を町まで連れていかなきゃいけないから、今日は長居はできないんだ。ほんとにごめんね」
そう言われて、初めて僕に気づいたのか。老オーガは、目をしぱしぱと瞬かせて、僕を指差した。
「おい、こいつぁ、お前さんのいい人かい」
「へえ!? ち、違うよ! なに言ってんの、グリットニーさん!」
顔を真っ赤にして否定するハーピーさん。その様子を、老オーガは面白そうに笑う。
「ははは。相変わらず、色恋沙汰に免疫がねえなあ。そんなんじゃ、行き遅れるぞ」
「も、もう! 知らない! 行こ、キミ」
「あ、はい。さようなら、グリットニーさん」
「おお、さようなら」
僕は、赤面したハーピーさんに手を引かれ、炭焼き場から遠ざかっていく。
手を振る老オーガが段々と小さくなり、やがて視界から消えても、ハーピーさんは歩調を緩めない。それどころか、街道に戻っても、ずんずんと進み続ける。
う~ん、どうにも歩きづらい。ここらで一つ、声をかけてみるかな。
「すみません、ハーピーさん。子どもが見ています」
「ひゃっ!?」
乗り合い馬車から、インプの子どもたちが、こちらをじっと見ていた。その視線に気づき、ハーピーさんは飛び跳ねるように僕の手を放した。
「手を繋ぐのはいいんですけど、後ろ向き、というのは、少し歩きにくかったです」
「うっ……ごめんね。グリットニーさんが変なことを言うから、恥ずかしくなっちゃって」
また、カーッと顔を赤く染めて、うつむくハーピーさん。よく赤面する人だなあ。
「もしかして、男の人が苦手なんですか?」
「いや、男の人は平気だよ? ただ、愛とか、恋とか、そういう話、わたし、苦手なんだ」
「そうでしたか」
「はい、わかったら、この話はもう止め止め! はい、おしまい!」
「わかりました」
ハーピーさんは、「あ~、もう」とつぶやいて、自分の羽で自分をあおいでいた。
そして、うんと伸びを一つ。彼女は街道に向き直り、サイドバッグをポンと叩いた。
「わたしは、仕事ができれば、それでいいの。町から町へと、人から人へと。気持ちがこめられた手紙を運ぶの。恋人とか、考えたこともないよ」
たったったっ、と、リズミカルに丘を登るハーピーさん。僕も続いて、丘を登る。
「ねえ、見て? あれがボールスの町。それから、ずっと向こうに見えるのが、ミナルナの町。森の中にはいくつも集落があるし、ミッドナイト王国との国境も近い」
近くに背が高い建造物も、山もないせいか、小高い丘からは、広い世界が見渡せる。
ハーピーさんは、両腕の翼を広げ、僕に世界を指し示す。
「ここから飛んでいける距離に、これだけの町があるんだ。そして、そこにはたくさんの人が住んでいる。恋なんてしていたら、その人たちの手紙を届けられないよ!」
「わっ、わっ」
ハーピーさんは、ばさりと飛び上がったかと思うと、大鷲のような両足で、僕の腕をがっしりとつかんできた。
「ほら、力を抜いて。このまま、一気にボールスまで飛ぶよ! この丘は、いい風が吹いているんだ」
「おお~」
まるでグライダーのようにふわりと浮きあがり、そのまま宙を滑るように飛んでいく僕たち。
まさに、風を切って進んでいるようだ。耳にはごうごうと風の音が響き、周りの景色はあっという間に流れていく。
「あはは、どう? 空を歩くんじゃなくて、飛んでいる気分は? 気持ちいいでしょ?」
「最高ですねえ」
うん、悪くないぞ。空を飛ぶというのは、こんなに気持ちいいことだったのか。
走ったり、自転車に乗るのとは、全然違ったスピード感、爽快感がある。
まるで風になったみたいとは、よく言ったものだ。
ただ、難点を挙げるとすれば……。
「腕がめちゃくちゃ痛いです。爪が喰いこんでいます」
「え? ああああ~~~~~っ!?」
薄地の半袖の服では、ハーピーさんのごつい爪を防ぐことはできなかったようだ。
「鷹匠も、素手では鷹を扱わないって言いますしねえ」
「ごめん! ノリで飛んじゃって、ほんとにごめん!」
空中でぺこぺこと謝るハーピーさん。ぽたぽたと血を垂らす僕。
とんだフライトになったけれど、何だかんだで空を飛ぶことができて、僕はけっこう、満更でもなかった。