刹那
序章
紅葉の季節が遠のき、枯れ果てた木の葉がひらひらと舞い落ちる道の上、男は静かにしゃがみ込み、愁いを帯びた瞳で静かに話し出す。
「久し振りの再会だってのに、安い酒で申し訳無いけど、これで勘弁して下さい」
男は、誰に憚る事無く手荷物を広げ、ガサゴソと酒瓶を取り出し、墓石の前で封を切る。
「やっと、自分の中で折り合いが付いたと云うべきなのかな・・・・・・」
肌寒い風がそよぐ夕暮れ、男は自嘲気味に笑い、酒瓶の中身を墓石に降り注ぐ。ドクドクと酒瓶から流れ落ちる琥珀色の液体を、男は寂しげな瞳で眺めては、自らも瓶の侭飲み出す。
「十年分の懺悔をしに来た気分です」
男の呟きには、一切の感情が込められる事は無く、只、静かな音色の様に、風に乗っては消えて行く。
「どれだけ時代が流れたとしても、人って云うのは、根本的な過ちを繰り返さなければ気が済まないんでしょうか・・・・・・」
酒に塗れた墓石に、男は静かに話し掛ける。
「それとも、私みたいな人間が社会を愁う事自体が、愚かな事ですか?」
一陣の風が、男の周りを優しく吹き抜ける。墓石に振り掛けられた酒は、宛ら、墓石が涙を流したかの様に、石の表面を滑り落ちては大地へと吸い込まれて行く。
「又、来ます・・・・・・」
男は、酒瓶に残った酒の残りを墓石に振り掛け、断片的な言葉を残し、静かに立ち上がる。
「今度は、皆を連れて来ますね。その時は、今日みたいに湿っぽい雰囲気じゃ無くて、楽しい酒を飲みましょう」
夕暮れの日が暮れるのは早く、男が立ち上がる頃には宵の帳が降り、肌寒さは一段と増したのか、男は微かに震え乍、懐から煙草を取り出し一服点け、静かにその場所を後にした。
*
薄暗い部屋の中、数本の蝋燭が頼り無い明かりを灯し部屋の中を照らし出す。部屋の角。四隅の床には香炉が置かれ、そこから立ち上る煙は、甘い匂いを部屋へと充満させ、その匂いは身体の力をリラックスさせる作用が有るのか、木で出来た椅子に座る男の顔は弛緩している。テーブルの対面。そんな男を冷静な眼で見詰める青年は、ゆるゆるとした動きでテーブルの上に両手を置く。部屋の中を灯している蝋燭は、二人の呼吸で微かに揺れ動いては、壁に映し出された二人の影が伸びたり縮んだりと幽鬼の様に揺れ動いている。この部屋の中では、外界の時間の流れが存在しないかの様に、全てがゆったりとした時間が流れ、曖昧な世界を築き上げている。そんな部屋の中、男は蝋燭の光りを受け、瞳の奥に冷酷な陰を映し出す。現実離れした、魔術師が好んで着る様な黒のローブを纏った男は、テーブルの反対側に座るスーツ姿の男を見詰め、心の奥底に滑り込む様な声色で静かに囁きだす。
「話は分かりました。それでは、それを踏まえてお聞きしますが、貴方は、人生と云う長い道程の先に、一体何を求めているのですか?」
男は、世間話をする様な軽い口調で、重過ぎる質問をフード越しに問い質す。
「何を求めて……」
男は俯き加減で身体を震わせて、又黙り込む。フードの男の質問は、それ程迄にスーツ姿の男の心に響いたと云う事なのだろう。フード姿の男は、そんな男の反応を推し量り乍、次の言葉を紡ぎ出す。
「華やかな生活。類稀成る才能。羨望の眼差し―」
フードの男は、人間が、誰しもが求める欲望や理想を次々に上げて行き、スーツ姿の男は、その言葉を聞く度に呻き声を漏らす。
「望む物が大き過ぎて、道を踏み外しそうになっている」
「……」
スーツ姿の呟きに、フードの男は静かに頷き返しゆっくりと話し出す。
