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「最悪だろ?兄貴はいつもそうなんだよ……」
カタカタっとキーボードの音だけが響く部屋。暗闇に浮かび上がったその画面だけを見る瞳もまた暗く、何とも言えない虚無感を背負った青年がそこには居た。部屋の灯りも点けず、何時間こうしてるだろう。窓も閉めきったこの部屋で、青年は行き場のない対話を続けていた。
「でもきっとお兄さんは寂しいんだよ」
青年が言葉を打ち込んで、ため息を吐いた二秒後にその文字が画面に現れた。顔も知らない、住んでる場所も知らない、まして本当に相手が人間なのかも知らない。それがネットの世界だ。ただそこには、青年が諦めを抱きしめて解き放つ、言葉達で埋まっている。相手も同じような心持ちでいるのだろう、青年はその解釈に揺るぎない自信めいたものを持っていた。
「兄貴の気持ちが解る?」
此処のチャットで繋がってもう一年が経とうとしている。相手の名前はユキ。毎日のように日々の他愛のない話、それと日常の愚痴のキャッチボールをしていた。とは言え全て青年の一方的な話を、可もなく不可もなく優しく聞いてくれている感じだった。青年がこの一年で知り得た情報は名前がユキであること、性別は女性であること、年齢は自分の二つ下であること、妹が居ると言うこと、たったそれだけ。本当かどうかも青年には解らない。でもそれを言ったらキリのない押し問答になるのは明確だった。青年が思うと言うことは、相手も思っている、それはお互い様なのだから。
繋がるのは決まって夜だった。始まりは何人かを交えての会話から。それが徐々に一人減り、二人減り、最後には気の合ったユキとだけになってしまった。でも青年は、それはそれで話しやすいユキとの会話を生活の一部のように大切にしていた。用事があればユキと繋がる夜の九時前には片付ける、毎日のように続くそのユキと一対一の声を発しない会話は、青年の心を救っていたとも言える。見えない相手に恋心を抱く感情を、青年は必死で押さえつけようともしていた。
「難しいとは思うけどお兄さんはナオトのこと羨ましいんじゃないのかな?」
「俺のことが羨ましい?まぁ……そうだな、兄貴は部屋にこもりっぱなしのニートだからな……」
「お兄さんは歩けないんでしょ?」
「うん、車椅子で生活してるよ……」
青年の此処での名前は「ナオト」。静かな部屋ではパソコンの微かな音とベッドの横に置いた目覚まし時計の秒針の音だけが聞こえる。この空間が今の青年には全てだった。それはきっと顔も知らない相手、まして同年代の異性と言う事もあって、青年のリアルな日常を押し潰すのにはこの上ないツールだ。しかしどんなにそこへ逃げても現実は追いかけてくる。そこはかとない感情の苛立ちが大きな口を開けて追いかけてくる。青年はそれも受け止めていたようだった。だから暗い顔をしている。
「外に出たいだろうね」
ユキのその言葉に青年は慌ててキーボードを叩いた。最近少し視力が落ちた目を凝らすと、自分の感情の言葉が画面に降ってきた様だった。自分でも抑えられない、何かの弁解にも似た言葉の節々に、青年自身も困惑するほどだ。しかし、思いのままをそれにぶつけたらいったいどうなるのだろうと言う期待感があることも拭えなかった。
「外に出たい?出たければとっくに出てるだろ?なんかさ、足を理由に引きこもってるのがウザいんだよ……何もしないでただ生きてるだけの生活って最低だよな?俺なんか大学の学費をバイトして自分で稼いでるんだぜ?ウチの親も兄貴には甘いよな?なんかそれなりに出来ることとかあると思うんだけどさ」
青年はじっとユキの返事を待った。自分に共感して欲しい訳ではなかったが、ただ他人がどう思うのかが気になっていた。手元に置いたペットボトルの水を飲み干すと、少し汗ばんだ体の中を冷やして画面の文字を追ってみる。ユキの返答は青年を困らせたものだった。
「ナオトのお兄さんて事故で車椅子になったって言ってたよね?どんな事故なの?」
青年はユキの質問に戸惑っていた。そのことを話して何の意味があるのかも疑問だったが、それを知りたがるユキの意図も謎だった。単に話を拡げたかったのか、単なる暇つぶしか。これと言って今まで特別な話をしたこともなかったが、お互いの素性にもそんなに触れたことがない。そんな関係の相手に少し変なことを話してしまった後悔が青年には少し芽生えていた。しかし、青年はありのままを伝えようともしていた。
「俺そんなこと言ったっけ?まぁユキと声を通して話したことはないけど(笑)書いたのも覚えてないわ……事故は兄貴が高校生の時、学校から帰る途中で遭ったんだ……」
