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ユキはもう既にナオトがチャット部屋に入室しているのを確認すると、逸る気持ちを抑えられず左手を小刻みに動かして「早く!早く!」とパソコンを急かせていた。そして自然と緩んでしまう自分の表情が、一瞬ロード画面で黒くなったパソコン画面に映されると、自分でもビックリするほどの笑みを浮かべていたのだった。しかし今のユキにはこの状況が全て、通り雨の後の晴れ間のような感情に身を任せているだけだったんだ。もちろん、急な雨に備えて持っている雨具と言えばナオトと話す事以外に他ならない。
「ナオト早いね?(笑)」
ユキは急いでキーボードを叩き、まだ見ぬ相手ナオトからの返事を待った。心持ちは高く、何よりこの一時は病気の事さえ忘れられる。そこに羞恥心も猜疑心もない、あるのはただ一つの特別な感情だけだ。神経過敏な日常を優しく包み込んでくれるその特別な感情だけなんだ。
「いつもより早かったかも(笑)ユキはちゃんと晩飯食ったか?」
ここからいつもだったら、屈託のない自然な言葉で満たされるナオトとの話が始まっていく。壁は一つ越えたのだろうか、それすらも気にならない時間が過ぎるこのチャットは続いて行った。ユキは画面を食い入るように見つめ、思いの丈を言葉にしていった。
「食べてないけどそれどころじゃない(笑)いつにする?ナオトの空いてる日を教えて(笑)」
「展開が早いな(笑)ちょっと待ってな?今予定見てみるから(笑)」
青年はそう打つとナオトの顔色を覗い、パソコンの前から少し離れた。車椅子は相変わらずキリキリと音を鳴らし、青年の神経を針で刺激するかのようだった。ナオトはその指定席に移動する。この部屋には他に椅子はない、デスクの前に今時の若者特有の長細い脚を折り曲げてナオトは立膝を着いた。
「早くて明後日かな?バイトもないしオレは休み中だから(笑)」
ナオトは慣れた手つきで文字を浮かび上がらせた。なるべくその代役を見破られないように、相手の心を傷つけてしまわないように、これからの結末はなるべく考えないように。青年を見ると静かに頷いていた。それを見たナオトも、覚悟を決めた顔でチャットの中に滑り込んでいく。
「じゃあナオトさん?明後日にしましょ?(笑)」
「ユキが大丈夫ならそれでいいよ(笑)場所と時間はどうする?」
ナオトは会話の一つ一つを青年に確認するように、大切に大切に噛みしめているようだった。殺風景のこの部屋には似付かない作戦が行われている。これが誰も傷つけない最善の選択なのだと青年は繰り返し繰り返し自問自答していた。ユキはと言うと、燥ぐ自分を抑えきれずにこの喜びが今の全てだと瞳を文字通り輝かせていたのだった。
「じゃあ明後日の午前10時に前に話してたあそこの駅の店で(笑)」
ナオトは青年を確かめた。この後の会話をどうするのか指示を無言で仰いでいたんだ。青年は慌てずにナオトにこう話した。
「あそこのパン屋のパン、ようやく食えるって入れてくれ……」
ナオトは言われたままに言葉をまた滑り込ませた。兄、いや、今ここに一緒に居るのは同年代の青年なのだ。その青年に代わって今自分は、会った事もない顔も知らないこの画面の向こうに居るユキと共通言語を話している。二人にしか知り得ない事柄を話す奇妙さと、それがとてつもなく心地の良い事なんだと思い知らされてもいた。実際この関係が羨ましい、そんな事までも思い始めたのだった。
「あそこのパン屋のパンをようやく食えるよ(笑)」
「そうだね~♪(笑)」
ユキが何の躊躇いもなくその共通言語に合わせて、今まで想像してきたナオトを現実に見れる信じられない位の出来事と被せながら会話していく。ユキは想像より大きくなってしまっている未来の足音が聞こえる気がしていたのだった。




