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サエが部屋のドアを開けて飛び込んできた。只事ではないのを察知して、ユキ目掛けて走り寄る。ユキはと言えば一心不乱に目を擦り、その瞼は赤く腫れ上がって薄らと血が滲んでいる。その腕をようやくサエが取り押さえると、ユキはまるで断末魔の叫びのような声を上げた。酷く甲高い、耳に響くとても嫌な声音だった。
「殺せよー!!もうあたしを殺してよー!!怖い!!怖いよー!!」
尻もちを突いたユキは、足を左右に蹴り出しながら暗闇と闘っていたのだった。両の手はサエが必死に押さえている。今にも瞼を削ぎ落としてしまいそうなユキの腕の力はあまりにも強すぎて、サエの腰がテーブルに鈍い感触でぶつかると、サエもユキと同じくらいの声色で叫んだ。
「お姉ちゃん!しっかりしてよ!!」
ユキの顔は蒼白していて、肩が異常に上がる程に過呼吸を繰り返していた。時折まだ足をバタつかせたまま殺せ殺せよと呪文を唱えるかのように叫んでいる。眩しいほどに光が指した場所から暗闇に落とされれば無理もない。このまま暗闇が続く恐怖に誰も勝てやしない、その谷底に落ちるスピードは自分が今生きているのかさえ解らなくなる程だ。
「なんであたしなんだよ!!いいから殺せよー!!早く!!早く殺れよー!!!怖いよー!!!」
ユキがそう叫びながら暴れてまた力を入れた後に、サエはユキの右頬を力一杯叩いた。感情と感情がぶつかる空気で、ショットガンのような重い音が叫び声をかき消して部屋にこだました。ユキが見えない暗闇からの衝撃にこと収まると、今度は力一杯ユキを抱き締めていた。
「大丈夫……お姉ちゃんは一人じゃないからね……サエが付いてるよ……」
大人しくなったユキをまるで子供のように扱い諭すサエは、今まで押さえて力んでいた腕が痙攣しているのに自分でも気が付いた。震える腕でユキを抱き締め、大丈夫大丈夫と今度はサエが呪文のように囁いている。ユキはサエに髪を撫でられながら嗚咽でサエの胸元に打っ伏していた。それでも辺り一面暗闇が拡がる世界で、ユキは恐怖と必死に闘っていたのだった。今までこんな長い時間視界を奪われる事はなかった。一瞬の目眩のような感覚なら何度も体験してきたが、担当の医者にもその奇病がいつ覚醒するのかは解らないと言われ続けてきたのだった。ベーチェット病とはそう言う病気なのだ、失明の可能性があり薬でも効果は見込めない患者も居る。視力の低下から始まり、次第には視界さえ奪われる。そして最悪な事態が失明なのだ。ユキの赤く腫れ上がった瞼の下からは大粒の涙が零れる。擦り切った左目からは血が滲んだ涙だった。それをサエはゆっくりと親指の腹で拭ってやり、髪を撫でるとユキが声を震わせて話始めた。
「怖いよ……あたしこのままなの?……」
サエは全て理解していた。ユキがこの病気を発症してからと言うもの、ありとあらゆるこの病気についての事を調べてきたのだ。ユキの症状が出てきたのもすぐに理解した。しかしそれが一時のものであるようにと願ってもいたのだった。また視力が回復し、それが続く事を。
「お姉ちゃん?……ゆっくり深呼吸して……ゆっくり目を開けて?……」
ユキはサエの言う通りまだ過呼吸だった自分の胸を押さえて、ゆっくりと深呼吸を試みる。徐々に段々と。サエはユキの背中を擦り安心感を与えようと努めていた。そのリズムに合わせてユキはゆっくりと深呼吸する事が出来た。そして赤い涙を流した目をゆっくりと開いたのだ。




