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「兄貴?入るよ?」
青年はナオトの物静かな声に体が頭よりも速くビクンと反応した。すっかり寝ていたのか、青年はその信号を頭の中に送るとベッドに横になったまま返事をする。目の霞みが次第に取れて、カメラのピントが合うように青年の視界もいつものこの日常を映し出した後に。
「悪いなナオト……入ってくれ」
青年は上半身だけ起き上がり、瞼の腫れを気にするように右眉をクイッと上げる。掛けていたタオルケットを払い除けると、部屋のドアを開けて間髪入れず電気を点けたナオトが見えた。青年は今日2度目の来客に微笑むと自分の足である車椅子を手繰り寄せた。タイヤがキリキリと鳴る。青年はタイヤの空気が甘いのを指で抓んで確認するとそのままデスクへと向かった。
「兄貴……あれからも考えてんだけど……やっぱり……」
そのナオトの言葉に、パソコンの電源を入れながら一瞬で表情を強張らせた青年が一息入れてこう応えた。
「ナオトにしか頼めないんだ……本当に……」
ナオトはまだ部屋とドアの境目に立ちつくし、ゆっくりと立ち上がるパソコンの画面を見ていた。そして、パソコンにロゴが浮かび上がったと同時に青年はまたナオトに口を開く。
「今からユキと会話するから……見ててくれないか?……」
マウスを動かす音が静かな殺風景の部屋に響いた。ナオトはこの空間に兄と居る事がなんとも不思議な感覚がしてならず、それでいて幼き日に兄と一緒にゲームをして遊んだ記憶をも甦らせていた。兄はいつも優しかった。対戦もののゲームではいつも最後には負けてくれていた事も思い出す。いつかナオトはわざと負けるなと兄に言い寄ったこともあった。しかし兄はナオトに真剣にやって負けたんだと言い張り、だから最後までしっかりやれば俺にだって勝てるんだぞ?と、ナオトは諭された事も思い出す。幼い自分が諦めて投げ出さないようにと、今ならその優しさが痛いほど伝わる。そんな兄が今自分に恥を忍んで頭を下げている。ナオトは何かを吹っ切ったようにネットの世界の兄が居るパソコンの画面に近づいて行ったのだった。
「ねぇ?兄貴?もしもさ?俺がその……ユキちゃん?と会ったとして、俺が気に入って付き合いたいなんて言い出したらどうするの?(笑)」
ナオトは青年に茶化すような素振りをつけて話しかける。少しでもこの空間の空気を和らげる為と、重く圧し掛かった現状の問題定義、どちらとも取れるそのナオトの想いとは裏腹に青年は変わらぬ口調でこう応えた。
「嘘を吐き通せるなら構わない……」
慣れた手つきで、まるでいつもの仕事のように青年はユキと関わるチャット部屋へと入って行く。ナオトは兄のその言葉に後悔した。この部屋の唯一の時計の針は21時を過ぎたところを何でもないように差している。いつもの青年の心安らぐ時間とは違う、空気感も違う、現実と言う世界に動かない足を無理矢理引っ張られ手も肘も擦りむき血が滴り落ちる感覚のままだ。青年はこの感覚をある意味受け止めているようだった。
「初めは俺とユキとの会話を見ててくれ……会話の感じが掴めたらナオトに後は任せてもいいか?……」
ナオトは青年の只ならない決心を感じて、画面から目を逸らせず頷くしか出来なかった。本当に力になれるのだろうか。この選択が兄にとって良い方向へ向かうのだろうか。現実の大学生でもこの問題を解くにはもっと時間が必要になるだろう。青年が車椅子の肘掛に手を置いて腰を浮かせ、画面を直視した後にナオトに目配せをする。その時は来た。
「ユキさんが入室しました」




