ヴァンパイア
僕が散歩をするのは、何も昼間に限ったことではない。
早朝だって、夕方だって、どんな時間だって、僕は歩き回るんだ。
それでも、特に風情があるな、と思うのは、夜の散歩。
日が沈み、人々が寝静まった頃にそっと家を抜け出して、人気のない住宅街や、田んぼと畑に挟まれた田舎道を、静かに、ゆっくりと歩く。
月明かりは頼りないけれど、空気が綺麗な田舎は、星の光が降り注ぐからね。懐中電灯なんて、必要ない。
しばらくの間、あてどなく歩き続ける。げこげこと、蛙の鳴く声。りーん、りーんと、鈴虫の音色。
夏と秋の音が混ざり合い、僕の耳に優しく響く。
ああ、こんなに良い夜は、きっとあの子が来るだろう。
金糸のような髪に、血のように紅い瞳。黒いマントに、長い牙。
夜の支配者、ヴァンパイアが、きっと僕に会いに来るだろう。
「こんばんは。いい夜ね」
「こんばんは。いい夜ですね」
田舎道を少し外れた場所にある東屋で座っていると、闇から少女が現れた。
月と星の明かりに照らされながら、一歩、また一歩、僕に近づく少女。
アクシエラさん。高校生ほどの歳に見える、自称17歳の吸血鬼だ。
「僕の血を吸いに来たのですか?」
「ええ、貴方の血を吸いに来たの」
くすりと微笑み、アクシエラさんはしなやかな人差し指で、僕のあごをつつつ、となぞり上げる。
そして、今度は首筋を撫で、また、くすりと笑った。
「耳に入っているわよ。貴方、ミッドナイト城に迷い込んだそうね」
「ええ。お姫さまと遊んだんです」
「遊んだ? 何をしたの?」
「かくれんぼをしました」
「まあ、かくれんぼを……うふふ」
にんまりと微笑んで、アクシエラさんは僕の隣に座った。妙に距離が近い。どうやら、ご機嫌なようだ。
「知ってる? ゴーストとかくれんぼをしたら、ゴーストにされちゃうって話」
「それは知りませんでした」
「ゴーストになったら、困るわよね?」
「いいえ。子どもの頃から、一度、透明人間になってみたいと思っていたんです」
アクシエラさんが、口元を押さえ、くすくすと笑い始める。
「うふふ。そういえば、まだちっちゃい頃に、そんなことも言ってたわね」
「ええ、そういう話を、しましたね」
アクシエラさんとは、長い付き合いだ。彼女とは、こういった昔話にも、花を咲かせることができる。
「でも、駄目よ。ゴーストになったら、血が吸えなくなるじゃないの」
吸血鬼の少女の瞳が、夜闇の中、ぼんやりと紅く輝く。赤い舌でちろりと唇を舐め、しなやかな指で僕の腕の血管をなぞりあげる。
本当に、この人は昔から変わらないなあ。出会った時から、僕の血を狙い続けている。でも……。
「すみません。僕、注射は苦手なので、吸血も遠慮願いたいです」
どうにも、チクリとした刺激は苦手だ。注射器を見ただけで体が強張るのに、首筋に牙を突き立てられるなんて、想像しただけで背筋がひゅっとする。
「大丈夫。吸血鬼の牙は、とっても気持ちいいの。怖がることは、ないのよ」
アクシエラさんが、僕の腕を持ち上げて、はぷ、と口にくわえてみせる。そして、はみはみとあまがみをされると、くすぐったいような、気持ちいいような、変な感覚が肌をくすぐった。
「うひゃあ。くすぐったい。くすぐったいですよ、アクシエラさん」
たまらず声を上げると、アクシエラさんは口を離してくれた。
唾液で湿った唇を、つつつ、と人差指でぬぐってみせる吸血鬼。彼女は、また、くすくすと笑う。
「吸血鬼にあまがみをされて、『くすぐったい』で済む人間なんて、そうそういないのよ? 貴方って、本当に変わっているわね」
「そうですかねえ?」
「そうよ。うふふ……」
どうやらツボに入ったらしく、静かに笑い続けるアクシエラさん。
う~む、普通の人なら、吸血鬼にあまがみされると、どうなるんだろう。
「かゆくなったり、するんですか?」
「しないわ。吸血鬼は、モスキートじゃないのよ」
「ですよねえ」
幼い頃に出会ってから、十年。ヴァンパイアは、まだまだ謎が多いなあ。
「そうだ。吸血鬼繋がりで、思い出しました。いいものを持ってきたんですよ」
「あら、何かしら」
サイドバッグのファスナーを開き、中に入っていたものを東屋のテーブルに置く。
「じゃーん。プリッツでーす」
通常の箱型パッケージとは違う、底広の袋パッケージ。そこに描かれた、瑞々しい赤い果肉。これぞ、新発売の細切りプリッツ、トマト味だ。
「ああ、また、それ。私、プリッツって、あんまり好きじゃないのよ」
「でも、これはトマト味ですよ? アクシエラさん、トマトがお好きでしたよね?」
はふー、とため息をついて、テーブルに肘を突くアクシエラさん。そのまま、指先で、ちょん、ちょんとプリッツの袋をつつき始める。