「元来、人間には持って生まれた器と云う物が有る。その大きさとは、今生きている人間の数だけ有り、又、その大きさは千差万別ですが、その事を見落とした侭、ただ生きている人や、計り損ねて要る人は余りにも多い。とても嘆かわしい事です。本来なら、自分の器の大きさを自分で理解しなければ、健やかなる人生を歩む事等は到底出来ない筈なのに。例えるならば、今の貴方の状態は、小さな植木鉢にバケツ一杯分の水を注ぎ込んでいる様な物です。そんな大量の水を、小さな植木鉢が受け止め切れる訳が無く、必然的に溢れ出してしまう・・・・・・」
フードの男は、教えを説くかの様に静かに言葉を紡ぎ、部屋中に彼の思想を溢れさせて行く。
「何を如何すれば良いのか、それすらも今は分かりません……」
「当然です。道に迷っている人間は、自分の状態を冷静に見る事等は出来ませんし、どれ程優れた人間でも、完全に自分を別人格として捕らえる事等は不可能です」
「しかし……」
男が何かを喋ろうとするのを、フードの男はゆったりとした動きで手を掲げて遮る。
「私が、いるじゃないですか」
フード越しに語られる言葉を最後に、男は嗚咽を漏らして項垂れる。
「若しも、今後生きて行く上で道に迷う様な事が有れば、又此処に来れば良い」
スーツの男は、大きく息を吸い込み顔を上げて頷く。心の拠り所。不安定な精神状態の中で、人は自然と逃避出来る場所を模索する。そして、スーツ姿の男が求めている場所は此処だと、フード姿の男は、優しい言葉で嘯き、スーツ姿の男は、心の中の葛藤が霧散したかの様な、華やかな顔に成り喋り出す。
「この場所に来て、良かったと思います」
スーツ姿の男はもう一度大きく息を吸い込み、穏やかな表情で話し出す。
「それは良かった」
「不思議と、気分が安らぎます」
穏やかな声で話すスーツ姿の男の表情には、先程迄の思い詰めた陰は無く、心に抱えた痛みが無くなった様な、晴々とした表情を浮かべ、 その言葉に、フードの男は静かに頷き柔和な表情を浮かべる。
「気持ちの安らぐ場所を持つ事は必要ですよ。この場所が、貴方の中の特別な場所に成れば良いと思います」
「間違い無く、成ると思います。現に、今も帰りたくない気分です」
スーツの男は嬉々として話し出し、フードの男は静かに頷き乍、頃合を計ったかの様に、視線を合わして静かに口を開く。
「又、お越し下さい。但し、来られる際は電話かメールでご予約をお願い致します」
フードの男は慇懃な態度で会話を切り上げると、スーツの男は財布から一万円札を取り出し、テーブルに置くと、再度礼を述べて部屋を後にする。
「これで良い……」
フードの男は、椅子に座った侭顔を覆うフードを取り払い、蝋燭の光に照らされる。
その光りに照らされたフードの男の顔は、話されていた会話とは掛け離れて、男と呼ぶには若く、どちらかと云うと、青年、否、大学生と云っても差し障りが無い程に幼く見える。
「だが、未だ足りない」
男は、静寂を乱さない様な静かな声で呟くと、手近に置いている香炉を手に取り撫で回し続ける。
「支度を、しなければ……」
フードの男は、揺ぎ無い覚悟を感じさせる様に力強く呟き、窓際に歩きカーテンを開けると、秋の空は何処までも高く、太陽がビルディングの陰に沈み込み、空を、街を紅色に染め上げているのが見える。夕方の街には、朝には無い活気と、それに反する様な疲れが満ち溢れている。
「この世界は腐っている」
マンションの一室。十階建ての最上階に位置する部屋の窓から、男は吐き捨てる様に呟き、静かにカーテンを閉めた。
「この侭で良い訳が無いんだ……」
フードの男は、抜ける様に澄んだ空を見上げ、感情を押し殺した様に、抑揚の無く小さく呟いた。