三分の縫い目
その朝、目覚まし時計は三分早く鳴った。
いや、正確に言えば、三分早く鳴った気がした、というだけのことだ。
枕元のデジタル時計は七時。スマートフォンも七時ちょうど。
けれど冷蔵庫の上に置いてある小さな置き時計だけが、七時三分を指していた。
電池が切れかけているのだろう。
私――Sはあくびをしながら、そう結論づけた。
トーストが焼き上がる音と、電気ケトルが沸騰する音が、ほぼ同時に鳴った。
妙だ、と思った。
いつもは必ずケトルのほうが一テンポ先に鳴る。
トーストはそれに追いつくように、数秒遅れて跳ね上がる。
けれどその朝は、逆だった。トーストが先に跳ね、それからケトルがぴぃっと鳴いた。
ほんの数秒のずれ。気にするほどのことではない。気にするほどのことでは、ない。
駅のホームに立ったとき、二つ目の違和感が来た。
電車は定刻通りに来たはずだった。時刻表には七時四十二分発とあり、スマートフォンの時計もそれと一致していた。
けれど発車ベルが鳴ったとき、ホームの大時計だけが七時四十五分を示していた。
私は車窓に映る自分の顔を、少し長く見つめた。
目の下の隈が、昨日より濃く見える。時計が壊れているのだろう。家の時計も、駅の時計も、たまたま今日に限って狂っている。そういうことは、ある。そういうことは、きっと、ある。
会社に着いて自分のデスクにパソコンを立ち上げたとき、三つ目がやってきた。
「Sさん、昨日のメール、ありがとうございました」
隣の席のT先輩が、モニター越しに笑った。
「メール、ですか」
「ええ、夕方の。例の資料、とても助かりましたよ」
夕方。私は昨日、定時で退勤した。メールなど送っていない。
けれど送信済みフォルダを開くと、確かに私のアカウントから、昨日の午後六時二十七分付で、T先輩宛にメールが送られていた。
本文には「先ほどご相談の件、資料を添付いたします。
ご確認ください」とあり、私の覚えのない添付ファイルが付いていた。
ファイルを開いてみた。
見慣れない数字の羅列。統計データのようでもあり、暗号のようでもあった。
けれど資料として筋が通っている。項目立ても、注釈のつけ方も、私がいつも作るそれに、よく似ていた。
いや――まったく同じだった。
私が書いたものだと言われれば、私はきっと、首を縦に振ってしまうだろう。
「……ああ、あのメールですね」
私はとりあえずそう答えた。
T先輩は満足そうに頷いて、席に戻った。
昼休み、私は会社の近くの古い喫茶店に入った。
ここには、仕事に疲れるとよく来る。カウンターの端の席が、なんとなく落ち着くのだ。
その日、カウンターにはもう一人先客がいた。年齢の分からない女性だった。三十代にも、五十代にも見える。
黒いコートを着て、湯気の立つコーヒーを前に、じっと窓の外を眺めていた。
彼女の前にあるカップからは、いつまでも湯気が立ち上っていた。
飲もうとしない。冷めない。ただ湯気だけが、細く、途切れず、立ち続けていた。
私の注文したコーヒーが来るまで、店内は静かだった。
「今日、時計が合わないでしょう」
その女性が、こちらを見ないまま言った。
私は一瞬、自分に話しかけられているのか分からなかった。
店主は奥で皿を洗っている。
客は私たち二人だけだった。
「えっ……は、はい。なぜ、それを」
「合わない日があるんですよ。ときどき」
女性はようやく私のほうを向いた。顔立ちは整っているが、どこか焦点の合わない目をしていた。
胸元の、コートの内側にちらりと見えた名札のようなものに、「M」と刺繍されていた。
どこかの会社の社員証だろうか。私はそれを、仮に彼女の名前と呼ぶことにした。
「世界には、縫い目があるんです」Mは静かに続けた。
「布を縫い合わせるとき、ずれることがあるでしょう。糸がほんの少し引きつれて、布と布とが、数ミリ重なってしまうことが。あれと同じです。時間の布地が、ときどきずれる」
「縫い目」
「ええ。そしてずれた日は――いろいろな、小さな食い違いが起きます。送った覚えのないメールが届いていたり。会った覚えのない人に、挨拶されたり。飲んだ覚えのないコーヒーのカップが、シンクに置いてあったり」
私は、今朝からのことをほとんど話していない。それなのにMは、私の経験を言い当てていた。
喉の奥が、かすかに乾いた。
「どうすれば、直りますか」
「直すのではなく、慣れるんです。ほとんどの人は、気づかないうちに慣れて、忘れてしまう。けれど慣れたくないなら、ひとつだけ方法があります」