「声を通しては言ってないよ(笑)それで?どんな事故だったの?」
「そんな事聞いてどうするんだよ?兄貴に同情でもしちゃう?(笑)」
青年はなるべく話が暗くならないように、それでいて何故ユキがそんなにこの話に食いついて来るのかを探っていた。そもそも、この話を前にした時も青年の愚痴から始まったものだった。引きこもりの者への不満、それを黙っているだけの両親、これからの自分の身の在り方、何かを此処に吐き出すことで一種のフラストレーションを解消していたようだとも言える。ユキはそんな青年の一語一句に優しく返してくれて、青年はユキの優しさがたまらなく愛おしくなっていたのも事実だった。
「同情なんかじゃないよ?」
「じゃあなんだよ?(笑)」
「実はね、あたしも似たような境遇だから」
「え?……」
青年は急なユキの打ち明けに動揺した。それはキーボードを叩くと同時に「ドラマみたいな展開だな……」と呟かせるほどだった。部屋の室温が感覚的にちょうど良い頃合いで、暑くもなく寒くもなく、いや実際はそんな感覚さえも今の青年にはどうだっていい。此処の中の展開だけが今の青年には心の拠り所でしかない。でも正直、青年はユキが自分のことを話してくれている現実がとても嬉しく思えて、このドラマみたいな展開の真相を訊ねてみることにした。
「似たような境遇?」
「うん、あたしもナオトのお兄さんと同じで引きこもり(笑)」
「そうなんだ……」
垣間見る初めての話の展開に、青年は釘付けにならざるを得なかった。水が入っていた空のペットボトルが左手の甲に触れて、放物線を描いて床に落ちてもそれは続いた。なんて言えばいいのか……一年もの時間を費やして、次第にぼんやりと見えてきたユキの現実のシルエット。彼女の自分話は初めてだった。そう言えば青年はあまりよく知らない。
「ごめんね、いつ伝えようか迷ってたんだけど……」
「いやいや、いろいろあるからな(笑)」
「そうだね(笑)」
青年はこの話の流れを止めるか、いっそ今までにない話の展開で知り得るところまでユキに聞いてみるか迷っていた。パソコンの画面の明かりが青年の部屋を暗く浮き彫りにしている。物をあまり置かない主義の青年の部屋は、一言で言うと殺風景。まるで寝て起きて、ネットが繋がればいいってだけの部屋だった。それは青年の性格的な問題ではない、青年の生活がそうさせていた。
「ユキには妹が居るんだっけ?歳いくつ?」
「今年成人式だよーあたしと二つ違い」
「そっかー」
「うん、あたしとタメのナオトとも二つ違いだね♪」
「そうだなー」
青年は思ったより軽い感じでユキが自分の妹の話を始めたので安心していた。相変わらずキーボードを叩く此処でのチャットは、青年の心をニュートラルにする。リアルでの青年に恋人も友達も居ない事をユキには伝えてはいなかった。それだけではない、自分の本当の歳も正確には伝えていなかった。それは誰もが張る予防線。ネットの世界じゃ本当も嘘も嘘に変わる。何を言ったって結局その証明は誰にも解けはしないものだ。伝えきれないことは山ほどある、此処はそんな空虚なところかも知れない。いや、現実世界だって同じようなもの。青年はそんなことを考えながら此処に存在していた。でも空虚なものほど心が魅かれてしまう、そんな言葉が飛び込んできた。今日のユキはいつもと違っていたんだ。
「あたしは目が見えなくなるの」
現実を突き付けられた気分だった。人にはそれぞれの環境、性格、生活がある。青年がこの見えない相手の人生の一部分を知ってしまったことで、いったい何が変わると言うのだろう。それは善悪ではない、命の尊さでもない、例えられない何かに青年は頭が持って行かれた。もしかしたら本当で、嘘かも知れないその話を、青年は信じて疑わなかったんだ。いや、一年の歳月を疑えなかったと言った方が正しい。
そして、ユキの話はこうだった。ユキは「ベーチェット病」と言う病で、中学生の時に発症したと言う。バレー部のキャプテンをしていた当時の彼女は、次第に失っていく視力とともに、仲良かった友達にさえ心を閉ざしてしまった。なんの治療法もない病気らしく、ただ視力が落ちていくのを成す術なく見届けた。もう直にユキの目には光も届かなくなる。誰にも口を開かなくなり、二十二歳になった今では引きこもっている。それがユキの大まかな情報だった。青年は頬杖を突いた状態のままユキの言葉を読むと、次に相応しい自分の返事を探していた。
「言葉が見つからない……」
「ごめん……ずっと隠すつもりで居たんだけど……ナオトには知ってもらいたくて」
「そっか……辛かっただろ?ごめんな……」
