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「もう明けちゃったな(笑)ユキは眠くないのか?」
シートと寄り掛かる身体が擦れて、キシキシと鳴く車椅子を元の定位置に戻した青年は、取り決め合って一段落した対話に戻る。夜中から置き去りにされた明るい電気の蛍光灯に目を細めて、これからの事を考えていた。今すぐにでも消え入りそうなユキの精神状態を想って、いつも通りの口調の言葉を叩いてみたものの、ユキが曝け出した孤独な叫びが、まだ青年の心を掴んで離さなかった。だが、今の青年の心持ちは一つだったんだ。
「泣きすぎて目が腫れちゃって眠くない(笑)ナオトに話せて良かった……本当にナオトと会って話しがしたい……」
胸がざわつくたった一人の不安から解放されたらどんなに楽になるだろうか。ユキは此処の場所から現実の青年との出会いを求めていた。このまま視力を無くしたとしても、心の拠り所は変わらない、そうも信じていたのだった。ユキの部屋にもまだ電気が煌々と点いていて、もう朝を迎えた薄ピンク色のカーテンを静かに開けると、晴れ間から伸びた一本の光の矢に目を瞑った。要らなくなった電気を消すと、青年からの言葉が返ってくる。
「ユキが良い子にしてれば会いに行くよ(笑)だからもう変な事は考えるなよ?」
「はい♪(笑)それではナオトさん?いつにしましょうか?」
「展開早いな(笑)都合が良い日探しとくから、今日の夜にでも日にち決めよう」
「うん♪わかった!楽しみー♪」
抱えてる問題を少しでも青年は和らげてやりたかった。今居る此処のネット世界から抜け出して、現実に会って話をするって事はよくある話だ。今の世代ではそれを出会いの場として使い、仮想の世界からリアルな世界へ移行するなんてのも不思議なことではないんだ。だけど青年のそれは勝手が違う、現実の自分を偽って会話だけを楽しんでいたんだ。それ以上の事は何も望まないで、現実の自分に宛てた愚痴を晒して。初めはそれだけで良かった、対話してくれる相手が誰で在ろうと。でも予想に反してそう上手くは行かない、ユキの存在がそれ以上のものになって居るのも青年は自分で痛いほど解って居たりもした。だからこそ、青年は嘘を吐き通したんだ。
「だからなるべく何も考えないで寝てくれ(笑)」
「うん(笑)ありがとう♪今日は眠れそうな気がする」
「おやすみー!」
「ナオトありがとうね……おやすみ♪」
同時にチャット部屋から退室すると、ユキはノートパソコンを閉じた。腫れた目を置き鏡で確認すると、自分が笑顔になっているのが見える。正直、今のユキには青年と現実に会えると言う約束だけが心を落ち着かせていた。ここ一年のやり取りで、青年の性格的なものに惹かれているのは事実で、その青年の実際の姿に心底興味を持っていたのも事実だった。その姿を想像しただけで気持ちが逸る。嬉しくて仕方がない気持ちを抑えてベッドに勢いよく寝転がったユキは、ここ最近の寝不足も手伝って青年の言葉の薬で眠りに就いた。
一方の青年はと言うと、神妙な面持ちのまま目を閉じて唇を噛みしめていた。車椅子のタイヤのストッパーを開け閉めしながら、静かに前後に揺れている。まるで揺りかごに身を委ねた赤子のように、眠気の中で必死に母親を探している様だった。しかし今の青年のそれは母親ではなく、これから先の自分の取るべき行動で、ユキと現実に向き合う策を頭の中で整理していたのだった。だけどやはり答えは一つしか出なくて、考えるのも無駄に思える。これ以上考えると自傷行為に逃げてしまいそうでもあったので止めた。自分の感情が心の中のコップに注がれて、波を打っているのが青年には解っていたんだ。なみなみと注がれた感情が溢れ零れる時に、青年は決まって自分の手や腕を噛んでいた。それは一種の癖であり衝動だった。手首を切るよりかはマシな衝動だ。自分自身の感情を噛み殺すように、涎を垂らしながらその口に手や腕を押しつける。足が動かなくなってまもなく、精神のコントロールをそれで補ってきたのだ。