「トマトは、あくまで血の代用品よ。私が好きなのは、本当は血なの。なのに、代用品の、代用品を持ってくるなんて……」
アクシエラさんのテンションがだだ下がりだ。いけない。これは、早くプリッツを投与しなくては。
「まあまあ、アクシエラさん。これは、よく出来たプリッツなんですよ。トマトらしさがないのに、トマトっぽい味がする不思議なプリッツです」
「それは、けなしているの?」
「いいえ、とんでもない。ほめ言葉です」
食べればわかる、この素晴らしさ。僕は袋をやぶいて、アクシエラさんに差し出した。
「そこまでいうならば、食べてみるわ。でも、大したものでなければ、貴方の血をいただくわよ」
ギラリ。吸血鬼の瞳が、剣呑な光を帯びる。
「ええ、かまいません。どうぞ、食べてみてください」
でも、僕には自信があった。十年間のつきあいは、伊達じゃない。彼女が好きそうな味は、何となく、わかっていた。
「ふ~ん……トマトそのものの味はしないけれど、確かにトマトみたいな感じはするわね」
「でしょう?」
さくさくと、プリッツを食べたアクシエラさんは、可もなく、不可もなくといった態で、頬づえをついた。
しかし、その手は、また、プリッツをつまみ上げていて……。
「おいしいですか?」
「微妙」
そうは言いながらも、プリッツに伸ばす手を止めないアクシエラさん。気にいってもらえたようで、よかった、よかった。
「僕もいただきますね」
「貴方が持ってきたのだから、好きにすればいいわ」
そして、僕らは、月夜の東屋で、ぽりぽり、さくりと、プリッツを食べ続けた。
「今日は本当に、いい夜ですねえ」
「そうね、いい夜だわ」
プリッツを食べ終わった僕らは、腹ごなしも兼ねて、その辺りをぶらぶらと歩き回っていた。
近所の小川に沿って、僕とアクシエラさんは、交わす言葉も少なく、歩き続ける。
そこまできれいな川じゃないから、蛍の光はないけれど、代わりに、カエルがげこげこと鳴いて、僕らの散歩に音を加えてくれた。
「桃の香りがするわね。どこかで育てているのかしら」
「そういえば、アクシエラさんとここまで来たのは初めてでしたね。この近くには、桃畑があるんですよ。ほら、あの紙袋がぶら下がっている木が、そうです」
街灯にわずかに照らされた桃の木が、少し遠くに見えた。ここからでも香る、桃の甘い匂い。
「あの紙袋はなに? たくさんぶら下がっているけれど」
「あれは、全部桃です。一つ一つに、紙袋をつけているんですよ。何でも、虫や鳥に食べられるのを防ぐためだそうです」
「ふ~ん、よく考えているのね。私の領地でも、試してみようかしら」
足を止めて、じっと桃の木を見つめるアクシエラさん。しばらく待っていると、「ごめんなさい、行きましょう」と、また歩き出したので、僕も並んで歩きだす。
そこからは、また、無言の時間が続いた。
古くからの友人の彼女に、話したいことはいっぱいある。彼女もきっと、そうだろう。
でも、何も言わずに、月夜の晩に、ただただ、歩く。
それが、言葉を交わすよりもずっと満ち足りた時間だと、僕らは知っているんだ。
だから、僕らは、歩き続ける。
夜の闇を、月明かりの晩を、どこへ行くでもなく、歩き続ける。
「あの桃って、おいしいのかしら」
「とてもおいしいですよ」
「そうなの」
「そうなんですよ」
時々、一言、二言、言葉を投げかけ合う。
どうということはない、他愛もない会話だ。でも、僕とアクシエラさんはにっこりと笑う。
そして、また柔らかな沈黙に浸り、歩き続ける。
くらーい夜を。幽かな光の晩を。カエルと虫の音が響く宵闇を。
吸血鬼とともに、ただただ、歩き続けた――――。
「で、気がついたら朝になっていた」
しまった。時間も忘れて、夜の散歩を楽しみ過ぎた。
「午前様! 午前様ね! ハナちゃーん! 起きてきてー! お兄ちゃんが、また午前様だったわ!」
玄関のドアの開け閉めに反応して、一階の部屋から、お母さんが現れた。そして、おもむろに二階に声をかけ始める。
「んも~……朝からうるさいなあ。お母さん、こんな時間に騒がないでよ」
しばらくすると、二階から妹が降りてきた。ぶかぶかのパジャマに、黒いショーツ。お母さんと同じスタイルだ。
家の女性たちは、なぜズボンをはかないのだろう。
「いいじゃん。お兄ちゃんがどっかでよろしくしてたとしてもさ。私には関係ないよ」
「お兄ちゃんが盗られるかもしれないのよ!? 関係アリアリよ!」
お母さんは妹を巻き込んで、やいのやいのと騒ぎだす。やあ、朝から元気だなあ。僕は逆に眠たいから、昼まで眠るとしよう。そう決めて、階段を昇り始める。
「くそ~! あの吸血鬼め! 私のかわいい息子は、渡さないわよ!」
僕がアクシエラさんに会うと、お母さんがやたら荒ぶる。何でかは、よくわからない。