「大丈夫♪話せてスッキリしたから……それより暗くしちゃってごめん(笑)」
「あの……ユキの場合は仕方ないと思うんだ、兄貴の引きこもりとは違ってさ……」
「うん……でもナオトのお兄さんだって辛いと思う……だからもっと優しくしてあげて?あたしはそう言う理由で気持ちが解るから(笑)」
「解った……そうするわ(笑)」
ユキの心情を想うと、青年の胸には鈍い痛みが走った。何度も何度も、何度も胸を現実と言う名の拳で突かれて、じわじわとそこから血が滲むような感覚だった。その血が赤色なのか青色なのか、それすら判別出来ないくらい青年は打ちひしがれていた。例えこれが全て作り話としよう、それでも今の青年は、ユキがこの画面に浮かび上がらせた言葉を信じるだろう。その反面、ユキが信じてくれた自分の醜さに嗚咽を上げそうになって、咄嗟に頬杖を突いていた手に自分の歯型を付けた。青年は自分がひた隠す現実の自分自身を、どうしても受け入れられないで居たんだ。ユキのリアルな告白は、青年をまた嘘つきにさせた。これもネットの世界だと割り切れるかは、別の話だとしてもだ。
「そろそろ落ちる時間だーナオトまた明日ね♪」
その文字の後パソコンの時計を見ると、二人がいつも決まって落ちる時間で深夜一時ちょうどだった。毎日この時間が来るとまた明日、そう告げて此処のチャット部屋から退室する。いつからかそんな毎日の生活に織り込んだ此処のホームルームを、青年は否応なしに続けてきたんだ。そして、自分を信頼して今まで隠していた話をしてくれた今日のユキに最後の返事をする。
「また明日なーおやすみ♪」
キーを叩く指が少し震えていることに青年は自分で驚いた。動揺している事実を受け止めざるを得なかったその症状が、ユキのカミングアウトとリンクして頭から離れないでいた。ユキは何故自分に話してくれたのだろう、何も話さないままにそのまま遣り過ごしてもいいはずだったのに。そのくらいプライベートすぎる話を青年は聞いたのだ。上手く頭の中で整理がつかないのは明白で、それ以上に問題が一つあることに気付いてしまったのだった。それは、話が本当だとした仮定で、ユキの目が直に見えなくなると言うこと。となれば、此処での会話が出来なくなると言うこと。青年はパソコンをシャットダウンすると深い溜め息を吐いて、乗っている車椅子の背もたれに大きくもたれ掛かった。同時に部屋のドアの向こうから青年を呼ぶ声が聞こえる。
「兄貴?ちょっといいかな?」
青年は無言で、床に転がっていたペットボトルを分別してあるゴミ箱に無造作に捨てると、暗い部屋のドアを重苦しく開けた。そして、ドアの前でダークパープル色の手提げバッグを肩にかけて立ち尽くすその声の主にこう聞いた。
「何だよナオト、今日はバイト休みなのか?」
「いや、終わって今帰ってきたとこ……」
現実のナオトがそこには居た。青年はドアを開けたついでと言う感じに、部屋の灯りのスイッチを押す。時折車椅子のシートの軋む音が部屋に響いて、青年の気持ちを苛立たせてもいた。手慣れた手つきで青年はその足代わりの車椅子を反転させて、部屋にナオトを招き入れる。目配せを感じたナオトが静かに部屋に入ると、青年はこう切り出した。
「何か用なのか?……」
「え?うん……オカンが心配してたから……兄貴がメシ食わないって……」
「あぁ……食欲がないんだよ……お袋にはそう言っといてくれ」
「なぁ兄貴?今度さぁ、俺のバイト代が入ったらどっかメシでも食いに行こうよ……」
「お前とメシ?お前の安いバイト代で食える店なんかで食ってられっかよ、そんなことに使わないで本でも買ってろ」
「本なんか読まないし」
「とりあえずお袋には言っといてくれよ?」
「あぁうん……わかった」
「俺は忙しいんだ、もう寝るぞ」
「あぁ、おやすみー」
「あ、ナオト……ありがとな、じゃあなぁー」
「うん……」
青年は俯き加減で部屋から出るナオトを確認すると、車椅子を器用に操りながら自分の居場所をパソコンデスクの前に陣取った。青年の部屋は一軒家の一階であり、この実家から下半身不随になった当時高校三年の夏以降、まともに外へ出てはいなかった。事故後すぐに家はバリアフリーに改装され、青年に対する家族の想いは、当事者の青年の気持ちとは反比例して行ったようだった。なにより青年が心に闇を持ってしまった、そして自分から接触することが無くなってしまったんだ。進学も諦め、何もかもやる気を失くし、自分の部屋へ引きこもってしまった青年の心情は痛いほど家族は理解していた。しかし青年はそれを、まるで腫物に触るような感覚に捉えてしまっていたんだ。それからもう六年が経とうとしている。