Mは紙のナプキンに、ボールペンで何かを書いた。どうやらこの街のはずれらしいが、私は直接聞いたことのない、おそらくは、もう使われていない住所だった。
「そこに、Kさんという人の店があります。『K書房』という看板を探してください。今夜、七時に」
Mはそれだけ言って、伝票を持って席を立った。店主に代金を払う際、Mは何も言わず、ただ軽く頷いただけだった。店主もまた、何も言わなかった。Mのカップには、冷めきっていないコーヒーが、まだ半分残っていた。
午後の仕事は、ほとんど手につかなかった。書類に書いた数字を、何度も見直した。ひとつ書くたびに、それが本当に自分の書いた数字なのか、分からなくなった。
定時になり、私はナプキンに書かれた住所をネット検索で確認してから、向かうことにした。地下鉄を二度乗り継ぎ、初めての駅で降りた。
駅前で地図アプリを使ってみてが、その住所を見つけられない、と言った。調べた旧住所の町名らしい場所の方に向かうと、電柱に「K書房」の表示を見つけ、その電柱の立っている道路角から見える灰色の細い路地の奥に、確かに「K書房」という木の看板がぼんやりと見えた。看板の文字は、墨で書かれたように黒く、これまでに雨に濡れたような跡がひとつもない妙に綺麗なものだった。
扉を開けると、ベルが一度だけ鳴った。店の中は、本と本の匂いで満たされていた。けれど、並んでいる本はどれも、私の知らない言語で書かれていた。あるいは、知っているはずなのに、どうしても読めない文字だった。目が文字の表面をすべる。指を置くと、文字の上を指がすべっていく。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、白髪の男性が顔を上げた。店の名前から察するに、この人がKさんで店主なのだろう。
「Mという方から、こちらへ来るように言われたのですが……」
「ああ、Mね。そうだね。今日は縫い目の日だから」
店主は皺の多い指で、一冊の本を私に差し出した。表紙には何も書かれていなかった。革の装丁が、手のひらに吸いつくように冷たい。
「これを、読む必要はありません。ただ、三分だけ、開いていてください」
言われるままに、私は本を開いた。
ページに、文字はなかった。代わりに、風景が広がっていた。紙の上に、私の立っている場所と、そっくりな街並みが広がっていた。同じ路地、同じ看板、同じ灰色の空。けれど、そこには誰もいなかった。車も、人影も、風に揺れる洗濯物さえなかった。信号だけが、誰のためでもなく、規則正しく色を変えていた。
私は、その静寂の街を、三分間見つめた。
そのあいだに、ページの隅を、黒いコートの女性がひとり横切った。こちらに背を向けて、ゆっくりと、路地の奥へ消えていった。湯気のような細い影を、後ろに引きずっていた。
本を閉じると、店主は黙って頷いた。
「あなたが今朝から感じていた違和感は、こちら側から漏れていたものです。ときどき、向こうの時間とこちらの時間が、三分だけ重なる。そのあいだ、あちらで起きたことが、こちらに紛れ込んでくる。こちらで起きたことが、あちらに落ちていく」
「あのメールは」
「あちらのあなたが、送ったのでしょう。あちらのT先輩に」
私は何も言えなかった。
「今日のずれは、もう閉じました。明日からは、時計は合います」
店主はそう言って、本を棚に戻した。棚には、同じように表紙の何もない本が、びっしりと並んでいた。そのうちの何冊が、誰かの三分間を閉じ込めているのか、私には分からなかった。
店主は、何も言わず、ただ、もういいよ、といいたげな表情をしているようだった。私は礼を言い、店を出た。路地を抜け、駅までの道を歩いた。日はすっかり暮れていた。振り返ると、「K書房」の看板は、もう見えなかった。看板のあった位置には、ただ、灰色の壁があるだけだった。
家に帰り、冷蔵庫の上の置き時計を見ると、他の時計とぴたりと同じ時刻を指していた。電池は、切れていなかった。
けれど、テーブルの上に、私が置いた覚えのないマグカップがあった。湯気はもう消えていたが、中にはコーヒーがまだ半分ほど残っていた。カップの縁に、うっすらと口紅の跡があった。私は口紅をつけない。私はそれをしばらく見つめ、洗いもせず、飲みもせず、そのままにして寝室へ向かった。
眠る前に、枕元の時計を確かめた。
十一時ちょうど。 縫い目は、閉じたはずだった。それでも私は、明日の朝、どの時計を信じればいいのか、分からないままだった。
そして、半分だけ残ったそのコーヒーを、明日の朝に飲むのが、私なのか、それとも、もう一人の私なのかも。