どれくらい時間が過ぎただろう。青年は車椅子の背に身体を預けながら、これから夏本番を迎える暑さで目を覚ました。普段閉めきっていて滅多に開かない部屋の窓をしかめっ面で開けて、生温い風をサッシの独特な音と共に部屋に入れる。なるべく外の世界は見ないようにして過ごしてきた青年の、ちょっとした心境の変化だった。部屋にある唯一の時計は、ここ何年も目覚まし機能を使われずに十一時半を指している。青年は思い立ったように子機の電話を取ると、この家の内線に繋げた。
「おう……起きてるか?ちょっと来てくれないか?……」
青年は低い声でそう告げると、子機電話をベッドの上に放り投げて自分はパソコンデスクの前に身を置いた。外からの風がこんなにも生温くて、じめっとした空気を感じるのは何時ぶりだろうか。夏の虫が騒ぐ音と重なって、青年の部屋をノックする音が流れ込んだ。
「兄貴?どうしたの?……」
夏休み中の学生にしては整えられた身支度で、髪も寝癖が直されているところを見ると出掛ける間際だとおおよその察しがついた。ならば、青年はなるべく手短に用件を伝えようとパソコンを立ち上げて、部屋に入ってきたナオトに自分の生活の一部であるチャットのサイトを見せた。
「お前に頼みがあるんだ……」
「頼み?……珍しいね……」
「俺の身代わりになって欲しいんだ……」
青年はこの暑さと湿気で滑りの悪くなったマウスパッドを一旦持ち上げると、また両方の手でパソコンデスクにマウスごと下ろした。そしてチャット部屋をスムーズにクリックして開くと、ユキの簡単すぎるプロフィールをナオトに見せながら話し始める。ナオトは静かに画面を追っていた。
「此処のチャットで仲良くなった女の子なんだけど……今度会うことになってさ……こんな事本当は恥ずかしくてお前に言うのもなんなんだけど……」
「ちょっと待った……身代わりってなんだよ?仲良くなったんでしょ?まさか俺に兄貴の代わりに会えなんて言わないよね?……」
「まぁ……その……まさかなんだよ……」
「嫌だよ!そんなん出来るわけないじゃん……」
「大丈夫なんだよ!これ……」
青年はまた違うプロフィールを開いた。それは紛れもない、青年が此処のネット世界で生きている証だ。名前はナオト、職業大学生、趣味はフットサルと映画鑑賞……
「俺はお前になってチャットしてたんだ……だから……大丈夫なんだ……」
ナオトは画面を見つめながら眉をひそめる事しか出来なかった。自分に成りすましてチャットをしていた兄に、腹立たしい感情も嫌悪感も抱かなかったんだ。寧ろその逆で、ネットの世界と言えど、外の人間と接していた兄に喜びさえも感じていたのだ。
「兄貴……本当の事を話して、この子と会ってみれば?……」
「それが出来ないから頼むんだ……どうだっていい相手ならこのサイトを登録解除して逃げればいい……でもこの子だけはダメなんだよ!ナオトが必要なんだ……」
青年はそう力強く言葉を発すると、車椅子で巧みに画面を見つめているナオトを避けて、開け放っていた窓を閉めた。カーテンはそのままに冷房のリモコンを壁掛けから手を伸ばして取ると、設定を二十六度の強風に入れて、冷蔵庫からペットボトルの水を二本抜き出し、一本はナオトに投げ渡した。
「ナオト……まだ時間大丈夫か?……」
「え?あぁ……全然大丈夫だよ?……」
車椅子のタイヤの空気が甘いのか、床に音がやけに響いた。青年は気にせず元のパソコンデスクの前に戻ると、ナオトにユキとの事を一から説明を踏まえて話していった。




